2010/02/16
差出し不明宛名なし
2010/02/11
お風呂シンガーの皆様へ
あの汽車に乗って (People Get Ready)
さあ行こうか ほらもう待ってる
余計なこと考えずに
大事なのは 踏み出せること
胸張って 前を見て
さあ行こうか あの汽車に乗って
新しい色見つけに
グレイの雲 肩に背負うような
その部屋を抜け出そう
さあ行こうか 手をつないで
一緒なら 来れるかい
ほらあそこに一つ光っているものが何か
知りたいでしょ
ジ・インプレッションズがこの歌を歌っていたのは、ちょうどアメリカで公民権運動が盛んであったころだと、テレビで見知っていたのですが、私は当然生まれておらず、また、幸いなことに、差別を受けたようなこともございませんので、彼らのような意気込みで歌えるはずもなく、今の私が歌ってみると、元の名曲とは似ても似つかないような代物になるわけですが、それでもこの私の日本語版も、大それたことではありますが、何か彼らの歌と通ずるところがあるのではないかと、そんなように感じられるのですから、不思議なものです。
末永くおしあわせに ~四谷怪談~
ヲトコが好きだから、もおイケメ~ンってなったら逆ナンして一緒なって、でもダメンズだから男はサイテー。裏切られて殺されて、クヤシイシカナシイシ
幽霊になって男を祟り殺す。
実録、歌舞伎、合巻いろんな作で「幽霊になって祟り殺す」をしてきた(有名な『東海道四谷怪談』でもこのキャラだよね)ある日、ジョブチェンジするんだ。
妻 子持ちのタミゴロー(名前萌エの彼女はいつも似たよな名前に惚れる)がスキッ♡♡てなっちゃって、もう敵討ち諸国巡りで大変なタミゴロー夫婦だまして家に くわえこんで、タミゴロの足洗って「おまえのおみ足が洗いたくってしょーがなかったの」。幸せだったろーね。もっと「いやらしきこと」シタかったかもしん ないけど夫婦にすりゃうざいから、引っ越される。(ここら辺はいつも通り)
恋しさ患って、死んだ。
埋葬された遺体を狼が掘りおこす。
っと!お岩は死んでなかった、仮死状態だった(*^ー^*)∠※パパーン!!。・:*:・
狼は猟師に耳撃たれ、猟師は駈ける狼に逃げ、現れたのは以前お岩がいじめた狐;化カシテヤルゼー。髑髏に馬の骨さして狐の術、ホイ!お岩を幽霊になったつもりにした。
「幽霊になって男を祟り殺す」が商売だったお岩が幽霊気取りにジョブチェンジwて
「あたしは幽霊よ!男を殺してやるーー」そーれ、ってんでタミゴロの家いって男の首をチョーン!女の喉にガブー!(ほんとは南瓜ひっこぬいて石地蔵に喰らいついただけ。口から垂れる血は歯の欠けた自分の血)
びっくりしたのは村人、死んだはずの女が南瓜ぶら下げてヒエラヘエラ笑ってる。
タタリヂャー!
でもこの幽霊朝明けたどころか昼なってもいるし、足もある。ァ、ただの基地外だ(笑)
小学生には石ぶつけられたりしたけど、村の相互扶助は手厚くって畑の番すりゃおまんまくれる。流れもんと死裝束のまま(チョット白無垢っぽくない♪)蓮の葉かぶって(チョット綿帽子っぽくない♪)、シアワセナ祝言あげましたとさ。
(⌒▽⌒)/゜・:*【HAAPY WENDDING】*:・゜\(⌒▽⌒)
2010/02/06
一人称って変ですよね
数日前東京外大に行って柴田元幸、都甲幸治、和田忠彦のシンポジウムを聞いてきた。
お題は『現代文学と子ども』。
ここで内容を全部紹介するわけにはいかない(というかそもそも全部覚えてるわけないし)が、気になったことが一つ。
このお題とどう関わっていたのかは忘れてしまったが、都甲先生がバフチンのポリフォニー論を一人称に関しても適用できるのではないかという論を展開したのである。
バフチンのポリフォニー(多声性)論というのは、ドストエフスキーの作品においてはそれぞれの登場人物の様々に異なる主張や意見がことごとく対立したまま描かれているとか、そういうことだ。バフチンによれば、それまでの文学作品は、一見異なる意見を持つもの同士の対話があっても、最終的には作者の肩入れする方向に回収されてしまっていた。
三人称の小説であれば、作家が公正な審判のように、ある種の誠実さに基づいて人物を造形すれば、そういう優れたテクストができるのだろう、という気はする。それは「違う人を、違うように」描くということだからだ。
しかし、それは一人称でも同じことなのである。私たちは、日常的に「同じ人を、違うように」提示し続けている。例えば以前千歩くんが言ったように、私たち日本語話者は、当然のようにさまざまな一人称を使い分ける。友だちの前では「おれ」、先生の前では「ぼく」、面接官の前では「私」など。そのことについていちいち混乱を覚える人はあまりいないだろうと思う。なのになぜ、小説の中ではあれほど人称がきっちり統一されるのだろう?
2010/02/01
短めの小説
「こんにちは」
「・・・・・」
これだけだ。これがわたしの新作のどうやら全てのようで、その先はいくら粘っても聞こえてきそうになかったから、無理にその先をこじつけるようなまねはしなかった。
こじつける。そうだ、まさにそんな感じだ。自分に鞭打って机に向かっていた時はいつもこじつけるかんじがして、そうじゃなくてとつぜん頭の中に鳴り響くような稀なときだけ、わたしの小説は自然に進んだ。
2010/01/26
《顔》
ここはファーストフード店の喫煙室で、仕事を終えて疲れたサラリーマン、友人の悩みを大げさに同情しながら聞く中年女性、げらげらとはしゃぐ学生たちが、同じ空間にいながら、違う世界、違う時間を過ごしている。やがて手元のコーヒーやコーラ、フライドポテトなんかがなくなり、最後の一服を終えれば、またそれぞれの場所に帰っていくのだろう。そんななか、《顔》はずっと、同じ場所で、いつも同じ一つの席を、見続けている。その席に座った客のうち、いったい何人が《顔》に気がつくだろうか。今座っている男のように、視線にすら気がつかないのがほとんどだろう。それでも《顔》は見守っている。
男がタバコの火を消した。さっきより少し表情が和らいで見えるのは、コーヒーとタバコのせいだけではないかもしれない。
2010/01/23
コラージュ@京都(去年のことだけど)
まずはこれを開いて音楽を再生して。再生する音源はどれでもいい。
20畳ほどのフロアで踊る客は少なめ、左に右に体をすべらせるステップ、流りなのかみな同じようなステップ、混雑に体同士をぶつからせることもなく銘々が音楽と踊りを堪能している、のだろう。足につれて世につれ、ゆらす頭は朦朧と酩酊してくのは酒にか音楽にか攪拌された意識の粒はイザ、ビートごとに飛びだしてく交感、うねって戻ってく瞬間
小さいハコだとありがちなのは閉鎖感。常連同士の、排除することで高まるナマカ(流行らなかったね(つд⊂))感、意識的・積極的に排除を進めてるつもりはないんだが、人口の83%が顔見知りとなったときに83%の意識から抹殺される17%、は思うしかないだろう――帰ってドラマでも見ヨッ☆……あ゛見たいドラマがなかった・・・orzそんな2009年
ではそ
んなことなかった。もっと正確にいおうKYOTO JAZZ MEETINGぢゃそんなことはなかった。ちっさなハコで、フロア20畳にラウンジ20畳。常連もいればそうぢゃないのもいる。それぞれがそれぞれで好きに自分たちの時間を酒で音楽で会話で楽しんでる。ソファでいちゃついてるカップルはご愛嬌の定番。微笑を誘う。こうでなくっちゃ!踊りながら体を寄せあうカップルもおなじ
波にさらわれて潮まかせな夜の魚たち、ながれの源は一段たかい壇上、刈り込まれた髭、夜を熱帯にするサングラス、クビでヘッドホンおさえ、手は自働的にさまよい音がひいてはよせるわだつみに、あしたはないと浜千鳥、たつは都の唐錦、いろも綾によする光、となりの男がくずおれた。呑みすぎ踊りすぎ楽しすぎ
DJブース上、沖野好洋は、兄沖野修也とKYOTO JAZZ MASSIVEをやってると言った方が通りがいいだろう。クラブジャズの定番(1)、と知った口たたくのは慎もう。。。でもクラブジャズてなに?都 会が夢でいられる音楽。都会ではオサレな男女がオサレなクラブでオサレな腰ふってオサレな時間に流されてゆく。もういまのニッポンぢゃ都会にユメなんかな いことはばれてしまってる。「都市の空気は人を自由に」なんかしない。でも都会に夢を感じることができる人はいる。もし少しでも感じられるなら、クラブジャズを聴いてみるのもいいかもしんない。
コラージュの客のありかたは見事にそういう意味でクラブジャズ的だった。都会が夢として存在してた。ちょっとその夜の客数は少なかったが、他人に干渉するこ となく(鬱陶しいナンパもないし)それぞれが自分の持ち分で楽しんでる。あの数時間だけ、コラージュの空気は「人を自由に」してた。そう思えば「コラージュ」って名前もふたむかし前のポップアートのステキさ、ニューヨーク的ステキさに繋がる。
(1)もう、音楽のジャンル分けは「みんながわかった気になれる用」に細分化されすぎて、かえって誰もわかれないアミダクジとしか思えないんだが、むかしTSUTAYAで沖野修也が「ラウンジ」となってたのは腑に落ちた。もうジャンル分けは音楽性じゃなくて雰囲気の問題でしかないんだ。あるいはジャンル分けはそもそも雰囲気の問題でしかなかった。
