あ、1本いいっすか?

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2010/04/12

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)

投稿者 福田快活   4/12/2010 0 コメント
チャック・パラニク(チャック・パラニューク)というアメリカの作家しってる?って聞いても「はあ?」がふつうの返事。一般的知名度なんかないに等しいんだから「はあ?」は不思ギでもなんでもない。でもこう言えばわかってくれる人はけっこう多い↓

「『ファイト・クラブ』って映画あったじゃん?99年くらい。ブラピとエドワード・ノートン主演でほら喧嘩って楽しい!ってやってるやつ」
「ああ、あれ!あったあった」
「その原作者」
「ああ、そうなんだ。へーー」

「わかってくれる」って言っても返事は「へーー」で、それはそれでしょうがないんだけど(だってそれ以上何を求めようか?)、この人はとってもいい作家なんだ。へたな万言を尽くすより、、、で彼のインタビューとか取材物をあつめた『non ficition』ってステキな本がある。巻頭の言、みたいなやつが作家パラニクのスタンスを明快簡潔に表してるんで、ちょっと翻訳してみるから読んでみて。「ちょっと待ってよ。その前にパラニクとかパラニュークとか併記されてるのはなんで?」ってツッコミもあるよね。「併記」とかむずかしい言葉つかうね?とおれも自分ツッコミ入れたくなるけど、日本での慣用はパラニュークなんだ。でもこれはただの英語音で本人は明確に「pɑːlənɪk」って発音してるんだから片仮名にするならやっぱ「パラニク」でしょ?パラパラなお肉みたいでパラニクの姿勢にぴったしだし。。。

では本編のはじまりはじまりー

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もしまだ気づいてないなら、ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」についての本だ。

ある意味それはアメリカンドリームの逆:すっごい金持ちになって脱けだすんだパンピーから、高速にいるあんだけの人、もっとひどいかも、そう通勤電車。 ヤ、ドリームはおっきな家だ、どっか独り離れて。ペントハウス、ハワード・ヒューズみたいに 。山頂の城、ウィリアム・ランドルフ・ハーストみたいに。ステキな隔離されたねぐら、きみが気に入ったパンピーだけ招待すりゃいい。きみがコントロールできる環境、争いと痛みから自由――そこできみは「支配する」。

それがモンタナの牧場だろうが、10000枚のDVDと高速インターネットつきの地下室だろうが、これだけは期待できる。そこにたどりついたら、独りだ。寂しい。

もう十分に惨めになって-ファイト・クラブマンションの語り手みたいに、本人の美しい顔に疎外された『インビジブル・モンスターズ』の語り手みたいに-初めてぼくたちはステキなねぐらを破壊し、自分自身をより大きい世界に強制送還する。いろんな意味でこれは、小説を書く方法でもある。考えて調べて。独りで過ごして、きみがすべてをコントロール、コントロール、そう、コントロール!するステキな世界をつくる。電話は鳴りっぱなし。メールは積み上がってく。自分のモノガタリ世界のなかで過ごすんだ、破壊するときまで。そうして他の人と過ごすためにもどってくる。

もしきみのモノガタリ世界がじゅうぶん売れたら、ブックツアーにいける。インタビューされる。ほんとうに人といっしょにいれる。たくさんの人。人、人、ヒトに病んなるまで。脱走する夢に餓えて、逃げたくなる・・・

また違うステキなモノガタリ世界へ。

で、またはじまる。独り。いっしょ。独り。いっしょ。

たぶん、これを読んでるならこの円環がわかるはず。本を読むのは集団活動じゃない。映画とかライブにいくのとは違う。スペクトルの孤独の端なんだ。

この本の中のモノガタリすべては「他の人といっしょにいる」についてだ。ぼくが他の人といっしょにいる。あるいはひとびとがいっしょにいる。

(中略)

これぜんぶノンフィクションのハナシ・エッセイで、小説のあい間に書いたんだ。ぼく自身の円環はこうだ:事実。フィクション。事実。フィクション。

書くことでヒクことのひとつは「独りだ」だ。まさに「書く」部分。孤独な屋根裏のとこ。大方の想像ぢゃ、そこが作家とジャーナリストの違い。ジャーナリスト・新聞記者はいつも急いでて、目を皿にして、人と会って、事実を掘りおこしてる。モノガタリを料理してる。ジャーナリストは人に囲まれて書いてて、いつも〆 切だ。混んでて急かされて。刺激的かつ楽しい。

ジャーナリストは書いて、きみを大きな世界につなげる。パイプだ。

でも作家、作家は違う。フィクションを書く人は誰でも-人は想像する-孤独だと。フィクションはきみをいま1人の人間の声にしかつなげない、そう思えるからかもしれない。読書はひとりですることだから、かもしれない。それは「過去」で、ぼくたちを他の人から隔てるように思われる。

ジャーナリストはモノガタリを取材する。作家はモノガタリを想像する。

笑えるのは、小説家がこの単一の孤独な声をつくるためにどれだけ多くの時間を他の人と過ごさないといけないか、知ったら驚くから。この隔離されてるかのような世界。

ぼくのどの小説も“フィクション”とは呼びにくい。

ぼくが書くほとんどの理由は、「書くこと」がぼくとほかの人を週に一回いっしょにしてくれたから。木曜の晩に、出版された作家-トム・スパンバウアー-に教えられるワークショップで、彼の台所机を囲んで。当時ぼくの交遊は手近さにもとづいてて:隣人か同僚か。その人たちを知ってるのはただマア、毎日隣に座るハメになってるからで。

ぼくの知ってるいちばんオモチロイ人、イナ・ゲバルトは同僚を“空気家族”って呼んでる。

手近の友達の問題は、引っ越しちゃうこと。辞めるか馘になること。

書くワークショップってのに出会うまでは、情熱をわかつ友なんて知らなかった。書くこと。映画。音楽。理想を分けあった人もいた。パーティー(みんな)で出かける冒険、それがあれば、きみが大切にする曖昧で漠然とした芸を大切にする人と一緒にいられるんだ。こおゆう友情は仕事とか立ち退きに左右されない。 書いても一円にもならない時代に毎木曜のくっちゃべりは――ぼくが書き続ける唯一の動機だった。トム、スージー、モニカ、スティーブン、ビル、コリー、 リック。ぼくたちは闘い、讃え合った。それで十分だった。

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実際はもっと長いんで、あんま一度につめこむのもナンだから、つ・づ・く
 

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