あ、1本いいっすか?

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2010/11/22

ことばで世界を描くことについて (3)

投稿者 じん   11/22/2010 0 コメント
前回の更新から少し時間が経ってしまいました。簡単にこれまでの話を振り返っておきます。言語で世界を描くとき、日本語では他人を主人公にし、英語では自分を主人公にして世界を描くのだというのがここでの主題です。ひとはことばを使うことで、区別なく現実世界に満ちている原子に名前をつけ、頭の中に映る世界に秩序を与えていきます。その秩序の与え方が日本語と英語とでは、誰が主人公の物語を描くのか、その物語は誰の目を通して描かれるのかという点で異なっているのではないか、ということを考えていきます。

前回は手始めに日本語の自称詞は話し手が話し手自身のことを指して使っていることばではなく、相手が話し手をどのようにみているのかということを表現することばだということを、森有正の「汝の汝」という考え方を借りてお話ししました。今回以降はそれを文のレベルで見ていきたいと思います。

(1)     (二尉の質問「……てゆうか、何をやってる……」への返答)
部下1: 自分はちせさんにコーヒーをと思いまして……
小隊長(ちせ): あたし…自分はこっ、交換日記を……
部下2: 自分はちせちゃんの宿題を手伝って……

まず、前回の流れを汲んで、どんな自称詞が使われているかを見てみましょう。軍の上官の質問に2人の部下と新米小隊長が答える場面です。軍人としての会話であるため、「自分」と自称するのがふさわしい場面です。場にふさわしいことばづかいをするというのも相手を意識した行動です。相手は自分を軍人として扱っている。軍人は「自分」と自称する。だから自分は「自分」と自称するという意識が働きます。自分が普段「あたし」と自称する女の子であったとしても、自称詞が「汝の汝」を指す限り、ここでは「あたし」を使うことはできません。

「どんな時でも俺は『俺』という自称を貫くんだ!」という人もいるかもしれませんが、「汝の汝」のロジックでいえば、これは自己のアイデンティティを表現しているのではなく、相手が自分を『俺』的な人間(一般的には「強さ」「男らしさ」「荒々しさ」といった性質をもった人物になるでしょうか)とみるように相手の見方を誘導しているということになります。

中村桃子という言語学者がこのことを『らせんの素描』というゲイを描いたドキュメンタリー映画の1シーンを例に説明しています。ゲイ・パートナーである矢野(25歳)と隆司(23歳)が同棲する家に同居することになった呼人(20歳)が、矢野と関係を持ってしまいます。矢野は普段自称詞として「おれ」を用い、隆司は「隆司」を用いていますが、この3人の関係を良好なものへと修正するために、矢野と呼人の前で、隆司は「ママ」を自称詞として用います。隆司は自分を「ママ」と呼ぶことで、隆司と呼人が矢野をとりあう三角関係から、矢野を父親、隆司を母親、そして呼人を二人の息子として捉え直した家族関係へと3人の関係をつくりかえたのです。自分を「ママ」と呼ぶことで相手の見方を誘導し、新たな関係を構築した例です。

この「ママ」という自称を、「汝の汝」の構図で分析すれば、「呼人から見れば隆司は『ママ』である。だから隆司は『ママ』と自称する。」という構図ができあがります。自称詞が自分の事を直接指していることばとして考えるより、相手に見えている自分の姿を指していることばとして考えた方が、この3人の間に生まれた新しい関係は安定したものになります。これは小さい時に遊んだ「ままごと遊び」にそっくりです。「ご ごめん。お前はそんな子じゃなかった。疑ってすまんっ。父さんが悪かった。」と学校の友人に言えば、その瞬間に2人は親子になります。これも、自称詞が、相手が自分をどう見るかを表すことばだからです。
 

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