あ、1本いいっすか?

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2010/03/26

路地logyの日曜日

投稿者 サトウ   3/26/2010 0 コメント
 日曜の午後、東京の路地を半日歩き回るという奇妙な体験をした。最初はただ友人と昼食をとるのにいい飲食店を求めてぶらぶら歩き出しただけだったのだが、「ちょっとあっち行ってみるか」「もうちょい行ったらいい店あるかもしれないしな」などと衝動にまかせて進んでいくとなんだか楽しくなってきて(天気もよかったし)、そのままなんと半日(ちょっと都電にも乗ったけど)歩き通してしまった。大通りから生活感漂う細い路地に入っていくと、なんだか不思議な印象にとらわれて、どうにも足が止まらないのである。汗まみれだし、足の裏も痛い。しかし止まらない。もはや自分たちの意志を超えた何者かがわれわれの足を動かしているとしか思えない。都電の終点の三ノ輪橋付近で日が暮れたときには、二人とも「これでようやくやめる理由ができた」、と思わず安堵のため息を漏らしたほどである。高田馬場から歩き出したときには、まさか夕方三ノ輪橋駅にいようとは思いもしなかった。

 なにがこれほど私たちの心をとらえたのだろう。大通りから細い路地に入っていくときの、あの高揚感はなんだったのか。名付けて路地ロジー(Roji-logy)である(くだらないですね)。

 路地歩きは、私たちの日常的な行動様式から二つの意味でかけ離れている。一つは空間的な、もう一つは時間的な意味においてである。

1) 空間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な空間が、室内と街路との間にあるように、私的/公的の安定した境界を保っているのに対し、路地歩きにおいては、そのような空間の諸機能の間に引かれている境界線の揺らぎが起こる。車も通れないほどの細い路地に入り込むとき、定義上は公的な空間、すなわち「誰が歩いても許される道」であるはずの路地が、立ち入ることをためらわせるほどに私的な空気を横溢させていることがわかる。両脇に迫り来る家屋が否応無しに視界の大部分を占め、玄関先におかれた金魚の水槽の水面ではじける泡の音、門に立てかけられた杖、時代に取り残されたかのように古びて傾いた木造の家などの放つ濃厚な私的気配が、窓を閉め切った室内の空気のように、静かに淀んでいる。

2) 時間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な時間が(どんな小さなものであれ)計画とその遂行の繰り返しによって成り立つとすれば、路地歩きはその正反対のものとして理解されるであろう。すなわち、進路の変更に次ぐ変更である。もっとも、変更されるべき進路があるのは日常的な時間から路地歩き的時間に移行する瞬間のみだ。その後は判断を可能な限り遅らせたまま歩き続け、分かれ道まで来たら直感にまかせて瞬時に道を選ぶ。路地そのものを味わうためには、路地がどこかへ向かうための一経路に堕してはならない。路地歩きは、前進することなしに成立しないのだが、同時に「どこか」を目指してはいけない、というジレンマを孕んでいる。

 以上の二点は緊密に絡み合っている。用事があって駅を目指して急いでしまえば、いくら空間的な味わいのある路地でも「ただの道」であるし、暇で目的なく歩いていても、そこが前述の「揺らぎ」ある空間でなければ駄目である。

 理論編は以上。次回(っていつだろう)は路地歩き実践編である。乞うご期待。
 

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