あ、1本いいっすか?

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2010/04/05

車内妄想

投稿者 Chijun   4/05/2010 0 コメント

 午前8時21分発、埼玉から東京方面へ向かう上り列車に乗ると、Kは本を取り出し、アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。眼下には、眠る人のうなだれる頭が三つ並ぶ。左右には、横目に吊革を握る人の袖口から覗く白い腕首が見える。電車は混雑していたが、声を出すものはいない。Kの耳には耳鳴りだけが響く。目的地に着くまでに、電車は7つの駅に停車する。

――1年浪人、1年留年。大学を卒業したのが、24歳。誕生日は4月3日だから、1ヶ月経たないうちに25歳。それから2年。この2年で、自分は何をしたか? 作家志望のフリーター君、君の仕事一覧をプリント・アウトしてみたまえ。たいした時間もかからずに、ほとんど真っ白のA4用紙が吐き出されることだろう。……

 Kはズボンのポケットの上をなぞって触感で探り、アイポッドの再生ボタンにあたりをつけて圧力をかける。少しの間を置いて馴染みのない聖歌が女声合唱のア・カペラで歌われるのに続き、皺枯れた、だが軽みのある男声の、英語の朗読が流れ出す。Kは手にした翻訳書の該当部分を追っていく。

 Kを乗せた電車が2つ目の駅に停車する。雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認すると、アイポッドから流れ出る朗読はそのままに、Kは本から目を外す。

――よし、今日はあのじいさんにしよう。……雪崩れ込む乗客の中に一人、ビッコをひきずりながら腰を曲げ、獣のように頭を低め、猛然と人波を掻き分け突き進み、何としても吊革を占拠しようとする老人が居りました。両隣の人を押し退けるようにして自分の場所を確保すると、スッと腰を伸ばしてギュッと吊革を握り締めました。してみると身長は意外にも高く、170センチを超え、体格も急に立派に映りました。体重は70……72キロ。頭はてっぺんまで禿げ上がり、――頭頂部は赤ん坊の肌のようにスベスベで―― 後頭部には、悔い多き人生への未練を切々と訴えるようなうぶげたちがまばらに生えています。目は穏やかさを湛えながらもキリッと引き締まり、周囲の人々に見られているのを過剰に意識するかのように、ぎごちないほど真直ぐ前の一点を見つめています。スッと伸びた外国人風の高い鼻の下のフサフサと豊かな口髭。年は? ……70歳。20歳の時に父親を自殺で亡くし、翌年奥さんになる女性と出会いました。……

 電車は3つ目の駅に停車し、Kはふたたび、雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認する。4つ目の駅にある共学高校への通学生徒数が、この駅でピークに達する。Kはポケットをなぞってアイポッドを停止し、わきかえる女子生徒たちを楽しむ。本は手に持ったまま、老人に視線を戻す。溢れ返る学生に、老人はソワソワしているようだ。電車が出発する。

――おじいさんはその翌年には結婚し、そのまた翌年の桜まいちるなか、可愛らしい男の子が誕生しました。二年後の冬、今度は女の子が誕生しますが、年明け間もなく死んでしまいます。希望に溢れたはずの赤ん坊の人生は、たった11日間で終わってしまいました。埋葬のとき、母親は毛糸でチョッキを編んでやりました。おじいさんとおばあさんの間に静かな、しかし永続的な緊張感が生れたのはそれ以来のことです。ホラ、おじいさんの思い詰めたようなあの眼差しは、悲しみに満ちているようではありませんか。ジッと見ていると時々若い女子学生の方にチラッと目をやるでしょう? あれはきっと、失った女の子の娘盛りを、17歳の花盛りの娘たちに思い描いているのです。……

 4つ目の駅で学生たちがゾロゾロ降りて行くと、確かに老人の眼は悲しみに翳ったようだった。幾分余裕のできた車内、老人の反対側に制服姿の美しい女子学生が残った。女子学生は窓から遠くを見る。車内にさしこむキラメク朝の陽射しが、波打つ黒髪にのって揺らめく。分けた髪のなかに覗く褐色の横顔は、――キュッと結んだ薄い唇は女王様気取り、でも丸い鼻にはあどけなさが残っている――ちいさいあごでスッとまとまり、細く長いくびがつづく。柔らかい髪がやさしくつつむように、くびにまとわりついている。手を半ばおおうまで伸ばした紺のセーラー服からチョコッとはみ出た小さな手は、ドア脇のスチール棒を軽く握る。女子学生は上衣からスカートへと一本の曲線のようになだらかに続き、丈を詰めたスカートがふっくらしたももとももの間に陰を添え、その直下の膝がイヤホンから流れ出るのであろう音楽に合わせ、小気味よいリズムでたてに揺れている。Kはアイポッドのボタンをまさぐり、男声の朗読を流したままふたたび老人に視線を戻す。老人は自分とは反対側斜め後方にいる女子学生を、窓の反射を利用して、相手に気付かれぬまま盗み見る。電車は5つ目の駅に向って出発する。

――おじいさんは毎朝起きると一番にトイレに行き、ズボンを下ろし、裸の膝をむき出しにします。便座にどっかりと腰を下ろして深い溜息を吐き出し、亡き娘のことを思い浮かべるのです。亡き娘を、17歳の若く美しい姿で。街中の人混みをキビキビと直線的に歩く後姿、まるで女王様のように誇らしげに、尻を左右に躍らせて。でも前に回り込んで女王様の顔を覗けば、強く結んだ小さな唇をつけたその顔には、幼い頃から変わらない、あどけない鼻が残っているのです。小さいときからずっと傍で成長を見届けてきたおじいさんは、そのことをようく知っているのです。そして知っていることに自信を持っているのです。立派に育ったあのオシリだって……。あいつは本当にいい子で、反抗期もなかった。末っ子だから可愛がられかたをよく心得ている。クリクリのオメメで表情いっぱいニッコリ笑顔を浮かべる。そうしてその眼を逸らさずにジッと見つめてくる。すると大人の方が照れて、こっちから先に眼を逸らしてしまう。フンッ! おじいさんは便座に腰掛けたまま、木戸に手を伸ばし、手を上下に動かして、さらさらとした木の触感を楽しみます。年頃の娘の肌を思いながら。きっとこんなのに違いない。でも触って確かめるわけにはいかない。そんなことしたら嫌われてしまう。下水道を這いずり回る鼠のように。――やっぱりあなたも……。一定の距離を保ち、その美を讃美する視線を送る限りにおいて、あいつは拝謁するものにクリクリの笑顔を授け与えるのだ。……ちっ、スケベじじいが!

 老人は窓に映る女子学生をじっと見つめ、ズボンのポケットの奥の奥にまで手を突っ込み、眼をキラキラと輝かせ、キョロキョロしている。電車は5つ目の駅を過ぎて6つ目の駅に向かう。この駅間が長く、15分を要する道のりである。Kはふと便意に気づく。排泄を日に3から4度少しずつ分けてする習慣のあるKにとって、朝早い仕事を選ぶ際の大きな難点の一つだ。家で一度済ませても、職場につく前には二度目の便意に襲われる。
 女子学生は、スカートからあらわに覗く肉付きのいいフトモモでリズムをとる。

――タン、タン、タン、タン。コシ、コシ、コシ、コシ。タン、タン、タタタン。コシ、コシ、コシコシコシ。……恐らく32年前、老人は亡き娘を偲びながら、便所のなかでしたのだろう。32年前? ボットン便所だったろうか、祖父の家のあれのように。してみると、土間だったかもしれない。先ずは排泄を――アレも結局は排泄だが――済ませてから。季節は冬、冷たいコンクリートのように固い土、またぐらからのぞく光の届かぬ穴の底、永く深い暗闇、折り重なるように蓄積された、ひり出された人の垢。憎悪の様に激しく腹をつき上げる便意、頭は真空の白に近づき、死に接近するように頬はどんどん蒼褪めて、いつでも出せる、便器はすぐ下にある、それでもためらうように、腹がいたむ! 嘲笑って銀蝿が踊る、眉毛にとまる、悪臭が鼻から頭頂を貫く。流れる血が手の先、足の先までニオイを運び、悪臭と――この部屋の空気と、全身とが一体になる。穴の底には鼠が巣食っているのだろうか、それとも鼠の死屍が今まさに腐りつつあるのか、地下水が滲みだして暗く湿った穴の底、バキューム・カーに吸い余された世々の垢が少しずつ積もり、父の、祖父の、曽祖父の垢が薄く堅固な層となって一枚一枚つみ重なったもの。ここで、曽祖父は弟を殺した後に一息つき祖父は腕をまくって戦争の銃痕を確かめ父は自殺する直前に、この便所で……。この穴の底には、土俗的な、血族的な、逃れられない無限がある。奔流の音を立てて水が、陶器の肌を洗い流すこともない。おうちに帰るまでこらえ切れず、うんこしないとくちからもどすわよ、先生の脅迫に怯えた憐れなこどもとて、逃れられないのだ。そう、傲岸不遜に涙で訴える我がままなこどもにとってここは、懲罰部屋でもあった。この個室には、時間を越えて、恥辱と憎悪が集中している、この一点に――。ボットン便所の薄い壁一枚隔てた西側の部屋では、祖母が、今まさに死につつある祖母が、二度と起き上がることができず蒲団にからだを侵食されつつある祖母が、幽かな、規則的な呼吸音をたてていたのだ。そんなトイレで、おじいさんは、(電車は6つ目の駅を過ぎる。最後の駅は近い。)――ボットン便所の底にフンを落とすといそいそとふりかえり冷たいつちの上にむきだしの膝をつき尻にこびりついたくそはそのままに先ずはやさしく下からなでて形がととのったら手をまるめ次第につよくはやくはげしく父をも赦す女の慈しみの幻想に抱かれて
 老人はうなだれる。

 7つ目の駅に着くなり、Kは電車を飛び降り、人ごみを掻き分け、トイレに駆け込んだ。イヤホンからは、章の終わりにもう一度、聖歌が流れていた。

 女声ア・カペラで。

《処女マリアよ
そは罪人の鎖を解き
盲人に光を与え
われらの悪を清め、……

 しだいに、よわく……

2010/03/31

ブランコ

投稿者 じん   3/31/2010 0 コメント
 アルバイトへ向かう多摩都市モノレールが住宅街の上を通り過ぎていく。何の変哲もない、少しさびれた住宅街。その一角に、不思議な公園がある。家と家の間の空地のような空間。それでも看板が歩道に面して建っているので、一応名前のついた公園なのだろう。一面の芝生の真ん中に一台のブランコがある。
 公園のブランコと言えば、小さいものでも大抵横並びに二つは鎖でぶらさげられた板があって、友だち同士二人並んでぶらぶらやるものである。すれ違いざまに顔を見合わせたり、どこまで高く上がれるか競争したりする。そしてスウィングの勢いにまかせて飛び降りて、どこか別の面白いこと、砂場や滑り台、ジャングルジムへと駆け出していくものである。しかし、この公園のブランコにぶらさがっているのは一つだけ。

 そのブランコに、時折、一人の少女が揺れている。たった一人、一人用ブランコがあるだけの公園に、いつも同じ、小学校四年生ぐらいの女の子が、立ったまま、勢いよくブランコをこいでいる。

 寂しそうに座ってこいでいてくれたほうが良かった。そうすれば、何か悲しいことがあったのだろうか、もしかすると、学校でいじめられているのかもしれない、と心配することができる。座ってこいだブランコが大きく揺れることはないから、もしかしたらそこにブランコがあることに気づかず、ただの空き地と気にも留めずに通り過ぎてしまったかもしれない。彼女が元気に大きくブランコを飛ばしているから、僕はいつも彼女を見つけ、そして困惑してしまう。どうしていつも一人なのか。どうしていつも勢いよくブランコをこいでいるのか。どうして大好きな犬のぺロちゃんや、お友達のじゅんくんと駆け回っていないのか。どうしていつも晴れた芝生が緑色に輝いているのか。
 彼女はいつもブランコに乗っている。けれど、いつも彼女が公園にいるとは限らない。彼女がいなくても、公園はいつもそこにあるから、その公園は彼女が現れるときだけそこにある、異世界的公園なのではないかと心配したり、興奮したりする必要はない。それは何の変哲もない住宅街にある、ちょっとだけ不思議なただの公園である。僕はいつもその公園をモノレールの窓から見ている。
 公園の名前を確かめにモノレールを降りたことは、まだない。

2010/03/27

ファンと書いてアニマル浜口と読む

投稿者 福田快活   3/27/2010 0 コメント
ちょっと異色のエントリーを紹介。このエントリーでポエミストはファンを減らしたに違いない。今後が心配される。今回引用者の指摘は〔〕でくくりました。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ほんまむかつくわ。ほんッッまむかつくわ。
ほんまむかつくわ
こんなむかつくやつおれへん。
ヤ、わかってんねん。こんな「むかつく」とかポエムやない言葉おれかて使いたないねんけど、今日はガマンならんねん。ちょっと言わせてくれ。

ポエマージョンや。

なにもんか?て、そんなんおれかて知らへん。いきなしメール寄越してきよって、そんなんこっちかて期待するやんけ。初ファンメールやで。ほんまはじめてするエッチみたいな期待が胸をドキドキさせるやんけ、ヤ、もちろんおれはセックスとかそんなんむっちゃ一杯してるけど、やっぱベッドに並んで座ってる子と会話とぎれたマ!とかドッキドキするやんけ。

せやのにいっきなしコメントするんでもなし、メール寄越してきおってこれや↓

こんにちわ。いつも楽しく読ませてもらってます。ポエマージョンです。ポエミストRYOICHIさんのポエムはいつも人生の応援歌として三木道三『Lifetime Respect』とループで聞かせてもらってます。〔ポエミストは時々ポエムの朗読をアップしている〕なんか他人な気がしないんです。

ポエム愛。ポエミストさんはポエム愛にあふれてますよね。ポエムっていいよね、ぼくほんとうにそう思うんです。だって人生に意味をくれるのはポエムじゃないですか。つらいとき楽しいとき苦しいとき嬉しいときしあわせなとき……そういう「とき」に気づかせてくれるのはぼくの中でポエムが生まれたときです。一篇の真実が80年代のバブルみたいにふわっと生まれてはじける、その一瞬がポエムなんです。なんてポエミストさんに僭越なことを。しょせんぼくは比較級のポエマーですから(笑)失礼の段ありましたらお許し下さい。ポエミストさんの更新楽しみにしてます。
出羽出羽

ありえへんやろ?おれのブログ読んでるみんなならわかるやん?「ポエムっていいよね、ぼくほんとうにそう思うんです。」はパクリやん。おれのエントリー「ポエムってええよな。おれそお思うねん」〔ハイパーリンク削除〕のパクリやん。ポエムはな、個人の内面を素直にありのまま詠いあげるのが信条や、ポエミストはとうぜん、ポエマーでもパクリは御法度やで!ポエムと80年代のバブルとかほんま関係ないし、出羽出羽とか意味わからんし、なんかバカにされてる気ぃするし、なにがいちばん許されへんってこいつ男やん!おれが初めてのチューや思うてドッキドキ眼開けたらそこにおったんわ眼閉じて唇そぼめたアニマル浜口やった……アカンへこんできた。

もう寝るわ。ほんまもー男はメールとかせんといてや。頼むわ。お腹いたなってきた(T_T)女子はバンバン送ってくれてええからな。待ってるで(ハート)

こんなエントリーを読まされたポエマージョンの反応が気になるねー。ふたりの友情物語それはまた次回~~

2010/03/26

路地logyの日曜日

投稿者 サトウ   3/26/2010 0 コメント
 日曜の午後、東京の路地を半日歩き回るという奇妙な体験をした。最初はただ友人と昼食をとるのにいい飲食店を求めてぶらぶら歩き出しただけだったのだが、「ちょっとあっち行ってみるか」「もうちょい行ったらいい店あるかもしれないしな」などと衝動にまかせて進んでいくとなんだか楽しくなってきて(天気もよかったし)、そのままなんと半日(ちょっと都電にも乗ったけど)歩き通してしまった。大通りから生活感漂う細い路地に入っていくと、なんだか不思議な印象にとらわれて、どうにも足が止まらないのである。汗まみれだし、足の裏も痛い。しかし止まらない。もはや自分たちの意志を超えた何者かがわれわれの足を動かしているとしか思えない。都電の終点の三ノ輪橋付近で日が暮れたときには、二人とも「これでようやくやめる理由ができた」、と思わず安堵のため息を漏らしたほどである。高田馬場から歩き出したときには、まさか夕方三ノ輪橋駅にいようとは思いもしなかった。

 なにがこれほど私たちの心をとらえたのだろう。大通りから細い路地に入っていくときの、あの高揚感はなんだったのか。名付けて路地ロジー(Roji-logy)である(くだらないですね)。

 路地歩きは、私たちの日常的な行動様式から二つの意味でかけ離れている。一つは空間的な、もう一つは時間的な意味においてである。

1) 空間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な空間が、室内と街路との間にあるように、私的/公的の安定した境界を保っているのに対し、路地歩きにおいては、そのような空間の諸機能の間に引かれている境界線の揺らぎが起こる。車も通れないほどの細い路地に入り込むとき、定義上は公的な空間、すなわち「誰が歩いても許される道」であるはずの路地が、立ち入ることをためらわせるほどに私的な空気を横溢させていることがわかる。両脇に迫り来る家屋が否応無しに視界の大部分を占め、玄関先におかれた金魚の水槽の水面ではじける泡の音、門に立てかけられた杖、時代に取り残されたかのように古びて傾いた木造の家などの放つ濃厚な私的気配が、窓を閉め切った室内の空気のように、静かに淀んでいる。

2) 時間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な時間が(どんな小さなものであれ)計画とその遂行の繰り返しによって成り立つとすれば、路地歩きはその正反対のものとして理解されるであろう。すなわち、進路の変更に次ぐ変更である。もっとも、変更されるべき進路があるのは日常的な時間から路地歩き的時間に移行する瞬間のみだ。その後は判断を可能な限り遅らせたまま歩き続け、分かれ道まで来たら直感にまかせて瞬時に道を選ぶ。路地そのものを味わうためには、路地がどこかへ向かうための一経路に堕してはならない。路地歩きは、前進することなしに成立しないのだが、同時に「どこか」を目指してはいけない、というジレンマを孕んでいる。

 以上の二点は緊密に絡み合っている。用事があって駅を目指して急いでしまえば、いくら空間的な味わいのある路地でも「ただの道」であるし、暇で目的なく歩いていても、そこが前述の「揺らぎ」ある空間でなければ駄目である。

 理論編は以上。次回(っていつだろう)は路地歩き実践編である。乞うご期待。

2010/03/21

電子書籍と紙の本(1)

投稿者 Chijun   3/21/2010 0 コメント

連載になるかどうか分からないけど,とりあえず(1)なんて付けてみた。

わたしはどちらかといえば本をそれなりに読んできた人間なのではないかと思うのだが,ルビ(ふりがな)に使われる仮名が,「ゃ」「っ」などの小さな文字を含め全て大きな文字である,ということに気づいたのは最近の話だ。実に恥ずかしい。(しかし,これ読んで気づいたひとも必ずいるはず・・・)

わたしはいま,「ゃ」「っ」と書いた。最初「ゃ」 「っ」と書いてみたのだが,二つのかぎかっこの間が離れすぎていてまぬけに見えたので,「 」を半角ものに直してみたのだ。「全角」(=1)や「半角」(=1/2)はパソコンをふつうに使っている人なら誰でも馴染み深いだろうが,これが本格的な組版(「印刷の一工程で、文字や図版などの要素を配置し、紙面を構成すること」by Wiki)になると,「三分」(=1/3)や「四分」(=1/4)のサイズなどまで調整することができる。こういうネタは広げればいくらでもあるのだが,要するに,本の紙面には,読者に意識されないような細かいところで,美しく,読みやすくするための知恵がいろいろと働かされているのだ。

「電子書籍」にまつわる話が,最近実に賑やかである。iPhone,Kindle,そして近日発売予定のiPadなど端末の充実が進むに連れ,これまで何度か頓挫してきた「電子書籍」が,どうも今回は本当に一般に浸透していきそうな勢いである。Amazonでは,誰でも簡単に,文章をデータとして登録することで自費出版が可能になる,という話もあるようだ。かくいうわたしも裁断機とドキュメントスキャナを購入し,棚を占領している本のうち,まずは文庫本から電子化作業をちくちくと進めている。裁断機でバスンとひと裁ち,スキャナでビュンビュン読み取るのに,一冊10分とかからない。きっとiPadも発売と同時に買うであろう。

これはある意味おかしな話で,出版社から読者の手元に届くまでにデータを紙に印刷したものを(元原稿が手書きのものもまだあるけど),また読者が手元でデータ化する,というこっけいな事態になっている。実際そう感じた人たちが,「著者→出版社→組版所→印刷所」という本を作るまでの流れの中で,人によって程度は異なるようだが,総じて「下流にいくほど不要である」という意見をあちこちに書いている。極論すれば,「パソコンがあってインターネットできれば,誰でも作家」ということになるだろうか。確かに,無名人わたしもここにこうやって,素人の手すさびのような文章を,不特定多数の読者の目に安易にさらすことをしている。

たとえば出版社(=編集者)が必要か否かという議論はおもに,「本の内容をブラッシュアップすること」に焦点がおかれているようだが,長い紙の本の歴史の中で培われた技術,たとえば上で簡単にだが述べたような,気づかれないところで読みやすくするような技術の蓄積についても,もう少し触れる人がいてもいいんじゃないかと思う次第です。

2010/03/15

とろとろと

投稿者 じん   3/15/2010 0 コメント
燃える火を見ている。

とろとろと、おれんじ色の火がゆらめいている。土産物屋の小さなガラス人形のようになめらかで、透き通っていて。火を絶やさないように、紙くずをくべながら、ただただ、それを眺めている。

はじまりは一枚のメモ。頭の中のもやもやに、かたちをつけることができず、ふと、火をつけてみる。じわじわと、はしからのみこまれていき、やがて、黒一色に消える。

憑かれたように、火をそだてる。小さな炉の中から、手を伸ばすようにして、そだつ。

やがて火は小さくなり、白い煙が部屋に広がり、満ちる。満ちる。解放されるような、包まれるような安心感は、ただ煙を吸いぼんやりとしただけか。

  このまま、とろとろ、眠りに、おちたい。

けれども隅の理性がそれを許さずに、きちんと火の始末やら換気をさせる。寝巻きに着替え、ベッドによじ登り、

あいつがうわさのポエミスト(最も詩人)

投稿者 福田快活   3/15/2010 0 コメント
第1章~人生はポエムや。おれそぉ思てんねん~

ちょっとおもしろいブログを発見した。感性と潜在能力だけでネットの広野を渡ってくブログ界のボブ・サップ、なんの努力もせずにオモシロでオンリーワンな90年代型ダメ人間のあこがれの的、唯一無二のポエミスト(最も詩人)だ。URLは貼らない。万一検索してブログ発見しても書き込みとかして刺激しないように。彼にはありのままの素直なジブンでいて欲しいから......

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
おれの名前は井ノ原良市(いのはらりょういち)。愛称はイノッチ(本名なのるとこが日本人離れしたセリエA級:引用者)。ポエミストや。ポエミストゆぅんはな、ポエム主義にしてポエム最上級、当然ポエットとかポエマーとかより↑や。てゆぅてもわかれへんわな。しゃあないねん。気にすんな。世界はヒロシやァゆぅても(「世界広しといえど」の誤か:引用者)ポエミストはおれだけや。ゆうたら未知との遭遇、知らんもんはな、人間理解でけへん。ソリャしゃあない。せやからこれからおれが、おまえらにポエミストってなんや?ポエムってなんやって教えたるわ。

人生はポエムや。おれそぉ思てんねん――これがおれの座右の銘や。わかるか?座右の銘。座っとるとこの右においてる言葉、が座右の銘や。あ゛。なんで右か?ってそんなんあれや、おまえ、なんや、右の方がとりやすいやんケ。そやで、右利きのんが多いからな。世の中。もちろんおれも右利きや(自分の座右の銘を解説せずに成句「座右の銘」を解説する人はじめてみた......:引用者)。右で箸もつし、ペンもそやし、握手も右、キャッチボールもみぎ、ん゛?キャッチボールどっちや?

最近キャッチボールしてへんナア。風がおれ呼んでるわ。コーンウォールの風、さわぐ金波――実り豊かな小麦や、お百姓さんがつくった小麦おいしいパンになんねん。人間パンないと食ってけへん。パンだけでも食ってけへんけどな。お釈迦様もゆぅとる。ふぐ、でも変やな。お釈迦様はインドの人やろ?インド人パン食うんか?そっか、わかったわ。「人はナンのみに生きるにあらず」や。ほんまはナンやねんけど、ナンではわかり辛いやろ思て翻訳する人がパンに変えたんや。騙されるとこやったでほんま。

これを座左の銘にしよ――人はナンのみに生きるにあらず。右が「人生はポエムや。おれそぉ思てんねん」。前と後が空いてんな。あかん。けちくさいことゆうたらあかんわ。四方どころか十六方位埋めたろ!・・・・・・・・・・・・あかん、ここで全部ゆうたらもったいな過ぎるわ。続きはまた明日や。ほなな。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

この明らかに、思いつかなかっただけなのに「もったいない」と虚勢張る〆といい、天才的なものを感じざるを得ない。ここまで他人を気にしない純粋な天才が棲息し続けられるほど、ネットは甘くも無関心でもないと思う。でも一方で賭けてみたい気もする。彼のような才能が路傍の花として咲きつづけられる優しさある社会を。生きとし生けるものが喜び、笑いさざめき慈愛に溢れる社会を。そんなネットの可能性に誰が期待してるのかわからないけど、とりあえず期待だけして何も貢献せず、ポエミスト観察レポ「あいつが噂のポエミスト」は続きます。ポエミスト井ノ原良市の才能が輝いてる限り。
 

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