まずはこれを開いて音楽を再生して。再生する音源はどれでもいい。
20畳ほどのフロアで踊る客は少なめ、左に右に体をすべらせるステップ、流りなのかみな同じようなステップ、混雑に体同士をぶつからせることもなく銘々が音楽と踊りを堪能している、のだろう。足につれて世につれ、ゆらす頭は朦朧と酩酊してくのは酒にか音楽にか攪拌された意識の粒はイザ、ビートごとに飛びだしてく交感、うねって戻ってく瞬間
小さいハコだとありがちなのは閉鎖感。常連同士の、排除することで高まるナマカ(流行らなかったね(つд⊂))感、意識的・積極的に排除を進めてるつもりはないんだが、人口の83%が顔見知りとなったときに83%の意識から抹殺される17%、は思うしかないだろう――帰ってドラマでも見ヨッ☆……あ゛見たいドラマがなかった・・・orzそんな2009年
ではそんなことなかった。もっと正確にいおうKYOTO JAZZ MEETINGぢゃそんなことはなかった。ちっさなハコで、フロア20畳にラウンジ20畳。常連もいればそうぢゃないのもいる。それぞれがそれぞれで好きに自分たちの時間を酒で音楽で会話で楽しんでる。ソファでいちゃついてるカップルはご愛嬌の定番。微笑を誘う。こうでなくっちゃ!踊りながら体を寄せあうカップルもおなじ
波にさらわれて潮まかせな夜の魚たち、ながれの源は一段たかい壇上、刈り込まれた髭、夜を熱帯にするサングラス、クビでヘッドホンおさえ、手は自働的にさまよい音がひいてはよせるわだつみに、あしたはないと浜千鳥、たつは都の唐錦、いろも綾によする光、となりの男がくずおれた。呑みすぎ踊りすぎ楽しすぎ
DJブース上、沖野好洋は、兄沖野修也とKYOTO JAZZ MASSIVEをやってると言った方が通りがいいだろう。クラブジャズの定番(1)、と知った口たたくのは慎もう。。。でもクラブジャズてなに?都 会が夢でいられる音楽。都会ではオサレな男女がオサレなクラブでオサレな腰ふってオサレな時間に流されてゆく。もういまのニッポンぢゃ都会にユメなんかな いことはばれてしまってる。「都市の空気は人を自由に」なんかしない。でも都会に夢を感じることができる人はいる。もし少しでも感じられるなら、クラブジャズを聴いてみるのもいいかもしんない。
コラージュの客のありかたは見事にそういう意味でクラブジャズ的だった。都会が夢として存在してた。ちょっとその夜の客数は少なかったが、他人に干渉するこ となく(鬱陶しいナンパもないし)それぞれが自分の持ち分で楽しんでる。あの数時間だけ、コラージュの空気は「人を自由に」してた。そう思えば「コラージュ」って名前もふたむかし前のポップアートのステキさ、ニューヨーク的ステキさに繋がる。
(1)もう、音楽のジャンル分けは「みんながわかった気になれる用」に細分化されすぎて、かえって誰もわかれないアミダクジとしか思えないんだが、むかしTSUTAYAで沖野修也が「ラウンジ」となってたのは腑に落ちた。もうジャンル分けは音楽性じゃなくて雰囲気の問題でしかないんだ。あるいはジャンル分けはそもそも雰囲気の問題でしかなかった。