あ、1本いいっすか?

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2010/01/17

母なる証明

投稿者 Chijun   1/17/2010 1 コメント

私立男子校で中学二年生に国語を教えている連れがある日、「ウ音便について学習します」と告げたところ、教室中から「ウォンビン!ウォンビン!」という叫び声が上がったそうだ。

中二男子もよく知っているウォン・ビンは、「韓流四天王」の一人として日本人にも親しみ深いが、2005年から兵役につくものの途中古傷が悪化して除隊され、そして今作「母なる証明」(ポン・ジュノ監督)が復帰第一作となった。

以下ネタバレ注意

復帰第一作にしてなかなか挑発的な役柄である。ウォン・ビン演じるトジュンは知的障害のせいで悪友からからかわれ、都合よく利用される毎日。そんなトジュンがある日、少女殺人容疑で逮捕される。トジュンの知的障害をいいことに、警察は不十分な状況証拠のみでトジュンに罪を負わせて早々に事件の決着を図ろうとし、必死に息子の冤罪を晴らそうとする貧しい母がなけなしの金を積んで頼んだ弁護士は、トジュンを精神病院送りにすることで手を打とう、と取り引きを持ちかけてくる始末。

トジュンの母は息子を溺愛している。迫害者たちから守るため、その分よけいに深く母は息子を愛している。息子の冤罪を晴らすため体を張って真相を自ら究明しようとする母親、その美しい母性愛に感情移入しつつ、観客はともに真犯人を追いかけてゆく、という一種の定型的な軌道に身を委ね、「なるほど、この映画はこの方向で観ればよいのか」と安心しつつ、一方で型にはまった物語を追いかけるときの退屈を覚え始める。

しかし、その退屈はどこか居心地の悪い退屈である。この母子の愛情はどこかおかしい。なにか行き過ぎている、という思いが、ときに観客の脳裏にちらつく。というのも、成人の肉体を持った息子トジュンは毎晩母に添い寝したり(母子二人きりの家庭である)、息子が立ちションをすれば母は脇で出尽くすまでじっと見ている、といった場面が、所々で挿入されるのである。「美しい母子愛物語」に観客が疑問を忘れて没入しかけた頃に、そういった場面が随所に散りばめられているのである。

どこか居心地の悪いそのような流れのなかで、観客が美しい「母子愛」に決定的に裏切られた、と感じるのは、拘留されているトジュンの口から、面会にやってきた母に対して、お前が昔僕を殺そうとしたことを僕は忘れていない、というシーン。トジュンが五歳のとき、子育てに苦しんだ母は心中未遂を図っていたのだ。息子にそのことを告げられた母は(息子は忘れたものと信じていた)、面会室で泣き叫び狂乱の体をさらす。

ここで観客は、過去の罪悪感ゆえに母の愛情は行き過ぎていたのか、と一つ納得をする。と同時に、トジュンを犯人に仕立てるために嘘をついていた人々のみならず、唯一真実と共にあり真実の追究者であると信じられた母までもが信ずるに値しない人物である、という場面を見せつけられ、この映画のなかでいったい誰を信じればいいのか、どこに自分の立脚点を定めればいいのか、という不安に落とし込まれる。

これについては、最初は「息子の冤罪を晴らす母 vs 疑わしき人々」という構図で観客は母に視点を同化させるよう仕組まれていた作品が、「観客 vs 母を含めて誰一人感情移入できない作中人物」という構図に広がりを見せた、ということができるだろう。後者に移行した時点で初めて、観客は自分が作中人物と対等な立場に立たされている、と気づく(と同時に、それまでは作品の外の安全な位置から、視点人物=母親という一人の人間の、全てを知った気になって安穏と鑑賞していた、ということに気付かされる)。これが、感情移入していた作中人物に裏切られるという経験の、鑑賞者にとっての重要性であろう。

息子の糾弾を受けてなお真相の探求を続ける母の前に、貧しい廃品回収業者の男が現れ、トジュンが少女を殺害する現場を自分は目撃していた、という。ここでも母は狂乱の体となり、この男をその住処ごと焼き殺すに至る。トジュンによる少女の殺害場面がこの男の口から語られる際、スクリーンに映し出されるのは真相を語る廃品回収業者の姿ではなく、廃品回収業者が見た(という)そのままの、トジュンによる少女の実にリアルな殺害場面の再現である(困惑するトジュンの身体動作などは、こちらの身体に直に訴えかけてくる)。

暗黙の信頼関係を結んでいた母親に裏切られた観客は、ここで第二の裏切りを経験した、と感じるであろう。知的発育が遅れ、そのせいで嘲笑され、殺人事件の犯人にまで仕立て上げられようとしていた純粋無垢な「犠牲者」トジュンが、じつはこの殺人事件の真犯人なのではないか、と。しかし観客が突きつけられる廃品回収業者の「真相」にも留保が必要である。というのは、この男は被害者である少女の「常連客」の一人であり(少女は売春行為を何人もの男性相手にしていた)、そうであればこそ警察にも通報しなかった。男が語る台詞と共に映し出された犯行現場の映像では、彼が銀のシートを敷いて、米を用意して待っている事実が同時に写されていた。

ここで母親の言動について振り返ると、彼女が狂乱の体を見せるシーンがいくつかあり、1つはトジュンが5歳の心中未遂を語るとき、もう1つは廃品回収業者を殺害するときである。2つに共通するのは、母親が自分の知らない息子と対面したときだといえよう。自分の大切な息子が、自分が信じるのとは違う姿で現れるとき、母は狂う。過去の過ちに目を伏せたく異常に溺愛するが故に、全てを理解していないと、一線を超えて変貌する。

無実の息子を救おうと懸命な母親に寄り添いながら(のみならず応援しながら)、疑わしき作中人物たちの間を観客はともにさまよい歩き、母性愛の裏返しである母親の妄信的狂気が高まっていくのと同時に、二度の大きな裏切りを通じて、わたしたち観客は(映画館のクッションの効いた席に座っていながらに)実に不安定な感覚のなかにあることに気づく。誰にも感情移入・視点同化できず、母親もトジュンもふくめて全員を疑い出す。この疑心が観客を母の狂気へと接続する、つまり誰が真犯人か分からないことによって、より母親の狂気が浮き上がり、観客をその狂気の感覚へと道連れにする。

ここまで考えると、この映画が実に綿密に仕組まれたものに思われてくるのである。トジュンが知的障害者であること、母親が暗い過去を持ちながら息子を溺愛していること、トジュンの友人が腹黒いこと、警察が無能なこと、殺人事件の真相がきわめて思わせぶりなかたちで示されるものの結局は明かされないこと、などなど、全てが監督の計画通りなのではないかと・・・。

狂気、という抽象的な概念が見事に印象づけられる、すごい映画なのではないかと思った次第です。ちなみにわたしはこの映画を観るまで、ウォン・ビンのことは何も知りませんでした。
 

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