あ、1本いいっすか?

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2010/05/01

チャック・パラニク(チャック・パラニューク) 2

投稿者 福田快活   5/01/2010 0 コメント
nobutovskiの更新が遅れまして、すみませんm(_ _)m 4/28更新と予告したのですが、5/1になりまして、、、今後このような手抜かりのないよう、急度叱り申しつけておきますれば、何卒、何卒、御見物衆のかわらぬご贔屓ご引き立て、願いたてまつりまするう~~~m(_ _)m

さて前回はどこまで訳したんだっけ?――そう、パラニクが書くのは「書くこと」で他のひとと一緒にいれた=つながれたから、てとこまでだったね。パラニクに言わせれば『ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」』で、こっからは具体的に『ファイト・クラブ』はじめ彼の小説のはなしがはじまる――

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ファイト・クラブ』の成功について、ぼくのお気に入りの説は、人と人がいっしょにすごす枠組みを提示したから、なんだ。人は新しい繋がりかたを知りたがってる。『キルトに綴る愛』とか『ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密』とか『ジョイ・ラック・クラブ』のような本をみてよ。こうした本はぜんぶ枠組みを提示してる―キルトをつくったり、麻雀したり―そうしたら人が一緒にいれて、自分たちの物語をわかちあえる。こうした本はぜんぶ、共通の活動あって結わえられたいくつもの短い物語なんだ。もちろん全部女の物語。男の社交の新しいモデルってのはあんまり見かけない。そうだね、スポーツ、納屋の棟上げ。それくらいだね。

で、いまファイト・クラブがある。良かれ悪しかれ。

『ファ イト・クラブ』を書き始める前、ぼくは慈善ホスピスでボランティアしてた。ぼくの仕事は診療予約や支援グループのミーティングへ車で人を送ること。そこではてきとうにみんな座って、そう教会の地下室とか、病状くらべたりニューエイジ体操したりして過ごしてる。そうしたミーティングはぼくに居心地悪かった。どんだけ隠れようとしてもみんなぼくも同じ病気もってんだろと穿つんだ。ただ見守ってるだけ、ホスピスにもどって責任を果たそうとしてるだけの観光客、って穏便に言える方法なんてありゃしない。だからぼくは、焦点のあわない自分の人生を慰めようと重病者の支援グループに出没する男の物語を自分のなかでつくりあげていった。

多くの意味でこうしたとこ-支援グループ、12段階回復グループ、デモリション・ダービー-はむかし宗教が果たしてた役割を果たすようになってる。そのころぼくたちは教会にいって自分の最悪な面、ぼくたちの罪、を曝してきた。じぶんの物語を伝えるため。許されるため。贖われ、共同体にふたたび受いれてもらうため。この儀式はぼくたちが人と繋がるための方便で、不安が、ぼくたちを人間性からあまりに遠ざけてしまって自分が失われてしまう、まえに解消させる方法でもあった。

こうしたとこでぼくは誠実な物語を見つけた。支援グループで。教会で。どこだろうともう失うものがないとこ、そこで人はもっとも真実に近づいてた。

『インビジブル・モンスターズ』を書いてる間、ぼくはダイヤルQ2に電話して、ひとにとびっきりのエグい話をきかせてよ、てせがんでた。電話してこう言えばいいんだ:「やあ、みんな元気?アツイ兄弟姉妹近親相姦のはなし探してるんだ。おまえの聞かせてよ!」とか「あんたのいっちゃんエグくて不潔な女装・男装ファンタジー聞かせてよ!」そうすりゃもう、何時間ものメモさ。そこにあるのは音だけだから、猥褻ラジオショーみたいなもん。お粗末な役者もいれば、胸張り裂かれることもある。

ある電話で男ノコが話したのが、「てめえの親を児童虐待と育児放棄で訴えるぞ!」て脅されたんで警官とセックスさせられたことだった。警官はその男子に淋病をプレゼントして、彼が助けようとした両親は・・・彼を追い出して浮浪児にした。自分の物語をしながら、おわり近くで彼は泣きだした。もしあれがウソなら、最高の演技だった。小っちゃなマンツー劇場。もしそれが物語なら、それでもすばらしい物語だった。

もちろん本の中でつかったさ。

世界は物語る人々でできてる。株式市場をみてみなよ。ファッションでもいい。どんな長編物語、小説も短い物語の組み合わせだ。

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さて次は「3」で最後だ。ずいぶん長い、分載?になっちまったけど、最終回も「みんな観てくれよな!」って台詞でバイバイキーン^(ノ◎皿◎)^ノ 

The Brief Wondrous Life of Oscar Wao(前編)

投稿者 サトウ   5/01/2010 3 コメント
 授業で読んでいる本がおもしろい。ドミニカ系アメリカ人のJunot Diaz という人の書いたThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoという作品である。まだ半分しか読んでいないのだが、なんとなく感想を書いてしまうのである。
 主人公はタイトルにあるとおり、オスカーOscarという、ニュージャージーで暮らすドミニカ系の移民二世。デブでSFオタク、週末にはヤオハンで日本のオタクカルチャーにどっぷり浸かる。人生で最高にモテたのは7歳のころ、という、ちょっと哀れな男の子の生活が作品の主軸をなしているようなのだが…。
 これがなんだか変な作品なのである。まずは大量に混入されるスペイン語。わたしはスペイン語を習ったことがないので全然わからない。ただし、なんとなく「ここはののしり言葉かな」とか「これはおじさんとかおばさんとか、とにかく親戚を表す単語だろう」ぐらいの推測はつくので、内容を完全に見失ったりはしないところがすごい。
 また、この作品はいくつかの章にわかれているのだが、章によって話者が次々と変わり、人称も変わる。一章ではオスカーの悲惨な生活が三人称でおもしろおかしく(雰囲気は森見登美彦と似ているかもしれない)描かれるが、二章になると突然二人称の文がすこし挟まれ、直後にオスカーの姉ローラLolaの一人称の語りがおかれている。このローラの語りは母親とのかなりハードな確執が描かれていて、一章とはがらりと変わって切迫している。ちょっとThe Catcher in the Ryeのホールデンを思い出した。
 半分読んだ段階で、この本のもつ一番の特異性は、実は「語り手」の存在にあるのだ、と気づいた。それは三章に現れる。全体的には三人称の語りによって、オスカーの母ベリシアBeliciaのドミニカでの十代からアメリカに移住するまでの経緯が描かれるのだが、なぜかところどころに「わたし」が乱入してくるのである。三人称の語りを他の人称と比較した場合、どちらかといえば中立的で俯瞰的な視点を読者に提供するもの、すなわち読者に出来事を伝達する、透明度の高いメディアといえるだろう。しかしここでは、たとえばベリシアが十代の頃働いていたレストランの客と話している場面で、語り手は「いまでも私は車に乗っているとときどきその男を見かける」などと、あまり関係のないような自分の体験をつい言ってしまう。それから、やたらに注が多い、というのもこの本の特徴なのだが、ここでも謎の「わたし」が自分の体験や感想、詳細なドミニカの歴史、そしてなぜか創作過程(「じつはここに出てきた○○という地名は草稿の段階では××にする予定だった」など)を明らかにしてしまったりする。こうした三人称の語りのなかでは違和感を与えるような一人称の発話が挿入されることによって、しだいに語りが抽象的な「視点」としてよりは、生身の身体をもった誰かの「声」として存在しているように思えてくるのだ。

 語り手はいったい誰なのだろう、と思いながら読み進める。そうでなくても、どんどん先へ進みたくなる小説である。ついでにいうと、スペイン語だけでなく日本語もときどき出てくるのだ。アメリカの小説にkatana、kaijuなど、日本語がたくさん出てくるのはなんだか不思議だ。otakunessという言葉が出てきたときは笑ってしまった。

 全部読んだら改めて書こうと思う。
 

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