あ、1本いいっすか?

Next Writer:Chijun

up-date: Sun, 18, Mar.


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2011/07/19

原始の雄叫び

投稿者 福田快活   7/19/2011 0 コメント
まちには臭いがあるんだってことに気づいた。

草いきれのもわっとした臭いはただ嗅覚だけぢゃなくて、肌にも感じられ、眼にもみえるかのような質量で迫ってくる。

近くに雑木林があるくらいで、他はただの住宅街だから、雑木林ひとつでこうも違うんだと結論づける。誰も手入れをしてるようにはみえない、野放図、やりたい放題好き勝手に草木が成長してる。「ヤホー!」叫びながらすくすく、幹・枝・葉をのばしてんぢゃないか。

そんなフリーダムな草木の跋扈を東京では感じたことがなかった。緑があってもそれは、丁寧に手入れ・矯正された金玉抜かれた草木の閉鎖病棟だったからか。いや、話はそんな簡単か。

ただおれが慣れて鈍感になってただけ。そう考えた方がいい気もする。馴らされ、矯正されてるのはおれの方。ん。そうだろう。なにしろ郊外ベッドタウンにいっただけで「草いきれ」って騒いでるくらい閉鎖病棟;東京につかってんだから。「ヤホー!」て叫びたい(笑)

2011/07/07

カンナとカカシ(14)

投稿者 Chijun   7/07/2011 0 コメント
 ひきつぎがすむとおばあさんたちはもうカカシに興味をなくしてしまったようす。鼻をおもいっきりかんで、いとおしげに鼻紙を見つめていた。
「こんなちいさな背中じゃ龍宮城にはのせていけないが、木の実があるところくらいなら教えてやれるぜ?」右の頚は得意げだ。
まんなかはうつむいて黙ったまま、こちらを見ようともしない。
左はあいかわらず「ティッシュ! ティッシュ!」とうるさい。
するとカカシの背後からぬっと手がとびだしてきて、緑に汚れた鼻紙をやかましい左の頚におしつけて、ぐりぐりと。ティッシュに顔をうもれさせて、左もようやく静かになった。



カメとは思えないほど速い三ツ頚の四つ足の回転を、そのうしろにつけながら、カカシは見下ろしていた。しかし手のひらサイズのカメがいくら回転数を上げたところで、歩幅が大きくなるわけではないのだから、そこはやはりカメらしく遅々とした歩みだ。カカシはときどき右を見たり左を見たり、あるいは立ち止まって物思いにふけったりしながら、ゆっくりとカメのうしろを歩いていた。

「……そこに咲いてるのがカトナウヘで……そっちであたまを垂れてるむらさきのがジェントリウムで……って、おい。おまえ話きいてないだろ?」
あんまりカメの歩みがおそいので、カカシはすっかり飽きてしまっていたんだね。注意されたところで、ぼうっとかすんだ眼をカメの方にいっしゅん向けただけだった。
「仕方ないさ」まんなかが、右をなぐさめるようにいった。「こんなところにくるやつだ。じぶんのことにしか興味がないのさ。そういう奴にかぎって、たいてい陳腐なキャラクターなのはどうしたわけだろう? 『オレじぶんのことにしか興味がないから』っていうセリフじたい五万てやからがあっちでもこっちでも今日も明日も明後日も繰り返しているのに気づかないとでもいうのだろうか? いやいや。かりに気づいているとしたって、それでもくりかえして五万とんで一人目になろうなんてのは、没個性もいいところさ。そんなたいくつなじぶんばかりみてたって、楽しくなんてありはしないだろうに!」
「おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ、おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ、おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ……」左がうたうようにくりかえす。
「うそつきやがれ」と右が返した。「おまえみたいにどうしようもないバカな奴に、じぶんのことがすこしでもわかるってのか?」
「君みたいに奇矯な人格にこそ、神は自ら省みる術を与えるべきだったね。きっとじぶんを見ているだけで、一生たのしくやり過ごせたさ。まわりに迷惑をかけることもなく。……しかし我ら憐れなる存在よ。じぶんのなかに引きこもろうったって、こうも両脇でぎゃあぎゃあやられたのではたまらないね。せめて僕一人だけでも、別のこうらが欲しかった」

とまんなかが嘆いたところで、一行は(といっても一人と一匹だけだったけれど)見晴らしのいい丘の上に着いた。

丘のむこうには、イルミネーションにかがやく観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランドが見えた。つまりそこは、まるで遊園地のようだったんだ。

振り返ると、見わたすかぎりとおもわれた花畑が、カカシの視線のずっと先で円形にくらい壁でかっきり切り取られていて、そこがある種の屋内庭園になっていたのがわかった。

ふたたび前を向くと、「ようやくだな」と右が教えてくれる。「見えるだろ? あそこでおめあてのもんが手に入るぜ」

丘をくだってさらに進むと、観覧車はだんだん大きくなり、ジェットコースターも見上げるばかり、メリーゴーランドから流れる電子音もどんどん大きくなってきた。

しかし大きくなったのは、遊園地ばかりではなかった。遊園地にむかう一人と一匹の後ろにはいつのまにか列ができていて、みんな大声ですきかってなことをしゃべってるんだ。よく見ると、カカシが出会ったひとばかりじゃないか! カカシに気づくと、

「小さな精神に目覚めかけた愛……くふっ。ついにここまでたどり着いたんだね。カンナのよろこぶ顔が見えるようじゃないかい?」ジェントルマンはにこにこ顔で、カカシを祝福するようだ。
ジェントルマンの後ろには見たことのない人が立っていたけれど、その優しげな声で、「こども電話相談室」のお兄さんだというのがわかった。「やあ、やっと会えたね。思ったとおり、君はまだまだ一人じゃ何もできない、ちいちゃなこどもだ。でも心配ないさ、僕たちが見ててあげるからね。」
ミカチンとアヤタンは、灰色の瞳をきらきら、黒いスカートをふわりふわりさせながら、「よくがんばったね! あとすこしで君のねがいもかなうよ」「ほらぶすっとしてないで、うれしいなら素直に笑ってごらんよ」と高い声だ。
そのうしろではマスクをしたおばさんが、モップをステッキのようにふりまわしながら、たんたかたかたん踊りくるっている。本人は踊ってるつもりでも、これじゃあ暴れてるのとかわりない。

2011/06/22

機能している道具は見えないらしい

投稿者 じん   6/22/2011 0 コメント
非常に個人的な話だが、25歳にしてはじめて実家を出て独り暮らしをすることになった。これまでものを捨てられず、手元にものが溢れていくタイプだったので、この機会に自分にとって最低限必要なものだけをもって、自分的ミニマルライフを始めたいと思っている。

30Lザック、仕事用のポーターの斜めがけ、両手にキャリー。旅なれない旅行者の長期旅行のようないでたちで、でも心はいざシンプルライフへ!と思って2日目。どれだけ多くのものが、意識されないほどに生活にとけこんでいたのかに驚いている。

トイレに入れば紙がない、タオルがない、風呂に入れば洗面器がない。食パンを焼けば皿がない、バターナイフがない。いつもの寝巻きがない。足りないものは必要になったら買おうとは思っていたものの、実際に使用した場面になるまで意識していないものが、こんなにあるとは!

実家を出たかった理由のひとつは、当たり前にあることのありがたさを知りたかったからだった。この先の、やば!あれないじゃん!が、少しだけ楽しみでもある。

2011/06/18

赤いツァーリ

投稿者 福田快活   6/18/2011 0 コメント
エドワード・ラジンスキー『赤いツァーリ』を読む。ロシア史を知ってないとわかりにくい部分はあるけど、おれはところどころ「なんでいきなりこんな展開なってんだ!?」って取り残されたけど、スターリンの悲しみというか孤独が身体中に広がる。スターリンは「頭のいい岡田以蔵」だった。汚れ仕事、表に公表できない仕事のスペシャリストとして頭角を表していく。リーダーに見捨てられる。そのあとが道の分かれ目。どっちがよかったんか、ちうかスターリンに殺されまくった人間からすれば、覚醒せずに埋もれてたらよかったやろうけど。あ、トロツキーはイヤミなインテリってことがわかったwww

2011/06/04

カンナとカカシ(13)

投稿者 Chijun   6/04/2011 0 コメント
三ツ頚がてんでばらばらにしゃべりだしてね、いっぺんにその場はにぎやかになった。眼をまるくしているこどもをおいてけぼりにして、なまいきそうな右の頚、あおざめたまんなかの頚、まのぬけた左の頚がかってにしゃべりつづけている。

「一度ならず二度までも……」
「僕ら奇形に生まれ出ずる悩み……」
「はなみじがはなみじが、ふがふが」

「こどもというのはまったく残酷、われわれのきもちわるさを大人ほどに理解せず、いともたやすく触れてくる……」
「しかし、待てよ。奇形にも二種類あって、その意味で僕たちは持たざる者ではなく、むしろ多くを持つ者といえる……」
「ティッシュちょうだいティッシュ!」

「カメといえば、ユートピアへのきちょうな導き手じゃないか?」
「世界のうちで僕たちほど歩みの遅い者はない。なるほど。世界……」
「ああ! こぼれちゃった」

三ツ頚のおしゃべりはいつまでも終わりそうにない。そのすきにそっとこの場を逃げ去ろうと、カカシはうしろを振り返った。するとさっきまで座っていたベンチに二人組のおばあさんがこしかけていて、こっちを見ながらなにやら話しあってるじゃないか。

「まここったったっ」「だゃだゃーまったがけえってみっくけなあて」「そんなたらしぃこてぃったって」「でゅうむらりい……」

ふたりともずいぶんせっかちなしゃべり方で、あいてが話しおわるのをまちもしない。カカシには、なにをいってるのかさっぱりわからないほどだ。
おまけに左側のおばあさんはひどいだみ声で、右側のおばあさんは、使いすぎてしまったせいだろうか、片方のまぶたがめくれあがって、もどらなくなってしまっている。これはずいぶんおそろしいおばあさんたちだ。ところがその顔は、どこかで見た気がする……



いがみあっているだけにも見えたふたりはどうやらなにか結論がでたようで、うなずきあうとそろってぱんと手を鳴らし、カカシにむかってずんずん進んできた。立ってみると、ふたりともカカシの半分ほどしか背丈がない。
ダッタタ、ダッタタ、ダッタタ。
片足を引きずりながら、おばあさんたちがせまってくる。
うしろではあいかわらずカメたちがぎゃあぎゃあやっている。
もういちど前を見ると、おばあさんの顔がすぐそこに。めくれてしまったまぶたのしたの眼球が、乾ききって死んでいる。

こんなところ、楽園なんかじゃないや。眼が覚めるとみにくいものにかこまれて、そうしてみると、刈りそろえられた芝生もとつぜん人工的に見えてきて、深い青の海原もたんにちっぽけな池にすぎなくて、カップルがボートをうかばせているだけの、どこにでもある公園のいつものつまらない風景にしかおもえない。

ああ、これで終わりなんだ。ありがちな童話みたいに、わるいおばあさんに食べられて。



カカシにぴったりくっつくまでに身を寄せてきたおかしな眼のおばあさんが、カカシの手をぎゅっと握る。
するとカカシの手のなかに、携帯電話がもどってきていた。

ーーケータイを持っていってしまったのがアヤタンで、もひとりの優しいほうがミカチンで。ああ、そうかそうか。おばあさんたちの顔はすっかり崩れてしまっている。けれど、それでもどこかあのかわいらしい女子高生たちの廃墟をのこしていて、ーーそう、まるで、ふたりの時計をすすめてしまったような姿だ。

ふたりはそろってカカシの手を取ると、おおきく口を裂き、にっこりわらった。ぽっかりあいた穴には歯が一本もなくて、ひどいにおいがたちこめている。おもわずカカシが眼をそむけようとすると、ふたりはカカシをカメのいるほうへやさしく導いた。
ーーわかってるさ、といわんばかりに、カメはこちらを見てにやにやわらっている。

2011/05/24

春の麦星

投稿者 せんちゃん   5/24/2011 0 コメント


「あの明るい星ですか?うわあ…」


 五歳も下の後輩が思わず声を上げたのも無理はない。山深い長野の町にあっては、霞がかって薄れてしまう春の夜空も、澄んだ美しい冬空のように見えてしまう。四月の末日にもかかわらず、コートがいるほどに冷え込んだ町で、片道三十分もかかる温泉からの帰り道である。こうして春の夜空をきちんと見るのは私もはじめてのことだから、ふたりしてずいぶんとはしゃいでしまった。夏は美しく金色に染まる麦畑の狭間を弱いライトで照らしながら、数センチ先の足元も見えない暗闇に立ち、ふたりで空を見上げていた。


 春にひときわ輝いて見えるのは一番星の金星だが、次に眼につくのがうしかい座のα星、オレンジ色のアルクトゥールスだろうと思う。北斗七星の末端からカーブを描き、アルクトゥールス、おとめ座のスピカと結ぶ著名な春の大曲線―ここまではっきり空に弧を描いたところを私ははじめて見たような気がする。夏のさそり座アンタレス、冬のおうし座アルデバランなど、赤星は黒い夜空によく映える。


 野尻抱影の『日本の星「星の方言集」』を開いてみると、アルクトゥールスはどうやらある地方で〝麦星〟と呼ばれていたようである。麦が熟れる頃に昇ってくるためということも書いてある。この偶然を私はとても嬉しく思った。先にも書いておいたように、私たちが星を見ていた場所は、眼を見はるほどの金がうねる麦畑である。あの光景は夏にしか見ることができないのだから、金色の麦と麦星とを、一緒に見ることはできないのだ。とても切ない話である。だからこそよりいっそう、この星に対してもこの土地に対しても、私は深い愛着をもった。今やすっかりなじみ深くなったこの土地を、私はこれからも見守っていきたいと思うのである。


 五月二十二日の今日、東京は昼下がりからひどい夕立ちに見舞われた。芳しい雨の香りがまた鼻をつき、見上げればいくつもの色を重ねた水彩の雲が漂っている。あの雲の上にもきっと煌びやかなアルクトゥールスが高く高く高度をとり、東京の街を見下ろしていることであろう。

2011/05/21

書籍とは何か

投稿者 じん   5/21/2011 0 コメント
先日、原研哉氏と永原康史氏のオーガナイズによる「言葉のデザイン2010ーオンスクリーン・タイポグラフィを考える」の第7回研究会「印刷とweb/文字を透視する」に参加した。講師はデザイナーの田中良治氏と、アドビシステムズの山本太郎氏。

田中氏がデザインした、時間の経過とともに崩れていくフォントは、「文字は動かない」という期待を裏切るもので興味深かった。しかし個人的には山本氏の書籍に対する愛情のほうがより力強く響いたので、今回はそちらを紹介したい。

■書籍とは内容と形態の統合である

書籍とは何だろうか。ちょっと考えてみて出てくるのは、「紙に何らかの情報が印刷され、綴じられたもの」といったところだろうか。研究会でアドビの山本氏の論では、書かれた内容と、その見せかたが、密接に結びついたものが書籍である。現在書籍といえば紙がまだまだ代表格。紙に印刷するということは、レイアウトが製作者の意図した形で固定されるということである。行間、字間、字体や、図の配置、余白のデザインはもちろん、綴じかた、装丁に至るまで、「本」に含まれるすべての要素は、内容や、作られた目的に沿った形に作られる。このように内容と形態とが統合されているのが書籍である。この内容と形態はタイポグラフィが長年の歴史で目指してきたものでもある。

■WEBは内容と形態を分離してきた
ふ
タイポグラフィは、レイアウトを固定することで読みやすさを追求してきた。一方WEBは表示される文章のデータと、それをどのように表示するかという体裁のデータを分離する方向で進んできた。ブラウザのウィンドウの幅を変えれば、それに応じて1行の長さが変わるのはそのためだ。レイアウトを固定しないことで、PCの大きなスクリーンから携帯電話のような小さなスクリーンまで、どんな環境でも同じ文章を無駄なスクロールをすることなく表示できる。ただし、これは読みやすさを追求してきたタイポグラフィの考え方とは矛盾する。

■読みやすくなければデジタル「書籍」ではない

今、書籍のデジタル化が注目されているが、文章をテキストデータに置き換えただけでは、書籍とは言えない。紙をスキャンしたPDFも、レイアウトは紙に適切なものである。画面上でも見やすいとは限らない。デジタル書籍が「書籍」となるためには、タイポグラフィの理想を貫き、媒体に応じたもっとも見やすいレイアウトをとらなければならない。山本氏はそれを実現するのがこれからのデザイナーとエンジニアの仕事だと力説していた。

■書籍に形はない

永原氏から、書籍にきまった形は存在しないという、山本氏とは違った視点も提供された。アルタミラの壁画から、古代中国の甲骨文字、木簡、葦を原料とするパピルスと来て、紙は文字情報としては非常に新しいものである。今後もどんどん変化していくだろう。500年後に何が書籍と呼ばれているか、確かにまったく予想がつかない。

余談。

タイポグラフィ――印刷物のレイアウト・見せかたについては無知であるが、印刷とWEBの文書についてAdobeの中の人の話が聞けるというので楽しみにしていたこの研究会。「書籍とは何か」について面白い話を聞くことができた。また、デジタル技術が進み、マルチメディア、マルチメディアと騒ぐ割に、人々はメール、Twitterとどんどん文字に執着しているという指摘も面白った。何台ものMacが並び、前方スクリーンに講師のプレゼン資料が表示され、その横にはTwitterのタイムラインが流れる。Ustreamの放送をみながら、会場で話を聞きながら、みな「書籍」になりえないただのテキストを垂れ流す。

文字情報は静止画や動画に比べればそれ自体がもつ情報量は小さい。しかし、その分人々の焦点は定まりやすい。それが文章表現の強さだろうか。この辺も考えると楽しそうだ。
 

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