あ、1本いいっすか?

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2010/10/09

ことばで世界を描くことについて (2)

投稿者 じん   10/09/2010 1 コメント
日本語の主人公は他人、英語の主人公は自分という考え方をするようになったそもそものはじまりは、日本語の「わたしは」「ぼくは」と、英語の”I”が本当に同じ意味なのかどうかという疑問を持ったことにあります。その疑問に応えてくれそうな考え方が、森有正の「汝の汝」という考え方でした。

「日本人」においては、「汝」に対立するのは「我」ではないということ、対立するものも亦相手にとっての「汝」なのだ、ということである。…親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうではない。子は自分の中に存在の根拠を持つ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。

極端に言うと、相手がいて初めて自分が存在するという考え方です。他人に認識されなければ自分は存在しない。自分というのは常に他人に見られている。私が持っているTシャツに描いてある言葉を借りるなら、”What is the human being if we exist alone on the Earh?”です。

私は日本語の「わたし」に代表されることば(自称詞)はこの「汝の汝」を示しているのだと考えます。相手から見える自分、つまり相手が自分に対して抱いている(と思われる)人物像を「わたし」は示しているのではないかということです。

手始めに、自称詞の使い分けについて考えてみましょう。自称詞はたくさんありますが、大きく3つのグループに分けられます。「わたし / ぼく」、「先生 / 父さん」、「さっちゃん / さちこ」の3つです。

「先生 / 父さん」は、生徒が「先生」と、子供が「父さん」と呼ぶから、「さっちゃん」は小さいから、ではなく、パパやママが「さっちゃん」と呼ぶから、自分をそう呼ぶのだと考えれば、「汝の汝」はあながち間違いではない気もしてきます。

最後に残った「わたし / ぼく」系はどうでしょう。「私」「僕」など本来の意味は自称詞で用いられるときは薄れて意識されません。用いられる場面を考えてみる方がよさそうです。かたい場所ではこれ、くだけた場面ではこれ、と制約がある気がしませんか。また「ぼく」は優等生っぽく見える。もっと強そうでカッコよく見られたいから「おれ」を使うという人もいるかもしれません。他の2つのグループとは意味の出所が異なりますが、その場にふさわしい人間として見られるためには適切なことばづかいが必要になるという点では、これも相手からどう見えるかを反映した結果と考えられます。

自分をどう呼ぶかという問題も、実は自分より相手の存在のほうが重要で、相手の存在を考慮しなければ自分をどう呼ぶかを決めることができないのです。

次回ももう少し日本語で自分を呼ぶことについて考えます。今回は単語レベルでしたが、次回は文レベルのお話になる予定です。
 

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