松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)は福森久助の作だ。
福森久助はまあ、明和4(1767)年にうまれて文政元(1818)年に死んだ歌舞伎作者、『東海道四谷怪談』で有名な作者鶴屋南北のライバルだった人ととりあえず思っといて。
い まも作者名を冠して上演される江戸時代の作者がこの鶴屋南北と、時代はくだって幕末明治の河竹黙阿弥くらいだろう。黙阿弥は「明治になる前に近代だった」 芝居を書く人間でしょうじき好みぢゃない。南北はそれこそ、江戸の髄とでもいえるような芝居を書く、そのライバル福森は、これまでみたことがなかった。 ネームバリューは相対的に低い。
それでも今回(去年の9月。。。)の上演とあって楽しみ、南北とどう違うんだろどう似通ってるんだろ――という期待に駆られていた。
「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕にわかれる。
八百屋お七ものだ。八百屋お七ってのは「恋にはまり過ぎて男にあうため放火する」キャラだ。まちの八百屋の娘っていうより、ダイエーの社長令嬢、「男にあうため放火」ってのは男とあったのが火事のため避難した寺だったから、また火事が起これば会える、と思って放火する。
こ の『松竹梅湯島掛額』ではちょっと違うんだが、基本キャラはかわんないので割愛。。。んーやっぱ軽く説明――避難先吉祥院でお七が惚れた寺の小姓吉三郎、 実は歴とした武家、紛失した御家の重宝天国の短刀を捜しだしてお家再興を図る大事の身。(間があって)この短刀を見つけたお七、吉三郎に届けようとするも 暮れ六つ(6PM)を過ぎ、木戸は固く閉ざされている、木戸を開き吉三郎のお家再興を果たすため、お七は重罪をかえりみず火の見櫓の太鼓をたたく
「男にあうため放火」が「男のために禁を犯して太鼓をたたく」にアレンジされてる。このアレンジは歌舞伎の胆にかかわることだけど、今回は割愛。。。ほんとに
「吉祥院お土砂の場」は中村福助演じる美貌のお七を手に入れようと蒲冠者範頼(史実では源頼朝の弟のひと)が手先をよこしてくる。そいつを撃退するために中村 吉右衛門演じる紅長が、人をグニャグニャにする霊験あらたかなお土砂(まあ砂)で手先もグニャグニャ、寺の上人・小坊主、お七のお母さん、下女・友達かま わずグニャグニャにしまくる、お七だけはしない、お祭り芝居で、このムチャクチャぶりが福助か、なるほどと思ってた。
「火の見櫓の場」は全然違った。
さっきの「(間があって)」以降の筋なんだが、みて欲しい。上のグニャグニャ騒動とノリが違いすぎる。マジメなんだ。悲劇なんだ。
そして何より福助のお七が人形振り。
人形振りってのは黒子が後ろについて操ってる設定で、福助が人形みたいな動きをするんだ。
ポッピングと通うものがある
このお七が人形振りが信じられなかった。
八百屋お七=恋に狂った女=人形操り
観念的な整合性がとれすぎてるんだ。
恋に狂った女は人形である。凝縮された恋の激情は臨界点を超え虚無を爆発させる、黒子に操られる手足は機械的な直線を描き、眼はガラスのように見るものを吸い込む、まさにこの虚無こそが福助の演技の・・・なんたらかんたら
と言えちゃいそうな、いやこういうことはゆえるし、ハズレではない。
「すべてが恋」になったお七は実は「なにももってない」怖さのようなものは
舞台を見てれば感じるんだけど、そゆことは実際にもあるんだろけど
「これって福森久作?文化文政(19c初め)の発想?」
首を傾げる。
この整合性のとり方は近代の発想で、江戸ぢゃあねえな。これ福森ぢゃないんぢゃ?
て思いながらポテチかじってたら気になりすぎたので、買う積りのなかったプログラムを買ったらこうあった――
『松竹梅湯島願掛』は、文化6年(1809)3月、江戸森田座で初演した福森久助作『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「吉祥院の場」と、安永 2年(1773)4月、大坂北堀江座で人形浄瑠璃で初演され、歌舞伎でも人気のあった『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』の「火の見櫓の場」 を河竹黙阿弥が繋ぎ合わせて脚色し、安政3年(1856)11月、江戸市村座で初演しました。
福森を観に行って、黙阿弥は「明治になる前に近代だった」をあらためて確認した。安政3年は明治維新まで11年待たねばならない――でおわったらこの文章、整合性とれすぎてるので、
さいごに――バイバイキーン
※そもそも「火の見櫓の場」を入れるのが黙阿弥の発想でも、「狂ったお七は人形」が黙阿弥の発想かわかんないしね。これは黙阿弥の元の台帳で後日、確認しよう。黙阿弥が近代、ってか近代ってなに?ってこともあらためて
福森久助はまあ、明和4(1767)年にうまれて文政元(1818)年に死んだ歌舞伎作者、『東海道四谷怪談』で有名な作者鶴屋南北のライバルだった人ととりあえず思っといて。
い まも作者名を冠して上演される江戸時代の作者がこの鶴屋南北と、時代はくだって幕末明治の河竹黙阿弥くらいだろう。黙阿弥は「明治になる前に近代だった」 芝居を書く人間でしょうじき好みぢゃない。南北はそれこそ、江戸の髄とでもいえるような芝居を書く、そのライバル福森は、これまでみたことがなかった。 ネームバリューは相対的に低い。
それでも今回(去年の9月。。。)の上演とあって楽しみ、南北とどう違うんだろどう似通ってるんだろ――という期待に駆られていた。
「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕にわかれる。
八百屋お七ものだ。八百屋お七ってのは「恋にはまり過ぎて男にあうため放火する」キャラだ。まちの八百屋の娘っていうより、ダイエーの社長令嬢、「男にあうため放火」ってのは男とあったのが火事のため避難した寺だったから、また火事が起これば会える、と思って放火する。
こ の『松竹梅湯島掛額』ではちょっと違うんだが、基本キャラはかわんないので割愛。。。んーやっぱ軽く説明――避難先吉祥院でお七が惚れた寺の小姓吉三郎、 実は歴とした武家、紛失した御家の重宝天国の短刀を捜しだしてお家再興を図る大事の身。(間があって)この短刀を見つけたお七、吉三郎に届けようとするも 暮れ六つ(6PM)を過ぎ、木戸は固く閉ざされている、木戸を開き吉三郎のお家再興を果たすため、お七は重罪をかえりみず火の見櫓の太鼓をたたく
「男にあうため放火」が「男のために禁を犯して太鼓をたたく」にアレンジされてる。このアレンジは歌舞伎の胆にかかわることだけど、今回は割愛。。。ほんとに
「吉祥院お土砂の場」は中村福助演じる美貌のお七を手に入れようと蒲冠者範頼(史実では源頼朝の弟のひと)が手先をよこしてくる。そいつを撃退するために中村 吉右衛門演じる紅長が、人をグニャグニャにする霊験あらたかなお土砂(まあ砂)で手先もグニャグニャ、寺の上人・小坊主、お七のお母さん、下女・友達かま わずグニャグニャにしまくる、お七だけはしない、お祭り芝居で、このムチャクチャぶりが福助か、なるほどと思ってた。
「火の見櫓の場」は全然違った。
さっきの「(間があって)」以降の筋なんだが、みて欲しい。上のグニャグニャ騒動とノリが違いすぎる。マジメなんだ。悲劇なんだ。
そして何より福助のお七が人形振り。
人形振りってのは黒子が後ろについて操ってる設定で、福助が人形みたいな動きをするんだ。
ポッピングと通うものがある
このお七が人形振りが信じられなかった。
八百屋お七=恋に狂った女=人形操り
観念的な整合性がとれすぎてるんだ。
恋に狂った女は人形である。凝縮された恋の激情は臨界点を超え虚無を爆発させる、黒子に操られる手足は機械的な直線を描き、眼はガラスのように見るものを吸い込む、まさにこの虚無こそが福助の演技の・・・なんたらかんたら
と言えちゃいそうな、いやこういうことはゆえるし、ハズレではない。
「すべてが恋」になったお七は実は「なにももってない」怖さのようなものは
舞台を見てれば感じるんだけど、そゆことは実際にもあるんだろけど
「これって福森久作?文化文政(19c初め)の発想?」
首を傾げる。
この整合性のとり方は近代の発想で、江戸ぢゃあねえな。これ福森ぢゃないんぢゃ?
て思いながらポテチかじってたら気になりすぎたので、買う積りのなかったプログラムを買ったらこうあった――
『松竹梅湯島願掛』は、文化6年(1809)3月、江戸森田座で初演した福森久助作『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「吉祥院の場」と、安永 2年(1773)4月、大坂北堀江座で人形浄瑠璃で初演され、歌舞伎でも人気のあった『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』の「火の見櫓の場」 を河竹黙阿弥が繋ぎ合わせて脚色し、安政3年(1856)11月、江戸市村座で初演しました。
福森を観に行って、黙阿弥は「明治になる前に近代だった」をあらためて確認した。安政3年は明治維新まで11年待たねばならない――でおわったらこの文章、整合性とれすぎてるので、
さいごに――バイバイキーン
※そもそも「火の見櫓の場」を入れるのが黙阿弥の発想でも、「狂ったお七は人形」が黙阿弥の発想かわかんないしね。これは黙阿弥の元の台帳で後日、確認しよう。黙阿弥が近代、ってか近代ってなに?ってこともあらためて