あ、1本いいっすか?

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2010/03/08

新聞って怖い

投稿者 サトウ   3/08/2010 1 コメント
 おもしろいバイトをしている。一日中電子データ化された新聞記事を読み続けるバイトだ。たとえば「野口聡一とは誰ですか」などとあらかじめ与えられた質問にたいして、検索で出てきた記事が、答えとして適切かどうかを判定する。

 ここにはもちろん、普段はぜんぜん興味をもたないような事柄について詳しくなる、というおもしろさもあるのだが、もっとおもしろいのは、同じ題材を扱う大量の記事を読んでいくと、各々の記事が単体で伝えること以上のもの、すなわち読者をある方向に誘導する「新聞の意図」とでもいえそうなものを読み取れることだ。

 私は新聞をとっていないから、普段はラーメン屋とか喫茶店で暇つぶしに新聞をめくる程度である。そういうときは面白い記事もあれば面白くない記事もあって、「ああ、今日も世の中はこんな感じなのね」と思うだけで終わりだ。視界のほとんどは「いま」に占められて、残りの部分もせいぜい「続報」や「見通し」という形で前後数日分ぐらいがおぼろげに見えるだけだ。しかし、このバイトでは、たとえば「ハンセン病とはどんな病気ですか」という質問について、数年ぐらいの期間に出た200件ぐらいの記事を読んでいく。すると、この病気に関する新聞の報道は、その99%が「ハンセン病の元患者と政府との闘争」という物語を採用していることがわかる。病気の症状がどんなものか、具体的に伝える記事がまれにあっても、それはある特定のハンセン病の患者が、愚かな政治によっていかに虐げられたか、という個別の体験談で、「○○さんは視力を失った」とか「××さんはまゆ毛がなくなった」という程度の記述だ。もし今回のバイトで写真まで見る機会があれば(写真まではデータ化されていなかったのだ)、元ハンセン病患者の外見がどのようになっているか、写真によっては一目でわかるかもしれない。しかし、写真が伝えるものはむしろ文字よりも個別性の高い、一人一人の患者の情報(△△さんの外見はこうだが、□□さんの外見はこうだ)であり、よほど多数の写真を見ない限り一般的なハンセン病の症状を伝えるにはいたらない。ここに私たちは、明らかに意図的な書き落としを読み取ることができる。新聞は一般的なハンセン病の症状や外見を、決して詳述しない。「ハンセン病っていう病気だった人たちが政府ともめているみたいだけど、そもそもハンセン病ってなに?」という人にとって、このような記事は何の役にも立たない。たぶんwikipediaを見たら一発でわかるようなことが、新聞では一向にわからないというのは、ちょっと異様である。なぜこんなに大きな「穴」が空いているのだろうか。

 それはおそらく、症状や外見を記述することが、元患者の政府との闘争に良い影響を与えないからだ。元患者たちは、自分たちへの差別が撤廃されることを望んでいる。差別の撤廃とは、自分たちと他者との「差」が認識されず、一般の人から見たら「別」の人間だ、とみなされないようにすることだ。新聞は、もちろん社会的正義にのっとって、この差別撤廃の実現に向けて世論を動かそうとする。それは、社会的正義を声高に唱えるという「言語の過剰」だけでなく、ある種の情報を意図的に書き落とすような「言語の不足」によっても行なわれているのだ。 

 差別は言語の機能と深く関わっている。私たちは、言語によって混沌とした世界を区切り、秩序立てている一方、「正常な」自己と「異常な」他者とのあいだに境界線を設けることで、自分と異なる人々を不当に排斥してしまうこともある。新聞が症状や外見を書かないのは、記事上でハンセン病の具体的な症状や外見を記述することで、一般の人々が道ゆく人のなかから「あ、あの人はハンセン病だ」と認識できるようになってしまうと、差別の根源である認識上の境界線をかえって太くしてしまうからだ。

 ハンセン病の元患者は、もちろんいままで受けた不当な差別の代償を十分に受け取るべきだと思う。しかし、それとは別に、私は一見客観的に見える新聞記事の記述の意外な恣意性を目の当たりにして、扱う題材によっては世論を悪い方向に誘導することもできるのだと知って「ああ怖い」と思った。新聞をよく読む人にとっては当然のことなのかもしれないし、「メディアが客観的だとは限らない」という言い回しも実際よく聞くのだが、自分で体験したのは初めてだ。
 

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