午前8時21分発、埼玉から東京方面へ向かう上り列車に乗ると、Kは本を取り出し、アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。眼下には、眠る人のうなだれる頭が三つ並ぶ。左右には、横目に吊革を握る人の袖口から覗く白い腕首が見える。電車は混雑していたが、声を出すものはいない。Kの耳には耳鳴りだけが響く。目的地に着くまでに、電車は7つの駅に停車する。
――1年浪人、1年留年。大学を卒業したのが、24歳。誕生日は4月3日だから、1ヶ月経たないうちに25歳。それから2年。この2年で、自分は何をしたか? 作家志望のフリーター君、君の仕事一覧をプリント・アウトしてみたまえ。たいした時間もかからずに、ほとんど真っ白のA4用紙が吐き出されることだろう。……
Kはズボンのポケットの上をなぞって触感で探り、アイポッドの再生ボタンにあたりをつけて圧力をかける。少しの間を置いて馴染みのない聖歌が女声合唱のア・カペラで歌われるのに続き、皺枯れた、だが軽みのある男声の、英語の朗読が流れ出す。Kは手にした翻訳書の該当部分を追っていく。
Kを乗せた電車が2つ目の駅に停車する。雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認すると、アイポッドから流れ出る朗読はそのままに、Kは本から目を外す。
――よし、今日はあのじいさんにしよう。……雪崩れ込む乗客の中に一人、ビッコをひきずりながら腰を曲げ、獣のように頭を低め、猛然と人波を掻き分け突き進み、何としても吊革を占拠しようとする老人が居りました。両隣の人を押し退けるようにして自分の場所を確保すると、スッと腰を伸ばしてギュッと吊革を握り締めました。してみると身長は意外にも高く、170センチを超え、体格も急に立派に映りました。体重は70……72キロ。頭はてっぺんまで禿げ上がり、――頭頂部は赤ん坊の肌のようにスベスベで―― 後頭部には、悔い多き人生への未練を切々と訴えるようなうぶげたちがまばらに生えています。目は穏やかさを湛えながらもキリッと引き締まり、周囲の人々に見られているのを過剰に意識するかのように、ぎごちないほど真直ぐ前の一点を見つめています。スッと伸びた外国人風の高い鼻の下のフサフサと豊かな口髭。年は? ……70歳。20歳の時に父親を自殺で亡くし、翌年奥さんになる女性と出会いました。……
電車は3つ目の駅に停車し、Kはふたたび、雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認する。4つ目の駅にある共学高校への通学生徒数が、この駅でピークに達する。Kはポケットをなぞってアイポッドを停止し、わきかえる女子生徒たちを楽しむ。本は手に持ったまま、老人に視線を戻す。溢れ返る学生に、老人はソワソワしているようだ。電車が出発する。
――おじいさんはその翌年には結婚し、そのまた翌年の桜まいちるなか、可愛らしい男の子が誕生しました。二年後の冬、今度は女の子が誕生しますが、年明け間もなく死んでしまいます。希望に溢れたはずの赤ん坊の人生は、たった11日間で終わってしまいました。埋葬のとき、母親は毛糸でチョッキを編んでやりました。おじいさんとおばあさんの間に静かな、しかし永続的な緊張感が生れたのはそれ以来のことです。ホラ、おじいさんの思い詰めたようなあの眼差しは、悲しみに満ちているようではありませんか。ジッと見ていると時々若い女子学生の方にチラッと目をやるでしょう? あれはきっと、失った女の子の娘盛りを、17歳の花盛りの娘たちに思い描いているのです。……
4つ目の駅で学生たちがゾロゾロ降りて行くと、確かに老人の眼は悲しみに翳ったようだった。幾分余裕のできた車内、老人の反対側に制服姿の美しい女子学生が残った。女子学生は窓から遠くを見る。車内にさしこむキラメク朝の陽射しが、波打つ黒髪にのって揺らめく。分けた髪のなかに覗く褐色の横顔は、――キュッと結んだ薄い唇は女王様気取り、でも丸い鼻にはあどけなさが残っている――ちいさいあごでスッとまとまり、細く長いくびがつづく。柔らかい髪がやさしくつつむように、くびにまとわりついている。手を半ばおおうまで伸ばした紺のセーラー服からチョコッとはみ出た小さな手は、ドア脇のスチール棒を軽く握る。女子学生は上衣からスカートへと一本の曲線のようになだらかに続き、丈を詰めたスカートがふっくらしたももとももの間に陰を添え、その直下の膝がイヤホンから流れ出るのであろう音楽に合わせ、小気味よいリズムでたてに揺れている。Kはアイポッドのボタンをまさぐり、男声の朗読を流したままふたたび老人に視線を戻す。老人は自分とは反対側斜め後方にいる女子学生を、窓の反射を利用して、相手に気付かれぬまま盗み見る。電車は5つ目の駅に向って出発する。
――おじいさんは毎朝起きると一番にトイレに行き、ズボンを下ろし、裸の膝をむき出しにします。便座にどっかりと腰を下ろして深い溜息を吐き出し、亡き娘のことを思い浮かべるのです。亡き娘を、17歳の若く美しい姿で。街中の人混みをキビキビと直線的に歩く後姿、まるで女王様のように誇らしげに、尻を左右に躍らせて。でも前に回り込んで女王様の顔を覗けば、強く結んだ小さな唇をつけたその顔には、幼い頃から変わらない、あどけない鼻が残っているのです。小さいときからずっと傍で成長を見届けてきたおじいさんは、そのことをようく知っているのです。そして知っていることに自信を持っているのです。立派に育ったあのオシリだって……。あいつは本当にいい子で、反抗期もなかった。末っ子だから可愛がられかたをよく心得ている。クリクリのオメメで表情いっぱいニッコリ笑顔を浮かべる。そうしてその眼を逸らさずにジッと見つめてくる。すると大人の方が照れて、こっちから先に眼を逸らしてしまう。フンッ! おじいさんは便座に腰掛けたまま、木戸に手を伸ばし、手を上下に動かして、さらさらとした木の触感を楽しみます。年頃の娘の肌を思いながら。きっとこんなのに違いない。でも触って確かめるわけにはいかない。そんなことしたら嫌われてしまう。下水道を這いずり回る鼠のように。――やっぱりあなたも……。一定の距離を保ち、その美を讃美する視線を送る限りにおいて、あいつは拝謁するものにクリクリの笑顔を授け与えるのだ。……ちっ、スケベじじいが!
老人は窓に映る女子学生をじっと見つめ、ズボンのポケットの奥の奥にまで手を突っ込み、眼をキラキラと輝かせ、キョロキョロしている。電車は5つ目の駅を過ぎて6つ目の駅に向かう。この駅間が長く、15分を要する道のりである。Kはふと便意に気づく。排泄を日に3から4度少しずつ分けてする習慣のあるKにとって、朝早い仕事を選ぶ際の大きな難点の一つだ。家で一度済ませても、職場につく前には二度目の便意に襲われる。
女子学生は、スカートからあらわに覗く肉付きのいいフトモモでリズムをとる。
――タン、タン、タン、タン。コシ、コシ、コシ、コシ。タン、タン、タタタン。コシ、コシ、コシコシコシ。……恐らく32年前、老人は亡き娘を偲びながら、便所のなかでしたのだろう。32年前? ボットン便所だったろうか、祖父の家のあれのように。してみると、土間だったかもしれない。先ずは排泄を――アレも結局は排泄だが――済ませてから。季節は冬、冷たいコンクリートのように固い土、またぐらからのぞく光の届かぬ穴の底、永く深い暗闇、折り重なるように蓄積された、ひり出された人の垢。憎悪の様に激しく腹をつき上げる便意、頭は真空の白に近づき、死に接近するように頬はどんどん蒼褪めて、いつでも出せる、便器はすぐ下にある、それでもためらうように、腹がいたむ! 嘲笑って銀蝿が踊る、眉毛にとまる、悪臭が鼻から頭頂を貫く。流れる血が手の先、足の先までニオイを運び、悪臭と――この部屋の空気と、全身とが一体になる。穴の底には鼠が巣食っているのだろうか、それとも鼠の死屍が今まさに腐りつつあるのか、地下水が滲みだして暗く湿った穴の底、バキューム・カーに吸い余された世々の垢が少しずつ積もり、父の、祖父の、曽祖父の垢が薄く堅固な層となって一枚一枚つみ重なったもの。ここで、曽祖父は弟を殺した後に一息つき祖父は腕をまくって戦争の銃痕を確かめ父は自殺する直前に、この便所で……。この穴の底には、土俗的な、血族的な、逃れられない無限がある。奔流の音を立てて水が、陶器の肌を洗い流すこともない。おうちに帰るまでこらえ切れず、うんこしないとくちからもどすわよ、先生の脅迫に怯えた憐れなこどもとて、逃れられないのだ。そう、傲岸不遜に涙で訴える我がままなこどもにとってここは、懲罰部屋でもあった。この個室には、時間を越えて、恥辱と憎悪が集中している、この一点に――。ボットン便所の薄い壁一枚隔てた西側の部屋では、祖母が、今まさに死につつある祖母が、二度と起き上がることができず蒲団にからだを侵食されつつある祖母が、幽かな、規則的な呼吸音をたてていたのだ。そんなトイレで、おじいさんは、(電車は6つ目の駅を過ぎる。最後の駅は近い。)――ボットン便所の底にフンを落とすといそいそとふりかえり冷たいつちの上にむきだしの膝をつき尻にこびりついたくそはそのままに先ずはやさしく下からなでて形がととのったら手をまるめ次第につよくはやくはげしく父をも赦す女の慈しみの幻想に抱かれて
老人はうなだれる。
7つ目の駅に着くなり、Kは電車を飛び降り、人ごみを掻き分け、トイレに駆け込んだ。イヤホンからは、章の終わりにもう一度、聖歌が流れていた。
女声ア・カペラで。
《処女マリアよ
そは罪人の鎖を解き
盲人に光を与え
われらの悪を清め、……》
しだいに、よわく……。