あ、1本いいっすか?

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2011/05/24

春の麦星

投稿者 せんちゃん   5/24/2011 0 コメント


「あの明るい星ですか?うわあ…」


 五歳も下の後輩が思わず声を上げたのも無理はない。山深い長野の町にあっては、霞がかって薄れてしまう春の夜空も、澄んだ美しい冬空のように見えてしまう。四月の末日にもかかわらず、コートがいるほどに冷え込んだ町で、片道三十分もかかる温泉からの帰り道である。こうして春の夜空をきちんと見るのは私もはじめてのことだから、ふたりしてずいぶんとはしゃいでしまった。夏は美しく金色に染まる麦畑の狭間を弱いライトで照らしながら、数センチ先の足元も見えない暗闇に立ち、ふたりで空を見上げていた。


 春にひときわ輝いて見えるのは一番星の金星だが、次に眼につくのがうしかい座のα星、オレンジ色のアルクトゥールスだろうと思う。北斗七星の末端からカーブを描き、アルクトゥールス、おとめ座のスピカと結ぶ著名な春の大曲線―ここまではっきり空に弧を描いたところを私ははじめて見たような気がする。夏のさそり座アンタレス、冬のおうし座アルデバランなど、赤星は黒い夜空によく映える。


 野尻抱影の『日本の星「星の方言集」』を開いてみると、アルクトゥールスはどうやらある地方で〝麦星〟と呼ばれていたようである。麦が熟れる頃に昇ってくるためということも書いてある。この偶然を私はとても嬉しく思った。先にも書いておいたように、私たちが星を見ていた場所は、眼を見はるほどの金がうねる麦畑である。あの光景は夏にしか見ることができないのだから、金色の麦と麦星とを、一緒に見ることはできないのだ。とても切ない話である。だからこそよりいっそう、この星に対してもこの土地に対しても、私は深い愛着をもった。今やすっかりなじみ深くなったこの土地を、私はこれからも見守っていきたいと思うのである。


 五月二十二日の今日、東京は昼下がりからひどい夕立ちに見舞われた。芳しい雨の香りがまた鼻をつき、見上げればいくつもの色を重ねた水彩の雲が漂っている。あの雲の上にもきっと煌びやかなアルクトゥールスが高く高く高度をとり、東京の街を見下ろしていることであろう。

2011/05/21

書籍とは何か

投稿者 じん   5/21/2011 0 コメント
先日、原研哉氏と永原康史氏のオーガナイズによる「言葉のデザイン2010ーオンスクリーン・タイポグラフィを考える」の第7回研究会「印刷とweb/文字を透視する」に参加した。講師はデザイナーの田中良治氏と、アドビシステムズの山本太郎氏。

田中氏がデザインした、時間の経過とともに崩れていくフォントは、「文字は動かない」という期待を裏切るもので興味深かった。しかし個人的には山本氏の書籍に対する愛情のほうがより力強く響いたので、今回はそちらを紹介したい。

■書籍とは内容と形態の統合である

書籍とは何だろうか。ちょっと考えてみて出てくるのは、「紙に何らかの情報が印刷され、綴じられたもの」といったところだろうか。研究会でアドビの山本氏の論では、書かれた内容と、その見せかたが、密接に結びついたものが書籍である。現在書籍といえば紙がまだまだ代表格。紙に印刷するということは、レイアウトが製作者の意図した形で固定されるということである。行間、字間、字体や、図の配置、余白のデザインはもちろん、綴じかた、装丁に至るまで、「本」に含まれるすべての要素は、内容や、作られた目的に沿った形に作られる。このように内容と形態とが統合されているのが書籍である。この内容と形態はタイポグラフィが長年の歴史で目指してきたものでもある。

■WEBは内容と形態を分離してきた

タイポグラフィは、レイアウトを固定することで読みやすさを追求してきた。一方WEBは表示される文章のデータと、それをどのように表示するかという体裁のデータを分離する方向で進んできた。ブラウザのウィンドウの幅を変えれば、それに応じて1行の長さが変わるのはそのためだ。レイアウトを固定しないことで、PCの大きなスクリーンから携帯電話のような小さなスクリーンまで、どんな環境でも同じ文章を無駄なスクロールをすることなく表示できる。ただし、これは読みやすさを追求してきたタイポグラフィの考え方とは矛盾する。

■読みやすくなければデジタル「書籍」ではない

今、書籍のデジタル化が注目されているが、文章をテキストデータに置き換えただけでは、書籍とは言えない。紙をスキャンしたPDFも、レイアウトは紙に適切なものである。画面上でも見やすいとは限らない。デジタル書籍が「書籍」となるためには、タイポグラフィの理想を貫き、媒体に応じたもっとも見やすいレイアウトをとらなければならない。山本氏はそれを実現するのがこれからのデザイナーとエンジニアの仕事だと力説していた。

■書籍に形はない

永原氏から、書籍にきまった形は存在しないという、山本氏とは違った視点も提供された。アルタミラの壁画から、古代中国の甲骨文字、木簡、葦を原料とするパピルスと来て、紙は文字情報としては非常に新しいものである。今後もどんどん変化していくだろう。500年後に何が書籍と呼ばれているか、確かにまったく予想がつかない。

余談。

タイポグラフィ――印刷物のレイアウト・見せかたについては無知であるが、印刷とWEBの文書についてAdobeの中の人の話が聞けるというので楽しみにしていたこの研究会。「書籍とは何か」について面白い話を聞くことができた。また、デジタル技術が進み、マルチメディア、マルチメディアと騒ぐ割に、人々はメール、Twitterとどんどん文字に執着しているという指摘も面白った。何台ものMacが並び、前方スクリーンに講師のプレゼン資料が表示され、その横にはTwitterのタイムラインが流れる。Ustreamの放送をみながら、会場で話を聞きながら、みな「書籍」になりえないただのテキストを垂れ流す。

文字情報は静止画や動画に比べればそれ自体がもつ情報量は小さい。しかし、その分人々の焦点は定まりやすい。それが文章表現の強さだろうか。この辺も考えると楽しそうだ。

2011/05/14

「わからない」素敵さ

投稿者 福田快活   5/14/2011 0 コメント
「わからない」という言い切りにある暴力

「ああ、あれ。わからなかったw」「むずかしくてわからないよww」
自分から切りはなすのは簡単で、拒否し交わりを断てばいいだけのことで、

「わからない」=わたしの能力の限界でわたしのせいです

ってな謙遜した(一見)態度をとってれば、傲慢な切断もたやすくて。

そんな裏返しの傲慢ぢゃなくて、「わからない」を見下す「わかる」の傲慢でもなく、「わからない!」
けど、何かをどうしようもなく感じてしまって動かされてしまって惹かれてしまう――大野一雄の言葉にはそういう強さを感じる。
詩の強さ。

稽古場で研究生相手に語った言葉↓

あるとき私は私自身に、出ていって、出ていきなさい、出ていって出ていきなさいと、そう言った。私の肉体にそう言ったのか、魂にそう言ったのか、命にそう言ったのか。私はいつの間にか、飛び出していった。手が飛び出していった。蓄えられたエッセンスが手の中にあって、手が私から切り離されていった。でも手は遠くへ突っ走ろうとしないでいつまでも私のまわりにうろちょろしておったが、これはまぎれもなく私から飛び出していったエッセンスだ。魂が、エッセンスが飛び出していく。私の手が飛び出していく。あの手を見ろ。あれはお前自身の旋律だ。永遠の距離があった。私は私と無関係にエッセンスが離れていくのを見た。かつて私自身でもあったのに。今は他人のようにそのエッセンスを眺め感じることができた。お遊びなんだろ。

2011/05/01

カンナとカカシ(12)

投稿者 Chijun   5/01/2011 0 コメント
とんでもなくおおきな池をちょうど見晴らす位置に、まっしろいベンチがすえつけられていてね。カカシはそこにすわると、ほとんどうごいているのかいないのかもわからないほどとおくにあるボートをながめていたんだ。ひさしぶりに浴びるあたたかいひかりとおだやかな水にいつしか時間をわすれて、カカシはふと眠りにおちこんだり、そうかとおもうとベンチのうえにもどったり、またうとうとしたりを何度も何度もくりかえしていて、どれだけ時間がたったのかいったいどっちが夢なのかついにはわからなくってしまうほどだったけれど、それでもそこは、とにかくとってもきもちがよかったんだ。

ああきっとここが楽園なんだろう……。

そうにちがいない、となぜだかカカシにはわかってしまってね。いつのまにかじぶんがカンナにおしえてもらった場所にきていることにきづいたんだ。

こんなにあたたかいきもちのいい場所なら、きっとおいしい木の実ができるにちがいない。カンナはよろこんでくれるだろうか?
まだだいじな実をとるまえから、もうカカシにはカンナのよろこびが目の前にあるようだった。



カカシはようやく起き上がり、見なれない、しかしどこかなつかしいこの風景を注意深く観察しだした。木の実というからにはとりあえずなにか木があればと木を求めたけれど、みわたすかぎりそれらしいものは生えていなくてね。カカシのすねをこえない、背丈のひくい花々が咲いているばかり。水辺にちかづくと、こんどはすきとおるようなエメラルド・グリーンの水草が目にはいる。水草のひたる池の水ははかないガラスのように透明で、とおくとおくのボートがすこしでもうごけば、もうそれだけで罅われてしまいそうだ。
カカシはしずかにしずかに手をおろし、そっと水草にふれてみる。するともうそれはまるで奇跡のようにやわらかくて、すぐにカカシの手をのがれてしまう。さいしょはやさしく、水草を追いかけるのに夢中になってしだいにはげしくみずをかきまわしていると、とつぜんびりびりと手が痛んだ。どうやらみなぞこにある石にぶつけてしまったらしい。
こんなにきれいな池のなかにある石は、さぞうつくしいにちがいない。そうだ、まるで宝石のようにちがいないと、その石を手にとっていろいろ角度を変えながら見てみる。すると、石のあちこちからとつぜんにゅっとやわらかいものがとびだしてきたんだ。おどろいて石をほうりだし、そのいきおいでみなぞこの砂がたつまきのようになっているのがおさまるまで待つと、そこにあらわれたのはカメだった。カカシが石とおもっていたのは、じつはこうらだったんだね。
そうとわかると逃げないうちにあわててつかまえて、あたまをぐっとちかづけて眼をおおきくひらいて見た。するとびっくり、手のひらにのるほどのちいさなこうらから、三つの頭がとびだしていたんだ。両脇の頭はふつうの大きさで、まんなかのは豆みたいに小さいけれど、よく見ると両脇のとおなじかたちで、それをそのままちいさくしたものだった。まあ、なんとぶきみなカメがいたものだ。
カカシはまたまたカメをほうりだし、手についたぬめぬめをとりはだをたてながらどうにか拭いおとそうとした。カメの方はあわれにも白いはらをうえに向けて、四つ足をばたばたとやっている。

「おいおいまたかよ」
「僕は蛇のように忌み嫌われているんだ……」
「ぶえっくしゅん!」

三ツ頚がてんでばらばらにしゃべりだしてね、いっぺんにその場はにぎやかになった。
 

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