あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2012/02/11

承「弔」

投稿者 福田快活   2/11/2012 0 コメント
親族の葬儀の一日に、こんなことを思った。

七回生まれ変わっても、おれは彼らとなにも共有できない。

ある人がいる。

その人と関わりがあった、ただそれだけのことで多くの人が同じ場所を共有して、一緒に時間をつくる。葬儀っちう儀式を協働してすすめてく。

おなじ関わり方をした人たち同士は旧知だったり、もっと親しかったり、内心けったくそ悪くても頻繁に顔をあわしたり。たとえば仕事をつうじて関係をもった人は、共有してる意識とか発想がある。同じ業界に身を浸してる人同士として。

そうじゃない、ちがう関わり方をした人どうしは接点があったりなかったりする。もちろんちがう業界だからってわかりあえない、なんてことは全くない。人が通いあえるのは肩書きじゃなくて、ザマ、生き様。人生へのスタンス。

ほかの業界人がまったく危機感をもってなかったり、やたらと危機感をもってたりするのを「ヘンなの」と思ってたとこに、ちがうコトをしてる人から「いや、おれもまったく同じこと思ってたのよ。これからはさ…」って聞かされた日にゃ「夜は長いぞ!呑み明かそう!」ってグラスがカチンと音をたてるっきゃない。

友達っていうのはそういうザマ、価値観が同じじゃなけりゃ近い人が多い。だから友達になる。呑み明かして、呑み明かして、呑み明かす。

べつに葬式にかぎった話じゃないけど、異人種同士が遭遇するのは。おれは親族の葬式でまったくザマの通わない、異人種の集団に遭遇した。なにも共有しないし、できない。接点はただひとつ、ある人と関わりをもったってこと。

でもそれは、まったくなにも共有できない人同士でも「ある人と関わりをもった」っていう一点は共有してる、てことでもある。「なにも共有できない」は正確な言いかたじゃない。

七回生まれ変わっても、おれは彼らと自分が「大切だ」と思うことはなにも共有できない

うん。長い。わかりにくい。

これでも簡潔にしたつもりだけど、簡潔にしようとしたのがいかんのか?大切なことってのはいつだって伝えにくいものだ。そう切り口上してドロンすることにしよう。

人生はいつだって、おわりは突然に、じゃない?

2012/01/18

投稿者 Chijun   1/18/2012 0 コメント
全ての私が死ぬまでにやらなければならないこととは、何だろう。

人々に優しくすること? 人々に礼節を尽くすこと? 人々を愛し、私を愛すること? 人々に愛されること? 幸福な死を迎えるための準備? 人生には限りがあるのに、限りのない諸々をしつづけること?  働くこと? 働きつづけること? 働くことを終えたあとで、働いた日々を夢に見ること? やりたいことをやって、やりたくなくなったら止めることをやり続けること? 悲しみをもって死者を弔うこと? 死者を弔うことに信仰をもつこと? 死者のために弔うこと、生きる者のためでなく? 迷いとためらいと引け目に、悲しみをこじつけること? 悲しみを記憶に刻んで忘れ得ぬよう、悲しみを裏切ること?

親族の葬儀の一日に、そんなことを思った。

2011/11/21

ラーメンと愛国

投稿者 福田快活   11/21/2011 0 コメント
「ラーメンと愛国」。なかなかすてきな本だ。速水健朗氏をしったのは「ケータイ小説的。」で、その時はケータイ小説がブームゆうか書籍売り上げランキングの上位を占めたりして、マスメディアで「ケータイ小説」ってなんやねん?ゆう取り上げが増えてた。『文學界』やとかそういう文芸誌でとりあげられて、作家やとか社会学者がケータイ小説について話し合ったりしたことも覚えてる。内容は覚えてないけど。ひとことで言っちゃうと「ケータイ小説は文学か?」っていう「カレーは日本料理じゃねえ。日本人なら魚だろ!と板前が吠える」式の、そんな板前さんがおったか知らんけど、式の話の運びだったから、さらさらめくって忘れた。

「どうもこれが一番いいみたい」って友達が教えてくれたんが「ケータイ小説的。」で、その友達は信用してるから買って読んで、「速水健朗」ゆう名前は覚えておこうと思ったてゆうか、覚えた。80年代の女の子雑誌ティーンズロードと浜崎あゆみとケータイ小説を結びつけてヤンキー少女の系譜にならべたり、ケータイ小説の構成によくつかわれる妊娠、中絶、死とかが生きてるなかでそうそうでくわすものじゃないけど読み手・書き手に「リアル」にうけとめられるものだとか肯くものがたくさんあった。

切り口が独特でおもしろい人だな。都築響一をひきながらヤンキー文化がメディアのなかではマイノリティーだ、という指摘は共感するな、この人の話もっと聞きたいなと思った。過去の著書を読み、ブログをチェックして、なんとなくネットをしなくなって離れた。講談社からのメルマガで新作がでたことを知ってすぐ買った。

ラーメンもまたヤンキー文化に隣接してる。ラーメン屋の作務衣とか、「道」的こだわり、便所の色紙に書かれた親父の小言の内容もそうだし相田みつをみたいな書体、そういえばケータイ小説的には相田みつをも出てきた。ヤンキー少女に人気という文脈から、相田みつををちゃんと論じてた。

速水氏の一貫した関心をみとれる「ラーメンと愛国」はやはり、作者のモチベーションを感じれておもしろい。とくにハッとさせられたのは

ご当地ラーメンは古くからの郷土料理となんの関係もなく、田中角栄の時代に推進されたモータリゼーション、国土開発のなかで地方が観光資源としてたまたまアピールし、マスメディア(テレビ)を通して広まるなかで逆照射的に自覚されていったという指摘。

まだ実は読んでる最中なんだけど、おすすめです。小麦、パン食が日本にひろまった過程が気になる人もぜひ。

2011/11/06

電車に乗って行こう。

投稿者 じん   11/06/2011 2 コメント
このまま、僕は鉄道マニアになるかもしれない。鈍行の窓の外に見える景色が、のんびりと過ぎていく。たいていは緑色だけど。日本のほとんどは田舎だから。10分か、15分かに一回、そろそろと人が降りていくのもいい。そんな風景を、耳にイヤホンを突っ込んで、適当に音楽を流しながら眺める。それを想像しながら、一生懸命安いルートを探したりするのも、また楽しい。

しばらく遠ざかっていた、読書という、なんとなく繊細そうな、中性的な趣味も、鈍行の旅をするようになってから、復活した。文庫本の小ささが、可愛かった。勉強のためにとめくっていた、洋書のペイパーバックのそっけなさとはちがう、軽さがある。てぃーにーてぃーにーまいりるぶっくちゃんだ。

25にもなって自動車免許を持ってない僕はかなりの少数派で、東京から名古屋に引っ越したときにはすぐに自動車学校にいかなきゃ!と友達にはなしてたりしていたけど、どうなることやら。まだ、近いうちにとるつもりだよ、来月は落ちつきそうだし、なんて思っている辺り、あやしいな。

ともかく、どんこうに数時間ゆられていくのは、バス旅より楽チンだし、もちろん自分は運転する必要もないし、うん、いいなぁ。今日は名古屋から大阪まで、4時間半、3000円弱。安いよ!安いよ!さあ、ひとつどうだい?

2011/10/10

iPhone 4Sは軽くならなかった。

投稿者 Chijun   10/10/2011 0 コメント
モバイル用デバイスは、もちろん軽くあって欲しいですよね。「重くて嬉しい」という場面や人は……なかなか思いつきません。いずれ「軽すぎて困る」というときが来るかもしれませんが、今のところそういった意見は見かけたことがないです。モノとしての道具の洗練というのはバランスが難しく、あまり小さくしすぎると「薄すぎ」という人が現れたり(iPod touchなど)、キーボードをタッチパネルにしてみると「長文はやっぱパソコンでないとね」(iPhoneやiPadなど)という風に打鍵感を必要とする人も少なからずいるようです。つまり、モノとしてのある種の物理的抵抗感、存在感が必要な場合もあるということですね。

iPhone 4Sは140gで、これはiPhone 4とほとんど変わりません。今回のiPhoneのニューモデル、処理速度が速くなったのは悪いわけがないのですが、iPhoneの利用シーンを考えると、私はまだもうちょっと軽くなって欲しいデバイスだと思うのです。

iPhoneの新型発表がiPhone 5……でなく、マイナーチェンジに終わってしまったのを残念がる人も多いようですが、そもそも最近のAppleの製品は、分かりやすくカタチを変える大きなフルモデルチェンジというのが少ないです。最初の段階で限界近くまで洗練させてから出す、という姿勢の現れなのでしょうか。今日は特に重さに注目して、変化を追ってみます。

13インチのノートパソコンMacBookは、2006年に2.36kgのモデルとして発表されます。2008年まではマイナーチェンジが続き、2.27kgとさほど大きな変化はありません。2008年にはMacBook Proと呼ばれるシリーズに13インチモデルが誕生し、全体的に高機能化しつつ2.04kgと減量してきます。それ以降13インチのMacBook Proは現在までに三度のマイナーチェンジを経ますが、2.04kgのままです。

2008年には同じく13インチのモデルでMacBook Airも登場し、同等のサイズとしては1.36kgと大幅な軽量化をしますが、これは軽さの代償にいくつかの機能を犠牲にしているので、MacBook Proとは用途も違ってきます。単純な比較はできません。しかしこのMacBook Airのシリーズも、四度のモデルチェンジ後の現在1.34kgとほぼ変わりません。途中11インチモデルが登場しますが、こちらも、1.04kg→1.08kgですから、変化なしといっていいでしょう。

対照的にかなり早い段階で軽量化を果たしたといえるのがiPadで、Wi-Fiモデルは初登場時680g、一年後のiPad 2は600gとなっています。MacBookとは単位が違うので減量数値だけ冷静に考えると大したことなく思えてしまいますが、このサイズで80g減ると、割合的にも、両モデルを使用した実感としても、「これはずいぶん軽くなった」と思った人が少なくないようです。iPadの利用場面を考えれば、初代の680gというのが重すぎるというのはAppleも承知の上だったのでしょう。600gでもまだ軽いとはいえませんが、初代に比べると2はだいぶ取り回しも良くなりましたし、実際に利用時間も大きく増えました。

さて、iPhoneです。iPhoneは2007年に登場して以来これまでに三度のモデルチェンジをして、140g→130g→140g→140gと、結局変わらずです。AppleはiPadほどには、iPhoneに軽量化が必要ないと判断しているのでしょうか? それとも色々な機能・要素を総合的に判断した上で、現在の技術の限界のところで「うまく」バランスをとっていると評価できるデバイスなのでしょうか?

ちなみに同等サイズのiPod touchは、最新モデルで現在101gです。MacBook Proに対するMacBook Airのように、機能の制限はありますが、iPhoneと利用場面が重なる機会は少なくありません。また、iPhoneとは約40gの違いですが、手のひらに収まる小さなサイズとしては、はっきり重さの違いを感じる人が多いと思います。となると、iPhone軽くなって欲しいなあ……と欲が出ますねえ。

2011/09/04

らくーにいきるには。

投稿者 じん   9/04/2011 0 コメント
職場の先輩が、寝違えに苦しむ僕に、ヨガの極意とやらを教えてくれた。

首を倒して5呼吸。体をよく観察する。
首を戻して同じ時間。脳に痛みを理解させる。
そうすれば自然に治癒力が働く。

聞いた時は本当に痛かったので単に痛みを和らげる方法としてありがたく聴いていたのだけど、帰宅後、この言葉を思い出しながらいつものストレッチ。これまでストレッチは筋肉を伸ばして痛みを和らげるための治療法だと思っていた。それが痛みを理解し、自然治癒力のトリガーを引くためのものだという。大きな発想の転換だ。それだけでも目から鱗だったが、そのうちふと、これが体の痛みだけでなく、あらゆる事柄にあてはまるのではないかという気がしてきた。

痛みをよく観察し、同じ時間かけて理解すれば、自然治癒力が働く。

ヨガはインドのなんとかいう哲学の実践の最初の一歩だとどこかで聞いた。無我の境地に至るための精神統一手段のような位置づけだったはず。

さすが釈迦を生んだ国。痛みや苦しみを受け入れることが、楽に生きるための第一歩というわけだ。

2011/08/25

働こうぜ、諸君!!

投稿者 福田快活   8/25/2011 0 コメント
最近の関心は、労働です。

資本主義の三大要件は資本、労働、土地?だったかな設備?だったと思うがそのなかで労働がどう編成されてきたのかこれからどう編成されるのか。

たとえば自由と民主のためにたちあがったとされるフランス革命だが、革命によって身分を排することで従来の農民層を解体、新しい工場労働者層の確保に役立った面がある。アメリカの奴隷解放も、北部が流動的な下層労働者を必要としたからから達成できたという側面もある(新移民の方が安かったという話もある)。自由も民主もだれのためにあるんだ?自由とか民主を謳うことで、主体的な市民を育成し、おかげで徴税・徴兵が国家にとって楽になった(市民はその内面に国家を抱えるから)のもそうだ。

近代の達成と、それによって不可視になる制度=システム。制度が複雑精緻になるなかで人はどう生きるのか。生きないのか。ここで労働が登場する。

税や兵を徴用する必要があるように、制度は生産力を人間から徴用しないといけない。そのためには時間の発明(時間給ていう概念がうまれる)だとか学校での規律の調教がある。いい加減な能天気な人間ぢゃなくて、時間に正確で決められたことをちゃんとする労働者を生産する。その労働者が商品を正確に生産する。

そういう意味では余暇=レジャーも近代の発明で、労働力の再生産+消費の促進のために欠かせない重要な務めである(みんな旅行しよー!)。

仕事とプライベートという表現がだいっきらいなのは(でも便利だからつかうが)、ここのレジャーの話に典型的なようにプライベートも資本の論理に駆動されている、という意味では仕事とまったく同じだから。プライベートを大切にする、ていうとあくせくとした労働に追われずに人間らしく生きる的なニュアンスがあるが、まったくの勘違い。派手に遊べば遊ぶほど資本とがっつりチューしてることになる。それはもちろん、プライベートの代表とされる恋愛or家庭でもかわらない。

恋愛がかかわってくるのは労働力の再生産の部分。ようは子供を産む、結婚だ。主婦の誕生。
とここまできてもう時間がないので、次回は恋愛と結婚の話から。とりあえずはバイバイキーン
 

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