あ、1本いいっすか?

Next Writer:Chijun

up-date: Sun, 18, Mar.


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2011/11/21

ラーメンと愛国

投稿者 福田快活   11/21/2011 0 コメント
「ラーメンと愛国」。なかなかすてきな本だ。速水健朗氏をしったのは「ケータイ小説的。」で、その時はケータイ小説がブームゆうか書籍売り上げランキングの上位を占めたりして、マスメディアで「ケータイ小説」ってなんやねん?ゆう取り上げが増えてた。『文學界』やとかそういう文芸誌でとりあげられて、作家やとか社会学者がケータイ小説について話し合ったりしたことも覚えてる。内容は覚えてないけど。ひとことで言っちゃうと「ケータイ小説は文学か?」っていう「カレーは日本料理じゃねえ。日本人なら魚だろ!と板前が吠える」式の、そんな板前さんがおったか知らんけど、式の話の運びだったから、さらさらめくって忘れた。

「どうもこれが一番いいみたい」って友達が教えてくれたんが「ケータイ小説的。」で、その友達は信用してるから買って読んで、「速水健朗」ゆう名前は覚えておこうと思ったてゆうか、覚えた。80年代の女の子雑誌ティーンズロードと浜崎あゆみとケータイ小説を結びつけてヤンキー少女の系譜にならべたり、ケータイ小説の構成によくつかわれる妊娠、中絶、死とかが生きてるなかでそうそうでくわすものじゃないけど読み手・書き手に「リアル」にうけとめられるものだとか肯くものがたくさんあった。

切り口が独特でおもしろい人だな。都築響一をひきながらヤンキー文化がメディアのなかではマイノリティーだ、という指摘は共感するな、この人の話もっと聞きたいなと思った。過去の著書を読み、ブログをチェックして、なんとなくネットをしなくなって離れた。講談社からのメルマガで新作がでたことを知ってすぐ買った。

ラーメンもまたヤンキー文化に隣接してる。ラーメン屋の作務衣とか、「道」的こだわり、便所の色紙に書かれた親父の小言の内容もそうだし相田みつをみたいな書体、そういえばケータイ小説的には相田みつをも出てきた。ヤンキー少女に人気という文脈から、相田みつををちゃんと論じてた。

速水氏の一貫した関心をみとれる「ラーメンと愛国」はやはり、作者のモチベーションを感じれておもしろい。とくにハッとさせられたのは

ご当地ラーメンは古くからの郷土料理となんの関係もなく、田中角栄の時代に推進されたモータリゼーション、国土開発のなかで地方が観光資源としてたまたまアピールし、マスメディア(テレビ)を通して広まるなかで逆照射的に自覚されていったという指摘。

まだ実は読んでる最中なんだけど、おすすめです。小麦、パン食が日本にひろまった過程が気になる人もぜひ。

2011/11/06

電車に乗って行こう。

投稿者 じん   11/06/2011 2 コメント
このまま、僕は鉄道マニアになるかもしれない。鈍行の窓の外に見える景色が、のんびりと過ぎていく。たいていは緑色だけど。日本のほとんどは田舎だから。10分か、15分かに一回、そろそろと人が降りていくのもいい。そんな風景を、耳にイヤホンを突っ込んで、適当に音楽を流しながら眺める。それを想像しながら、一生懸命安いルートを探したりするのも、また楽しい。

しばらく遠ざかっていた、読書という、なんとなく繊細そうな、中性的な趣味も、鈍行の旅をするようになってから、復活した。文庫本の小ささが、可愛かった。勉強のためにとめくっていた、洋書のペイパーバックのそっけなさとはちがう、軽さがある。てぃーにーてぃーにーまいりるぶっくちゃんだ。

25にもなって自動車免許を持ってない僕はかなりの少数派で、東京から名古屋に引っ越したときにはすぐに自動車学校にいかなきゃ!と友達にはなしてたりしていたけど、どうなることやら。まだ、近いうちにとるつもりだよ、来月は落ちつきそうだし、なんて思っている辺り、あやしいな。

ともかく、どんこうに数時間ゆられていくのは、バス旅より楽チンだし、もちろん自分は運転する必要もないし、うん、いいなぁ。今日は名古屋から大阪まで、4時間半、3000円弱。安いよ!安いよ!さあ、ひとつどうだい?

2011/10/10

iPhone 4Sは軽くならなかった。

投稿者 Chijun   10/10/2011 0 コメント
モバイル用デバイスは、もちろん軽くあって欲しいですよね。「重くて嬉しい」という場面や人は……なかなか思いつきません。いずれ「軽すぎて困る」というときが来るかもしれませんが、今のところそういった意見は見かけたことがないです。モノとしての道具の洗練というのはバランスが難しく、あまり小さくしすぎると「薄すぎ」という人が現れたり(iPod touchなど)、キーボードをタッチパネルにしてみると「長文はやっぱパソコンでないとね」(iPhoneやiPadなど)という風に打鍵感を必要とする人も少なからずいるようです。つまり、モノとしてのある種の物理的抵抗感、存在感が必要な場合もあるということですね。

iPhone 4Sは140gで、これはiPhone 4とほとんど変わりません。今回のiPhoneのニューモデル、処理速度が速くなったのは悪いわけがないのですが、iPhoneの利用シーンを考えると、私はまだもうちょっと軽くなって欲しいデバイスだと思うのです。

iPhoneの新型発表がiPhone 5……でなく、マイナーチェンジに終わってしまったのを残念がる人も多いようですが、そもそも最近のAppleの製品は、分かりやすくカタチを変える大きなフルモデルチェンジというのが少ないです。最初の段階で限界近くまで洗練させてから出す、という姿勢の現れなのでしょうか。今日は特に重さに注目して、変化を追ってみます。

13インチのノートパソコンMacBookは、2006年に2.36kgのモデルとして発表されます。2008年まではマイナーチェンジが続き、2.27kgとさほど大きな変化はありません。2008年にはMacBook Proと呼ばれるシリーズに13インチモデルが誕生し、全体的に高機能化しつつ2.04kgと減量してきます。それ以降13インチのMacBook Proは現在までに三度のマイナーチェンジを経ますが、2.04kgのままです。

2008年には同じく13インチのモデルでMacBook Airも登場し、同等のサイズとしては1.36kgと大幅な軽量化をしますが、これは軽さの代償にいくつかの機能を犠牲にしているので、MacBook Proとは用途も違ってきます。単純な比較はできません。しかしこのMacBook Airのシリーズも、四度のモデルチェンジ後の現在1.34kgとほぼ変わりません。途中11インチモデルが登場しますが、こちらも、1.04kg→1.08kgですから、変化なしといっていいでしょう。

対照的にかなり早い段階で軽量化を果たしたといえるのがiPadで、Wi-Fiモデルは初登場時680g、一年後のiPad 2は600gとなっています。MacBookとは単位が違うので減量数値だけ冷静に考えると大したことなく思えてしまいますが、このサイズで80g減ると、割合的にも、両モデルを使用した実感としても、「これはずいぶん軽くなった」と思った人が少なくないようです。iPadの利用場面を考えれば、初代の680gというのが重すぎるというのはAppleも承知の上だったのでしょう。600gでもまだ軽いとはいえませんが、初代に比べると2はだいぶ取り回しも良くなりましたし、実際に利用時間も大きく増えました。

さて、iPhoneです。iPhoneは2007年に登場して以来これまでに三度のモデルチェンジをして、140g→130g→140g→140gと、結局変わらずです。AppleはiPadほどには、iPhoneに軽量化が必要ないと判断しているのでしょうか? それとも色々な機能・要素を総合的に判断した上で、現在の技術の限界のところで「うまく」バランスをとっていると評価できるデバイスなのでしょうか?

ちなみに同等サイズのiPod touchは、最新モデルで現在101gです。MacBook Proに対するMacBook Airのように、機能の制限はありますが、iPhoneと利用場面が重なる機会は少なくありません。また、iPhoneとは約40gの違いですが、手のひらに収まる小さなサイズとしては、はっきり重さの違いを感じる人が多いと思います。となると、iPhone軽くなって欲しいなあ……と欲が出ますねえ。

2011/09/04

らくーにいきるには。

投稿者 じん   9/04/2011 0 コメント
職場の先輩が、寝違えに苦しむ僕に、ヨガの極意とやらを教えてくれた。

首を倒して5呼吸。体をよく観察する。
首を戻して同じ時間。脳に痛みを理解させる。
そうすれば自然に治癒力が働く。

聞いた時は本当に痛かったので単に痛みを和らげる方法としてありがたく聴いていたのだけど、帰宅後、この言葉を思い出しながらいつものストレッチ。これまでストレッチは筋肉を伸ばして痛みを和らげるための治療法だと思っていた。それが痛みを理解し、自然治癒力のトリガーを引くためのものだという。大きな発想の転換だ。それだけでも目から鱗だったが、そのうちふと、これが体の痛みだけでなく、あらゆる事柄にあてはまるのではないかという気がしてきた。

痛みをよく観察し、同じ時間かけて理解すれば、自然治癒力が働く。

ヨガはインドのなんとかいう哲学の実践の最初の一歩だとどこかで聞いた。無我の境地に至るための精神統一手段のような位置づけだったはず。

さすが釈迦を生んだ国。痛みや苦しみを受け入れることが、楽に生きるための第一歩というわけだ。

2011/08/25

働こうぜ、諸君!!

投稿者 福田快活   8/25/2011 0 コメント
最近の関心は、労働です。

資本主義の三大要件は資本、労働、土地?だったかな設備?だったと思うがそのなかで労働がどう編成されてきたのかこれからどう編成されるのか。

たとえば自由と民主のためにたちあがったとされるフランス革命だが、革命によって身分を排することで従来の農民層を解体、新しい工場労働者層の確保に役立った面がある。アメリカの奴隷解放も、北部が流動的な下層労働者を必要としたからから達成できたという側面もある(新移民の方が安かったという話もある)。自由も民主もだれのためにあるんだ?自由とか民主を謳うことで、主体的な市民を育成し、おかげで徴税・徴兵が国家にとって楽になった(市民はその内面に国家を抱えるから)のもそうだ。

近代の達成と、それによって不可視になる制度=システム。制度が複雑精緻になるなかで人はどう生きるのか。生きないのか。ここで労働が登場する。

税や兵を徴用する必要があるように、制度は生産力を人間から徴用しないといけない。そのためには時間の発明(時間給ていう概念がうまれる)だとか学校での規律の調教がある。いい加減な能天気な人間ぢゃなくて、時間に正確で決められたことをちゃんとする労働者を生産する。その労働者が商品を正確に生産する。

そういう意味では余暇=レジャーも近代の発明で、労働力の再生産+消費の促進のために欠かせない重要な務めである(みんな旅行しよー!)。

仕事とプライベートという表現がだいっきらいなのは(でも便利だからつかうが)、ここのレジャーの話に典型的なようにプライベートも資本の論理に駆動されている、という意味では仕事とまったく同じだから。プライベートを大切にする、ていうとあくせくとした労働に追われずに人間らしく生きる的なニュアンスがあるが、まったくの勘違い。派手に遊べば遊ぶほど資本とがっつりチューしてることになる。それはもちろん、プライベートの代表とされる恋愛or家庭でもかわらない。

恋愛がかかわってくるのは労働力の再生産の部分。ようは子供を産む、結婚だ。主婦の誕生。
とここまできてもう時間がないので、次回は恋愛と結婚の話から。とりあえずはバイバイキーン

2011/08/11

カンナとカカシ(15)

投稿者 Chijun   8/11/2011 0 コメント
ジェントルマンは一行の前に進み出ると、「みなさん、本日は勇敢なる男の子のためにお集まりいただきましてまことにありがとうございます! 幾多の苦難を乗り越え、彼はついにここにたどりつくことができました。わたしは(と、ここで一息ためて)きよらかなる愛というものに関心を持つ者です。彼をここまで導いたのは、彼が思いを寄せる美しい女の子の、かけがえのない願いから出た、たったひとことの言葉でした。彼は年齢以上にはにかみ屋の、自分からは何もできない男の子でした。しかしそれも昔のこと。女の子の願いが、彼をして大人への階段の第一歩を踏み出さしめたのであります! 彼をここまでーーというのは場所としてのここのみならず、彼の成長点としてのここという意味においてもですーーここまで導いたのは、小さな女の子の小さな願いでした。しかし我々大人が、それをちっぽけなこどもの戯れに過ぎないと片づけてしまってもよいものでしょうか? 断じて! 断じて! 我々大人こそ、小さな子どもたちの純粋な行為から、純粋な愛から、学ばねばならぬものは少なくな……」

と、そこまできたところでとつぜん、聖らかな鐘の音がいっぱいになりひびき、ジェントルマンは固まってしまった。まわりを見ると、ジェントルマンだけじゃない、まるで時計の針を止めてしまったかのように、みんな固まったままうごきをとめてしまったんだ。

カカシが振り向くと、遊園地はすっかり消えていてね。代わりにそこには大きな、てっぺんが見えないほどの大きな樹がそびえたっていて、その根元に花々に囲まれたひとりの女の子がーー正真正銘のカンナが、眼を閉じて横たわっていた。
いつまでも鳴り止まず、上の方から楽園にふりそそぐ鐘のなか、カカシは一歩一歩ちかづき、カンナに手を触れようとしたところで、一枚の透明な、よっぽど近づかなければ分からないほど透明なガラスのような壁が、ふたりをへだてているのに気がついた。
カカシが試しにトントン、と透明な壁をつついてみると、
「このままじゃきみは」と、ガラスに文字が表示されだしたんだ、「だれにもであえない」
そこまででいったん消えたあと、また順番に一文字ずつ、「であったとしてもそれはみな、きみがつくりだしたまぼろしにすぎない。いまのままじゃきみはかんなにであえない」

「きみはきみがおかしたつみのほんとうのいみをりかいするまで、なんどでもくりかえさなければならない」

いつしか鐘の音もなりやみ、カカシの目の前のガラスはそれまで映像をうつしていたにすぎないとでもいう風にとつぜんまっくろになってしまった。大きな樹も、そのしたで眠るカンナも、カンナをかこむ花々もーーすべて消え、ふたたび文字が語りかけてくる。

ーーほんとうに強制人格交換プログラムを起動してもよろしいですか?




Yes or No ?



カカシがなにも押さないうちに、画面はふたたびまっくろになった。



それに合わせて、カカシの視界もまっくろになった。視界だけじゃない。あたまのなかみも、すべてーー








「にんげんのかなしみのそこがみてみたい」
少女はそういうと、少年の右手にピストルをのせた。女の子の名前はカンナ、男の子の名前はカカシといった。
カカシはカンナのことが大好きだった。「ぼくはカンナに選ばれたとくべつなこどもなんだ」いつも自分にそういいきかせていた。「ぼくは……ぼくは……」いっしょうけんめい、なんどもなんどもいいながら、お父さんとお母さんのいる部屋へ、冷たく長い廊下をはだしで歩いた。とっても寒い日のことでね、足のうらはじんじんして何も感じない、だんだん頭もぼうっとしてくる。

ぼくはカンナに選ばれたとくべつなこどもなんだ。

気づくと、目の前にはかたくなったお父さんとお母さんがいた。眠っているみたいにも見えるけど、目はぱっちりとひらいていてね。カカシは左のポケットから携帯電話をとりだして、お父さんとお母さんのすがたをカメラで撮った。
それは、カカシ十二才の誕生日のこと。
窓からひとすじさしこんでいた光がとつぜんぐんぐんつよくなる、これはたまらない、と目を閉じようとした、そのとき、
カカシのあたまのなかで、なにかがパチンとつぶれる音がした。

光がおおきな手のようなかたちになってカカシをつつみこもうとしているのが、最後に見えた。
















                                                   Ⅱ

2011/07/19

原始の雄叫び

投稿者 福田快活   7/19/2011 0 コメント
まちには臭いがあるんだってことに気づいた。

草いきれのもわっとした臭いはただ嗅覚だけぢゃなくて、肌にも感じられ、眼にもみえるかのような質量で迫ってくる。

近くに雑木林があるくらいで、他はただの住宅街だから、雑木林ひとつでこうも違うんだと結論づける。誰も手入れをしてるようにはみえない、野放図、やりたい放題好き勝手に草木が成長してる。「ヤホー!」叫びながらすくすく、幹・枝・葉をのばしてんぢゃないか。

そんなフリーダムな草木の跋扈を東京では感じたことがなかった。緑があってもそれは、丁寧に手入れ・矯正された金玉抜かれた草木の閉鎖病棟だったからか。いや、話はそんな簡単か。

ただおれが慣れて鈍感になってただけ。そう考えた方がいい気もする。馴らされ、矯正されてるのはおれの方。ん。そうだろう。なにしろ郊外ベッドタウンにいっただけで「草いきれ」って騒いでるくらい閉鎖病棟;東京につかってんだから。「ヤホー!」て叫びたい(笑)

2011/07/07

カンナとカカシ(14)

投稿者 Chijun   7/07/2011 0 コメント
 ひきつぎがすむとおばあさんたちはもうカカシに興味をなくしてしまったようす。鼻をおもいっきりかんで、いとおしげに鼻紙を見つめていた。
「こんなちいさな背中じゃ龍宮城にはのせていけないが、木の実があるところくらいなら教えてやれるぜ?」右の頚は得意げだ。
まんなかはうつむいて黙ったまま、こちらを見ようともしない。
左はあいかわらず「ティッシュ! ティッシュ!」とうるさい。
するとカカシの背後からぬっと手がとびだしてきて、緑に汚れた鼻紙をやかましい左の頚におしつけて、ぐりぐりと。ティッシュに顔をうもれさせて、左もようやく静かになった。



カメとは思えないほど速い三ツ頚の四つ足の回転を、そのうしろにつけながら、カカシは見下ろしていた。しかし手のひらサイズのカメがいくら回転数を上げたところで、歩幅が大きくなるわけではないのだから、そこはやはりカメらしく遅々とした歩みだ。カカシはときどき右を見たり左を見たり、あるいは立ち止まって物思いにふけったりしながら、ゆっくりとカメのうしろを歩いていた。

「……そこに咲いてるのがカトナウヘで……そっちであたまを垂れてるむらさきのがジェントリウムで……って、おい。おまえ話きいてないだろ?」
あんまりカメの歩みがおそいので、カカシはすっかり飽きてしまっていたんだね。注意されたところで、ぼうっとかすんだ眼をカメの方にいっしゅん向けただけだった。
「仕方ないさ」まんなかが、右をなぐさめるようにいった。「こんなところにくるやつだ。じぶんのことにしか興味がないのさ。そういう奴にかぎって、たいてい陳腐なキャラクターなのはどうしたわけだろう? 『オレじぶんのことにしか興味がないから』っていうセリフじたい五万てやからがあっちでもこっちでも今日も明日も明後日も繰り返しているのに気づかないとでもいうのだろうか? いやいや。かりに気づいているとしたって、それでもくりかえして五万とんで一人目になろうなんてのは、没個性もいいところさ。そんなたいくつなじぶんばかりみてたって、楽しくなんてありはしないだろうに!」
「おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ、おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ、おれじぶんのことにしか・きょうみがないからっ……」左がうたうようにくりかえす。
「うそつきやがれ」と右が返した。「おまえみたいにどうしようもないバカな奴に、じぶんのことがすこしでもわかるってのか?」
「君みたいに奇矯な人格にこそ、神は自ら省みる術を与えるべきだったね。きっとじぶんを見ているだけで、一生たのしくやり過ごせたさ。まわりに迷惑をかけることもなく。……しかし我ら憐れなる存在よ。じぶんのなかに引きこもろうったって、こうも両脇でぎゃあぎゃあやられたのではたまらないね。せめて僕一人だけでも、別のこうらが欲しかった」

とまんなかが嘆いたところで、一行は(といっても一人と一匹だけだったけれど)見晴らしのいい丘の上に着いた。

丘のむこうには、イルミネーションにかがやく観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランドが見えた。つまりそこは、まるで遊園地のようだったんだ。

振り返ると、見わたすかぎりとおもわれた花畑が、カカシの視線のずっと先で円形にくらい壁でかっきり切り取られていて、そこがある種の屋内庭園になっていたのがわかった。

ふたたび前を向くと、「ようやくだな」と右が教えてくれる。「見えるだろ? あそこでおめあてのもんが手に入るぜ」

丘をくだってさらに進むと、観覧車はだんだん大きくなり、ジェットコースターも見上げるばかり、メリーゴーランドから流れる電子音もどんどん大きくなってきた。

しかし大きくなったのは、遊園地ばかりではなかった。遊園地にむかう一人と一匹の後ろにはいつのまにか列ができていて、みんな大声ですきかってなことをしゃべってるんだ。よく見ると、カカシが出会ったひとばかりじゃないか! カカシに気づくと、

「小さな精神に目覚めかけた愛……くふっ。ついにここまでたどり着いたんだね。カンナのよろこぶ顔が見えるようじゃないかい?」ジェントルマンはにこにこ顔で、カカシを祝福するようだ。
ジェントルマンの後ろには見たことのない人が立っていたけれど、その優しげな声で、「こども電話相談室」のお兄さんだというのがわかった。「やあ、やっと会えたね。思ったとおり、君はまだまだ一人じゃ何もできない、ちいちゃなこどもだ。でも心配ないさ、僕たちが見ててあげるからね。」
ミカチンとアヤタンは、灰色の瞳をきらきら、黒いスカートをふわりふわりさせながら、「よくがんばったね! あとすこしで君のねがいもかなうよ」「ほらぶすっとしてないで、うれしいなら素直に笑ってごらんよ」と高い声だ。
そのうしろではマスクをしたおばさんが、モップをステッキのようにふりまわしながら、たんたかたかたん踊りくるっている。本人は踊ってるつもりでも、これじゃあ暴れてるのとかわりない。

2011/06/22

機能している道具は見えないらしい

投稿者 じん   6/22/2011 0 コメント
非常に個人的な話だが、25歳にしてはじめて実家を出て独り暮らしをすることになった。これまでものを捨てられず、手元にものが溢れていくタイプだったので、この機会に自分にとって最低限必要なものだけをもって、自分的ミニマルライフを始めたいと思っている。

30Lザック、仕事用のポーターの斜めがけ、両手にキャリー。旅なれない旅行者の長期旅行のようないでたちで、でも心はいざシンプルライフへ!と思って2日目。どれだけ多くのものが、意識されないほどに生活にとけこんでいたのかに驚いている。

トイレに入れば紙がない、タオルがない、風呂に入れば洗面器がない。食パンを焼けば皿がない、バターナイフがない。いつもの寝巻きがない。足りないものは必要になったら買おうとは思っていたものの、実際に使用した場面になるまで意識していないものが、こんなにあるとは!

実家を出たかった理由のひとつは、当たり前にあることのありがたさを知りたかったからだった。この先の、やば!あれないじゃん!が、少しだけ楽しみでもある。

2011/06/18

赤いツァーリ

投稿者 福田快活   6/18/2011 0 コメント
エドワード・ラジンスキー『赤いツァーリ』を読む。ロシア史を知ってないとわかりにくい部分はあるけど、おれはところどころ「なんでいきなりこんな展開なってんだ!?」って取り残されたけど、スターリンの悲しみというか孤独が身体中に広がる。スターリンは「頭のいい岡田以蔵」だった。汚れ仕事、表に公表できない仕事のスペシャリストとして頭角を表していく。リーダーに見捨てられる。そのあとが道の分かれ目。どっちがよかったんか、ちうかスターリンに殺されまくった人間からすれば、覚醒せずに埋もれてたらよかったやろうけど。あ、トロツキーはイヤミなインテリってことがわかったwww

2011/06/04

カンナとカカシ(13)

投稿者 Chijun   6/04/2011 0 コメント
三ツ頚がてんでばらばらにしゃべりだしてね、いっぺんにその場はにぎやかになった。眼をまるくしているこどもをおいてけぼりにして、なまいきそうな右の頚、あおざめたまんなかの頚、まのぬけた左の頚がかってにしゃべりつづけている。

「一度ならず二度までも……」
「僕ら奇形に生まれ出ずる悩み……」
「はなみじがはなみじが、ふがふが」

「こどもというのはまったく残酷、われわれのきもちわるさを大人ほどに理解せず、いともたやすく触れてくる……」
「しかし、待てよ。奇形にも二種類あって、その意味で僕たちは持たざる者ではなく、むしろ多くを持つ者といえる……」
「ティッシュちょうだいティッシュ!」

「カメといえば、ユートピアへのきちょうな導き手じゃないか?」
「世界のうちで僕たちほど歩みの遅い者はない。なるほど。世界……」
「ああ! こぼれちゃった」

三ツ頚のおしゃべりはいつまでも終わりそうにない。そのすきにそっとこの場を逃げ去ろうと、カカシはうしろを振り返った。するとさっきまで座っていたベンチに二人組のおばあさんがこしかけていて、こっちを見ながらなにやら話しあってるじゃないか。

「まここったったっ」「だゃだゃーまったがけえってみっくけなあて」「そんなたらしぃこてぃったって」「でゅうむらりい……」

ふたりともずいぶんせっかちなしゃべり方で、あいてが話しおわるのをまちもしない。カカシには、なにをいってるのかさっぱりわからないほどだ。
おまけに左側のおばあさんはひどいだみ声で、右側のおばあさんは、使いすぎてしまったせいだろうか、片方のまぶたがめくれあがって、もどらなくなってしまっている。これはずいぶんおそろしいおばあさんたちだ。ところがその顔は、どこかで見た気がする……



いがみあっているだけにも見えたふたりはどうやらなにか結論がでたようで、うなずきあうとそろってぱんと手を鳴らし、カカシにむかってずんずん進んできた。立ってみると、ふたりともカカシの半分ほどしか背丈がない。
ダッタタ、ダッタタ、ダッタタ。
片足を引きずりながら、おばあさんたちがせまってくる。
うしろではあいかわらずカメたちがぎゃあぎゃあやっている。
もういちど前を見ると、おばあさんの顔がすぐそこに。めくれてしまったまぶたのしたの眼球が、乾ききって死んでいる。

こんなところ、楽園なんかじゃないや。眼が覚めるとみにくいものにかこまれて、そうしてみると、刈りそろえられた芝生もとつぜん人工的に見えてきて、深い青の海原もたんにちっぽけな池にすぎなくて、カップルがボートをうかばせているだけの、どこにでもある公園のいつものつまらない風景にしかおもえない。

ああ、これで終わりなんだ。ありがちな童話みたいに、わるいおばあさんに食べられて。



カカシにぴったりくっつくまでに身を寄せてきたおかしな眼のおばあさんが、カカシの手をぎゅっと握る。
するとカカシの手のなかに、携帯電話がもどってきていた。

ーーケータイを持っていってしまったのがアヤタンで、もひとりの優しいほうがミカチンで。ああ、そうかそうか。おばあさんたちの顔はすっかり崩れてしまっている。けれど、それでもどこかあのかわいらしい女子高生たちの廃墟をのこしていて、ーーそう、まるで、ふたりの時計をすすめてしまったような姿だ。

ふたりはそろってカカシの手を取ると、おおきく口を裂き、にっこりわらった。ぽっかりあいた穴には歯が一本もなくて、ひどいにおいがたちこめている。おもわずカカシが眼をそむけようとすると、ふたりはカカシをカメのいるほうへやさしく導いた。
ーーわかってるさ、といわんばかりに、カメはこちらを見てにやにやわらっている。

2011/05/24

春の麦星

投稿者 せんちゃん   5/24/2011 0 コメント


「あの明るい星ですか?うわあ…」


 五歳も下の後輩が思わず声を上げたのも無理はない。山深い長野の町にあっては、霞がかって薄れてしまう春の夜空も、澄んだ美しい冬空のように見えてしまう。四月の末日にもかかわらず、コートがいるほどに冷え込んだ町で、片道三十分もかかる温泉からの帰り道である。こうして春の夜空をきちんと見るのは私もはじめてのことだから、ふたりしてずいぶんとはしゃいでしまった。夏は美しく金色に染まる麦畑の狭間を弱いライトで照らしながら、数センチ先の足元も見えない暗闇に立ち、ふたりで空を見上げていた。


 春にひときわ輝いて見えるのは一番星の金星だが、次に眼につくのがうしかい座のα星、オレンジ色のアルクトゥールスだろうと思う。北斗七星の末端からカーブを描き、アルクトゥールス、おとめ座のスピカと結ぶ著名な春の大曲線―ここまではっきり空に弧を描いたところを私ははじめて見たような気がする。夏のさそり座アンタレス、冬のおうし座アルデバランなど、赤星は黒い夜空によく映える。


 野尻抱影の『日本の星「星の方言集」』を開いてみると、アルクトゥールスはどうやらある地方で〝麦星〟と呼ばれていたようである。麦が熟れる頃に昇ってくるためということも書いてある。この偶然を私はとても嬉しく思った。先にも書いておいたように、私たちが星を見ていた場所は、眼を見はるほどの金がうねる麦畑である。あの光景は夏にしか見ることができないのだから、金色の麦と麦星とを、一緒に見ることはできないのだ。とても切ない話である。だからこそよりいっそう、この星に対してもこの土地に対しても、私は深い愛着をもった。今やすっかりなじみ深くなったこの土地を、私はこれからも見守っていきたいと思うのである。


 五月二十二日の今日、東京は昼下がりからひどい夕立ちに見舞われた。芳しい雨の香りがまた鼻をつき、見上げればいくつもの色を重ねた水彩の雲が漂っている。あの雲の上にもきっと煌びやかなアルクトゥールスが高く高く高度をとり、東京の街を見下ろしていることであろう。

2011/05/21

書籍とは何か

投稿者 じん   5/21/2011 0 コメント
先日、原研哉氏と永原康史氏のオーガナイズによる「言葉のデザイン2010ーオンスクリーン・タイポグラフィを考える」の第7回研究会「印刷とweb/文字を透視する」に参加した。講師はデザイナーの田中良治氏と、アドビシステムズの山本太郎氏。

田中氏がデザインした、時間の経過とともに崩れていくフォントは、「文字は動かない」という期待を裏切るもので興味深かった。しかし個人的には山本氏の書籍に対する愛情のほうがより力強く響いたので、今回はそちらを紹介したい。

■書籍とは内容と形態の統合である

書籍とは何だろうか。ちょっと考えてみて出てくるのは、「紙に何らかの情報が印刷され、綴じられたもの」といったところだろうか。研究会でアドビの山本氏の論では、書かれた内容と、その見せかたが、密接に結びついたものが書籍である。現在書籍といえば紙がまだまだ代表格。紙に印刷するということは、レイアウトが製作者の意図した形で固定されるということである。行間、字間、字体や、図の配置、余白のデザインはもちろん、綴じかた、装丁に至るまで、「本」に含まれるすべての要素は、内容や、作られた目的に沿った形に作られる。このように内容と形態とが統合されているのが書籍である。この内容と形態はタイポグラフィが長年の歴史で目指してきたものでもある。

■WEBは内容と形態を分離してきた

タイポグラフィは、レイアウトを固定することで読みやすさを追求してきた。一方WEBは表示される文章のデータと、それをどのように表示するかという体裁のデータを分離する方向で進んできた。ブラウザのウィンドウの幅を変えれば、それに応じて1行の長さが変わるのはそのためだ。レイアウトを固定しないことで、PCの大きなスクリーンから携帯電話のような小さなスクリーンまで、どんな環境でも同じ文章を無駄なスクロールをすることなく表示できる。ただし、これは読みやすさを追求してきたタイポグラフィの考え方とは矛盾する。

■読みやすくなければデジタル「書籍」ではない

今、書籍のデジタル化が注目されているが、文章をテキストデータに置き換えただけでは、書籍とは言えない。紙をスキャンしたPDFも、レイアウトは紙に適切なものである。画面上でも見やすいとは限らない。デジタル書籍が「書籍」となるためには、タイポグラフィの理想を貫き、媒体に応じたもっとも見やすいレイアウトをとらなければならない。山本氏はそれを実現するのがこれからのデザイナーとエンジニアの仕事だと力説していた。

■書籍に形はない

永原氏から、書籍にきまった形は存在しないという、山本氏とは違った視点も提供された。アルタミラの壁画から、古代中国の甲骨文字、木簡、葦を原料とするパピルスと来て、紙は文字情報としては非常に新しいものである。今後もどんどん変化していくだろう。500年後に何が書籍と呼ばれているか、確かにまったく予想がつかない。

余談。

タイポグラフィ――印刷物のレイアウト・見せかたについては無知であるが、印刷とWEBの文書についてAdobeの中の人の話が聞けるというので楽しみにしていたこの研究会。「書籍とは何か」について面白い話を聞くことができた。また、デジタル技術が進み、マルチメディア、マルチメディアと騒ぐ割に、人々はメール、Twitterとどんどん文字に執着しているという指摘も面白った。何台ものMacが並び、前方スクリーンに講師のプレゼン資料が表示され、その横にはTwitterのタイムラインが流れる。Ustreamの放送をみながら、会場で話を聞きながら、みな「書籍」になりえないただのテキストを垂れ流す。

文字情報は静止画や動画に比べればそれ自体がもつ情報量は小さい。しかし、その分人々の焦点は定まりやすい。それが文章表現の強さだろうか。この辺も考えると楽しそうだ。

2011/05/14

「わからない」素敵さ

投稿者 福田快活   5/14/2011 0 コメント
「わからない」という言い切りにある暴力

「ああ、あれ。わからなかったw」「むずかしくてわからないよww」
自分から切りはなすのは簡単で、拒否し交わりを断てばいいだけのことで、

「わからない」=わたしの能力の限界でわたしのせいです

ってな謙遜した(一見)態度をとってれば、傲慢な切断もたやすくて。

そんな裏返しの傲慢ぢゃなくて、「わからない」を見下す「わかる」の傲慢でもなく、「わからない!」
けど、何かをどうしようもなく感じてしまって動かされてしまって惹かれてしまう――大野一雄の言葉にはそういう強さを感じる。
詩の強さ。

稽古場で研究生相手に語った言葉↓

あるとき私は私自身に、出ていって、出ていきなさい、出ていって出ていきなさいと、そう言った。私の肉体にそう言ったのか、魂にそう言ったのか、命にそう言ったのか。私はいつの間にか、飛び出していった。手が飛び出していった。蓄えられたエッセンスが手の中にあって、手が私から切り離されていった。でも手は遠くへ突っ走ろうとしないでいつまでも私のまわりにうろちょろしておったが、これはまぎれもなく私から飛び出していったエッセンスだ。魂が、エッセンスが飛び出していく。私の手が飛び出していく。あの手を見ろ。あれはお前自身の旋律だ。永遠の距離があった。私は私と無関係にエッセンスが離れていくのを見た。かつて私自身でもあったのに。今は他人のようにそのエッセンスを眺め感じることができた。お遊びなんだろ。

2011/05/01

カンナとカカシ(12)

投稿者 Chijun   5/01/2011 0 コメント
とんでもなくおおきな池をちょうど見晴らす位置に、まっしろいベンチがすえつけられていてね。カカシはそこにすわると、ほとんどうごいているのかいないのかもわからないほどとおくにあるボートをながめていたんだ。ひさしぶりに浴びるあたたかいひかりとおだやかな水にいつしか時間をわすれて、カカシはふと眠りにおちこんだり、そうかとおもうとベンチのうえにもどったり、またうとうとしたりを何度も何度もくりかえしていて、どれだけ時間がたったのかいったいどっちが夢なのかついにはわからなくってしまうほどだったけれど、それでもそこは、とにかくとってもきもちがよかったんだ。

ああきっとここが楽園なんだろう……。

そうにちがいない、となぜだかカカシにはわかってしまってね。いつのまにかじぶんがカンナにおしえてもらった場所にきていることにきづいたんだ。

こんなにあたたかいきもちのいい場所なら、きっとおいしい木の実ができるにちがいない。カンナはよろこんでくれるだろうか?
まだだいじな実をとるまえから、もうカカシにはカンナのよろこびが目の前にあるようだった。



カカシはようやく起き上がり、見なれない、しかしどこかなつかしいこの風景を注意深く観察しだした。木の実というからにはとりあえずなにか木があればと木を求めたけれど、みわたすかぎりそれらしいものは生えていなくてね。カカシのすねをこえない、背丈のひくい花々が咲いているばかり。水辺にちかづくと、こんどはすきとおるようなエメラルド・グリーンの水草が目にはいる。水草のひたる池の水ははかないガラスのように透明で、とおくとおくのボートがすこしでもうごけば、もうそれだけで罅われてしまいそうだ。
カカシはしずかにしずかに手をおろし、そっと水草にふれてみる。するともうそれはまるで奇跡のようにやわらかくて、すぐにカカシの手をのがれてしまう。さいしょはやさしく、水草を追いかけるのに夢中になってしだいにはげしくみずをかきまわしていると、とつぜんびりびりと手が痛んだ。どうやらみなぞこにある石にぶつけてしまったらしい。
こんなにきれいな池のなかにある石は、さぞうつくしいにちがいない。そうだ、まるで宝石のようにちがいないと、その石を手にとっていろいろ角度を変えながら見てみる。すると、石のあちこちからとつぜんにゅっとやわらかいものがとびだしてきたんだ。おどろいて石をほうりだし、そのいきおいでみなぞこの砂がたつまきのようになっているのがおさまるまで待つと、そこにあらわれたのはカメだった。カカシが石とおもっていたのは、じつはこうらだったんだね。
そうとわかると逃げないうちにあわててつかまえて、あたまをぐっとちかづけて眼をおおきくひらいて見た。するとびっくり、手のひらにのるほどのちいさなこうらから、三つの頭がとびだしていたんだ。両脇の頭はふつうの大きさで、まんなかのは豆みたいに小さいけれど、よく見ると両脇のとおなじかたちで、それをそのままちいさくしたものだった。まあ、なんとぶきみなカメがいたものだ。
カカシはまたまたカメをほうりだし、手についたぬめぬめをとりはだをたてながらどうにか拭いおとそうとした。カメの方はあわれにも白いはらをうえに向けて、四つ足をばたばたとやっている。

「おいおいまたかよ」
「僕は蛇のように忌み嫌われているんだ……」
「ぶえっくしゅん!」

三ツ頚がてんでばらばらにしゃべりだしてね、いっぺんにその場はにぎやかになった。

2011/04/17

La La means...

投稿者 じん   4/17/2011 0 コメント

LA LA MEANS 月が綺麗ですね

これは冗談として。
"I LOVE YOU"を「月が綺麗ですね」とでも訳しておけといった漱石は素敵で、その精神が"LA LA MEANS I LOVE  YOU"にもあると思う。

■言葉の背後にある想い

表現された言葉には、表面上の意味と、その言葉から汲み取ってもらいたい想いがある。"I love you"をどう翻訳するか尋ねられて「月が綺麗ですね」とでも訳しておけと答えた漱石は、この構造をはっきりと感じていた。坊っちゃんがエキセントリックなおねーちゃんに向けた言葉もこの類いだろう。

■LA LA MEANS I LOVE YOU

"La la... means I love you"と歌い上げるあの曲の"La la..."も「月が綺麗ですね」と同じように、表面上の意味ではなく、背後の想いありきの言葉である。はっきりと"means I love you"と歌詞にして説明してしまう辺りが、日本人としては若干「やぼ」と感じてしまうが、その心には大きくうなずける。

映画INTO THE WILDで、ヒッピーの娘と主人公がコンサートで同じステージに立つシーンは、下手なベッドシーンよりも濃厚なラブシーンとなっていて、胸が熱くなる名シーンだ。

■LA LA MEANS I LOVE YOUはなぜやぼか

"La la means I love you"という表現が「やぼ」なのは、その場に居合わせて場を共有していれば分かるだろうことを説明してしまったことにある。

日本語は、聞き手に話し手の世界を共有することが求められる言語である。見てわかること、当然のことは言葉にしない。代名詞で示してしまうことの多い英語と違い、日本語ではそういうものを言葉にしない。

この辺り、日本語で仕事ができるほどの英語ネイティブでもやはり難しいようで、誰の腕なのか、何処に触ってはいけないのか、「このニホンゴは英語になりませんね」と苦労している。「不思議なニホンゴを発見したんですが…」が口癖になっているので、日本語スピーキング力にはややなんありではあるが。

■そもそも比べて良いのか
英語でも、"la la..."と歌ったあとに、本人が今のはこういう意味だったんだよ、と説明するようなことはしないだろう。しかし後から解釈をしてそういう説明的な歌詞を書いたのだとしたら、他人が書いた"I love you"を「月が綺麗ですね」と翻訳することと比較して考えることは的はずれではないはずだ。

2011/04/09

幼時のヨージは幼児

投稿者 福田快活   4/09/2011 0 コメント
「もう一度咬みつけよ、ヨウジ

なかなか挑発的なタイトルだ。手にとる読者にたいしてもそうだし、「咬みつけよ」って言われてる山本耀司にたいしても。誰目線だよ、あんた。ていう。

だから手にとる。買う。FASHION NEWSはそれなりに買うんだけど、今回のは惹句と表紙のヨージの写真がきまりすぎてた。哀愁をくゆらせてるような、煙草を喫むすがたが仙人というのでもない、どういうのか。超俗っぽいんだけど、まだ人間、恋しさと切なさと心強さと……てちがうか(笑)をかかえてる。

「老人」としかいいようのない。歳を重ねることのすごさと素敵さと悲しさと、「老いること」のすべてが一枚の写真からみえる。そういう歳のとりかたをしたヨージはすてきだ。彼のつくる服がそうなように。

まあ、特集のなかでヨージとアン・ドゥムルメステールが「電波じゃねえか☆\(゚ロ゚ )」な近寄りがたい会話してるけど。そこもふくめてwス・テ・キ

2011/03/21

カンナとカカシ(11)

投稿者 Chijun   3/21/2011 0 コメント
しかたなくカカシはひとりで歩きだした。だれもいなくなるときゅうにさびしくなって、とたんにカンナのことが頭に浮かんでくる。最後は13を押すのよ、ちいさなカンナはいっていた。けれどもう、33回のうちなんどエレベーターを乗り継いだのか分からない。もう、どうしていいか分からない。優しそうなおにいさんが答えてくれたケータイも、ふたり組のかたわれに取りあげられたままだ。



だれもいない廊下を、自分を元気づけるように、カカシはステップをふんで歩きだした。すると今度は、ちかくにだれもいないことが、ひどくカカシを安心させたんだ。きっと、ここのやりかたにも慣れてきていたんだね。まるで酔っぱらいのように、カカシは踊りながらすすんでいった。カカシがまわればかべもまわって、それでだんだんたのしくなって、ついには、あか、しろ、きいろの花火がまわりでくるくるはぜるようだ。まわればまわるほど、どんどんカカシはきもちよくなる。この花火がかたちになって手に持つことができたなら、ぼくはカンナをよろこばせるだろう。そんな夢みたいなおはなしも、きっとここでならできるにちがいない。ああひとりきりひとりきり、なんてきもちがいいのだろう。……



へとへとになるまでまわってようやくカカシがまわるのを止めると、ついさっきまでいたはずの白いちめんのつめたいきゅうくつな建物はどこかにいってしまって、そこはほんとうに気持のいい、ひろびろとしたスペース空間になっていたんだ。

みどりの芝生がいちめん、ちゃんとおなじ長さに刈りそろえられている。

あかしろきいろのお花がみわたすかぎり咲きほこっている。

見あげると天井にはぽっかりまるい穴があいていた。その穴は空にむかってはてしなくつづいていて、とおくなればなるほど穴はちいさく見えるようになって、ながいながい吹き抜けのかなたには、おおきな光のかたまりがさんさんとかがやいていたんだ。
カカシは、ひさしぶりに太陽を見た気がした。
太陽の光が舞い降りるきれいなお庭のまんなかに、きらきらとかがやく池があってね。カカシはさそわれるように池にむかって歩き出した。すると近づけば近づくほど池のむこう岸がとおくなり、ついには果てにみえないほどになってしまい、カカシが池の目の前にたどりつくころには、深い青がまるでおだやかな海のように広がっていたんだ。

とおく、なみひとつない水面のかなたにぽっこりちいさなボートが浮かんでいる。そのうえにはどうやら、男のひとと女のひとがふたりきりでのっかっているようだった。

2011/03/05

カンニング事件報道を日経が斬る

投稿者 じん   3/05/2011 0 コメント

http://allatanys.jp/A001/20110303.html

ここ数日京大のカンニング事件の報道が続いた。私は朝日しか新聞を読まないが連日一面トップである。内容は朝日らしく警察の捜査で用いられた科学技術を詳細に解説するもので、事件はその実例扱いである。

あらたにすを見れば、読売も連日この事件を一面で扱っているが、容疑者が特定されたことを報じる3月3日の朝刊一面トップ記事の見出しには、わざわざ「携帯は母が契約」とあり、脛かじりの浪人生というゴシップ臭を強調するこれもまた読売らしい扱いのようだ。

そんな中、あらたにすのコラムで、その日の朝刊について一言語る「編集局から」に掲載された日経のコメントが良い。

携帯電話を使った大学入試のカンニング問題は、夜になって仙台市在住の男子受験生の関与が浮上 しましたが、特異な「手口を除けば重大事件とはいえず、社会面で展開しました。

その通り。

個人的には事件発覚時の記事で、ペンやメガネに仕込んだ小型カメラを使用した可能性を示唆する探偵事務所のコメントを掲載し、大量の問題を共有するには写真よりも動画を撮影する方が効率的と、ガジェット談義に花を咲かせる朝日新聞が好き。カガク・ブンカの朝日バンザイ!!

2011/02/28

TPP(環太平洋パートナーシップ協定)でOPP(おっぱっぴー)

投稿者 福田快活   2/28/2011 0 コメント
家にテレビもなく、最近はネットもあんましない「ひとりガラパゴス」なんだけど、しばらく前から「TPP」ってもんがあるらしい、て話は聞いてた。いまいち何なんだかわからずに流してたんだけど、どうもvideonews.comを見てたらヤバイってかきなくさーい話ってことがわかったw

512回と515回がTPPの話なんだけど、推進したい人のポイントとしては

・アジア市場から日本が取り残されないために参加する
・保護されて老朽化してる日本の農業のショック療法として導入する

みたい。でもそれは

・TPP参加国のGDPの91%は日本とアメリカなので、アジア市場は関係ない実質2国間。
・日本の農業に問題はあるけど、TPPでどう改善されるのか不明。てかこれとTPPとは別の話w

て話で、輸出を2014年までに倍増したいアメリカが日本市場への輸出を増やしたい。だからアメちゃんは進めたい。アメちゃんの利益は明確だよね。日本の利益は?よくわかんねーーーwwwって状況で、んー、大店舗規制法とか牛肉オレンジでむかし聞いた話だなー。あのときは貿易摩擦の解消みたいな文脈で日本に利益?しようがなさ?もあったのかもしれないけど、今回はどうなんだろう?なさそうだなーwただの気ぃ弱くて頭の悪いやつが、おまえもこっち来いよーって言われて、ちゃんと言えないし騙されて追いてってるだけ、て感じか。あほだねーww

いまのタイミングでTPPに日本が参加するなら、HONKIで海外に移住を考えたほうがいいね、て思ったよ(^o^) ハイ、OPP(おっぱっぴー)

2011/02/15

カンナとカカシ(10)

投稿者 Chijun   2/15/2011 0 コメント
「これはこれは。いったい何事だというのです?」聞いたことのある声がする。
「あなたの不幸は、トイレがいっぱいで掃除もできない、掃除しているのよとこれほど音高く私のモップに叫ばせているのに、鈍感な男どもは次から次に……その、もぞもぞしながらやってきて、頭にあるのは自分の欲望のことばかり、わたしのことなど目にとめようともしない。お前らはなにを見ているのだ? わたしはここにいる。わたしはここにいるんだ!!などという、実存的な叫びに端を発したものではないのでしょう? わたしにはわかる。あなたの不幸はむしろ実存の後の問題、すなわち、男しかいないはずのこの場所に、女であるわたしがいる。どうしてだれもそんな簡単なことに気づいてくれないの? そう、わたしは女なのよ!!という、性差の問題から来ているのでしょう。おやおや、不思議そうな顔をしていますね。あなたはまだそのことに気づいていないかもしれない。しかし、あなたのなかにも、あなた自身には見えないことがたくさんあるものです。だいじょうぶ、それはみんなおなじこと、あなたは素敵な女性だ。くふっ。……ちょっ、人をそんな目で見てはいけない。それじゃあ美しい顔がだいなしだ。わたしはね、フェミニストでもなければ、ジェンダー論者でもない。しかし美しい女性というものに関心を持っている。『わたしは女に生まれたのではない、女になったのだ』 この言葉は知っているかい? もしその通りだとすれば、男子用お手洗いで何年も(きっと何年もこの労働から抜け出せずにいるのでしょう?)何年も掃除を続けているあなたは、すっかり男になってしまった、いやすくなくとも、女ではなくなってしまったとでもいうのだろうか? そんなことはないから安心なさい。あなたの苦悩は、じつに美しくあなたの女性をふちどっている」
そこで声は止んで靴の音がたかくひびいたけれど、どうもトイレの出口とは反対側、ということは、もといた便器にむかって歩いているようだ。そうして音がやむ。おばさんはどうしているのだろうか? しんとしずまって物音ひとつしない。
ふたたび男の人の声が、部屋に響く。
「だからといって、今の私にあなたを救うことができないのはお許し願いたい。わたしは、まだトイレを出るわけにはいかないのです。くふっ」



カカシはもうしばらく、トイレのなかでようすをうかがっていた。音のするけはいがないので、今だ、とドアを抜けようとしたとき、こんどはちいさな女の子の、まま、まーま、とよびかける声が聞こえてきたんだ。そのありかから、どうもさっきの男の人の入っているトイレにむかってうったえているらしい。いってん男の人はしずまりかえってなんの反応もないうちに、女の子は、どんどん、どんどん壁をたたきだし、いっそうつよく、まま、まーま、と声をはりあげた。すると、ごそっ、となにかかっさらう音がして、あとはどれだけまってもなにも起こらない。

そこでカカシはこっそり部屋をでた。ゆかはまだびっしょりだったけど、ひとはまるでいなかった。トイレのカギをひとつひとつたしかめてみる。どれも青い。みんないつの間に出ていってしまったのだろう?



カカシはそろりと壁をぬけた。



そこにふたごのような女子高生のすがたはもうなかった。

2011/02/06

不思議生き物

投稿者 じん   2/06/2011 0 コメント

街には不思議な生き物がうようよしている。

塀の上を歩く猫は二本足で、たまにアクロバットを決めるし、車にひかれてぺちゃんこになったような姿の平面ワニが道路を滑っていたりする。

僕が大好きなのは行列をなして飛んでいる鳩くらいの大きさの親子鳥。ちなみに子鳥は梅干くらいの小さな小さなやつらが4羽、親鳥のくちばしの中から隊列をなしてヒョロヒョロ飛び出してくる。

まだあまり長い間飛んではいられないから、落っこちそうになると後ろから親鳥がスピードをあげて、みんなくちばしにしまいこむ。しばらくするとまたひょろひょろちびたちが出てくる。

よく晴れた日に、坂道を転がり落ちてくるアルマジロに気を付けながら、親子鳥のユーモラスな散歩を眺めてるのが、最近の休日の過ごし方。

2011/01/30

妻殺し三部作

投稿者 福田快活   1/30/2011 0 コメント
まずはこうだ――2人は若かった。自分たちはほんとうに特別なカップルで、この世で2人に叶えられないことなんてない、そう思ってた。ステキな家に住んで、ステキな会社で旦那さまは働いて、彼女はステキに奥様をこなす。「わたしたちは理想のカップル!」この高揚は恋と同じで、「若い」の乳飲み子だ。老いらくの恋なんてのはない、恋をする、ということは若い、ていうことで、若さにはまたいつかおわりが来る。ふたりのおわりは速く来た。日常に埋もれて、アメリカに砂の数ほどいる郊外に家をかまえた家庭のひとつに過ぎなくなる。自分たちがみじめになる。だからパリにいこう。すべてを置き去りにしてパリに住もう。彼も会社を辞める。はずだったのが棚ぼたで仕事が楽しくなる。彼は勝手に「現在」に意味と活力を見いだして「パリになんかいかない」そう言い出す。彼女の妊娠がいい口実になる。ふたりで決めたはずの選択;パリにいく、から勝手に彼はぬけだして歩きはじめてる。楽しい仕事。子どもは大して関係ない。もう彼は選択してしまった。なにかを選択したら、ほかのすべては無力な可能性の残骸になる。じゃあ、彼女の選択は?ひとりでパリにいくの?彼女はバスタブでひとりで子どもを堕ろそうとする。失血死する。残された彼は手紙を発見する。

Dear Frank        フランク
whatever happens   何があっても
don't blame yourself 自分を責めないで
I love you         愛してるよ

つぎはこうだ――彼は連邦保安官、クソ激務。捜査がつめに入ると何日も家に帰れない。数日ぶりに帰ってきた。妻が見あたらない。子どももいない。呼ばう。部屋、部屋をチェックする。裏庭にでる。妻がいる。ずぶ濡れ。「子どもたちは?」「学校よ」「今日は土曜じゃないか」「わたしの学校じゃ土曜も授業なの」裏庭のすぐ先は湖になっている。浮かぶナニカを彼の眼が捉える。水にわけいり、子どもたちの亡骸をかかえる。妻を詰問する。殺してやると脅す。殺してと彼女は頼む。殺す。仕事にかまけて妻の異変を気にとめず、自分が妻を発狂させて子どもたちを殺させた、自分が妻を殺した、現実を受け入れられず、彼は孤島の精神病院に隔離されている。

さいごはこうだ――夢、無意識の世界に妻と侵入した彼は、そこにふたりの王国をつくる。完璧な世界。いつまでもここにいちゃダメだ、現実にもどろう、彼は言うけど彼女は拒否する。彼は彼女に「いまここにいる世界は夢なんだ。ほんものじゃないんだ。」という想を植えつける。そしてふたりで現実にもどってくる。彼女は「ここもまだ偽物の夢の世界」と思っていて、それを証明するために彼の目の前でホテルから飛び降りる。彼は妻をかかえたまま、現実と夢とを選択できずに生きている。

最初は『レボリューショナリー・ロード』つぎは『シャッター・アイランド』最後は『インセプション』。2008~2010年にレオナルド・ディカプリオが主演したキャラクターは一貫してて、発展してる。妻を死なせてしまうまで→妻を発狂させて殺した現実を受け入れられない→妻を死なせてしまった現実からどう先にすすむのか、何を選択すればいいのか。この三つはレオ様の「妻殺し三部作」だ。中年太りしたレオ様の、渋さ、かっこよさ満載でどれもいい映画だ。レオ様は泣き顔がまたいい。自責の念にかられて涙にまみれる姿が。

レオ様の次回作だけど、いま製作中なのは有名なFBI長官フーヴァーの役。彼は死ぬまで独身だった。妻殺しは三部作で完結だろう。ぢゃあ、その結末は?妻を殺したはてに人はどう生きるのか?生きないのか?異議もあるだろう『インセプション』の選択はこうだろう――夢か現実かなんてどうでもいい。残った子ども達のために生きていく。だからこそ子どもたちを殺された『シャッター・アイランド』では発狂するしかなかったのかもしれない。最後に現実を受けとめたような、意味不明なせりふを言ってはいるけれどw

2011/01/25

カンナとカカシ(9)

投稿者 Chijun   1/25/2011 0 コメント
そういわれるときゅうに恥ずかしくなって、カカシは一刻もはやくトイレに入ってしまいたくなった。廊下のかべには男の人の絵も女の人の絵もかいてはなかったけれど、さすがにアヤタンとおなじところに入るのはおかしい。だからそのとなりのドアにむかって走った。
「あぶない!」ちいさくさけぶミカチンの声が聞こえたのもつかのま、カカシはぬれた床に足をすべらせてすっころんでしまった。掃除したばかりなのだろうか? それにしてもずいぶんぐっしょりぬれている。
かべをすり抜けたその部屋のなかには、さらにドアがたくさんあって、どうやらおしっこをするだけのところはひとつもないようだった。ここのドアもやっぱりみんなただの『めじるし』なのかな? ひととおりドアをしらべてみると、カギのところがみんな赤くなっていて、カカシがさいごにたどりついたドアだけカギのところが青くなっていた。うん、きっとここならだいじょうぶ。こんどはゆっくり歩いて、カカシはドアをすり抜けた。そこには見なれたトイレがあり、おしっこをするだけだったけど、カカシは便器にこしかけた。すると、

「もういい加減にしろよ!」

とつぜんドアの向こうから女の人のどなり声が響いてきた。しゃかしゃか床をこする音もする。掃除のおばさんだろうか?
「ったく、なにかんがえてんだよ! 見りゃあわかるだろっ」
また、おなじ声だ。ほかに人がいるけはいもないので、どうやらひとりでしゃべっているらしい。どれもこれも使用中なので、掃除しようにもできない、それで怒っているにちがいない。だれも出てこないので、あんなにびしょびしょになるまで床を掃除してしまったんだ……そうなると、なんとも出ていきにくい。こんな人にはなにをされるかわからない。だれかが出ていってくれれば。おばさんがそこを掃除しているそのすきに。……だれかが? そうだ、あの中にはみんな、だれかがはいっているんだ。
便器にすわってしずかにようすをうかがっていると、近くからごっつんごっつんいう音がひびいてきた。おばさんはとうとうこらえきれずに、モップかなにかでドアをたたきはじめたようだ。これじゃあいよいよトイレからでられない。アヤタンはとっくにトイレをすましてしまっただろうか? またおいてけぼりにされてしまうのだろうか? それでもカカシには耳をすませることしかできない。

2011/01/14

夢追うリアリスト

投稿者 じん   1/14/2011 0 コメント
俺バンドやめて、就活しようと思うんだ。

12月。御茶ノ水喫茶穂高。となりの席で、学生バンドがミーティングをしている。ああ、あの空気は知っている。重苦しくって、喉乾いたりお腹空いたりトイレいきたくなったりしても深刻そうに押し黙ってなきゃいけない、あの空気だ。

何かやりたい仕事があるのか、バンドより好きなのか、自分がホントに好きなことやった方が絶対楽しい、普通に就職して満員電車にすし詰めになるなんて絶対つまらない、とか、プロ志向のバンドにしては青臭い、抽象的な言葉がどこにもたどり着かず霧散する。

こいつはきっとやめることになるだろう。バンドもあいつがいなきゃ意味がないとか甘いこといって芽のでないまま解散するんだろう、どうせ。

そう思いながらコーヒー飲んでた。そしたらひとりすげぇかっこいいやつがいて、そいつのお陰でやめたいといってたやつもバンドにとどまることになったどころか、バンド全体の士気が上がってたんだ。ああ、こいつのバンドならいつかCDで聴く日が来るな、と音も聴かずに思ってしまった。

そのかっこいい、リーダー格はまず、紙とペンを、やめたがってる奴に渡してこう言った。

これが10月までに解決したら就活せずに2年間はバンドに専念できるって条件をここに全部書き出してみろよ。俺もだらだらアマチュアバンドでプロを目指し続けるつもりはないから、2年でいい。そのあとはやりたいこと好きにやればいい。どんなに無茶なことでも全部書け。メンバーに対する批判でもなんでも気にせずに。

言われた方も書いたね。

大学やめる。
仕事やめる。
練習時間増やす。
全員近くにすんでやりたいことすぐ試す。
ライブの入りを増やす。
CD売り上げ増やす。
音楽の収入増やしてバンドの金はバンドで少しでも賄えるようにしたい。

読み上げられるのを聞いてそんな無茶な、ってものも結構挙がってた。

どうすんのかと思ったら、まずひとつやめたがってる奴に質問した。

音楽のことは書いてないけど、やりたい音楽やれてる?メンバーに文句はないの?

やってる音楽にもメンバーにも文句はないと言う。それを聞いて一言。

それって素晴らしいことだよ。
仕事してなくて、近くに住んでて、ライブも客入ってて、CDも捌けてるバンドなんていくらでもいる。それでも音楽の方向性とか人間関係がうまくいかなくてつぶれていくバンドのほうが多い。条件整ってないのに音楽にもメンバーにも文句がないって、そっちのほうが大事だし、すごいことじゃん。

おお、良いこと言うな。で、これからどうすんの?

まず仕事やめると引っ越しできないけど、仕事やめんのと引っ越すのどっちが大事なの?引っ越し?じゃあ仕事はやってて良いのね?で引っ越し先はどこ?客は何人になればいいの?CDは何枚?ミリオンとか言うなよ。動員数と合わせて考えろよ。…

矛盾は優先順位に沿ってつぶし、目標は具体的に、達成のためにしなきゃいけないことをできるだけ具体的にすぐに動けるぐらいまで細分化する。さっきで青臭い精神論をぶち負けてたのがリーダー格のしきりで一気に現実的な、実際的な議論に変化していた。どんより暗いムードだったのが、だんだんとこれならやれるんじゃないか?という前向きなムードになり、いつしか宣伝方法について熱心に議論を始めていた。

夢を追うリアリストってすごい。辞めたいといってるやつの条件を実現可能なところまで落とし込んで呑んでしまった。こういう人がいるのなら、バンド名も曲も知らないけど、いつかふと手にとったCDがこのバンドのCDだったなんてことがホントにあるかもしれない。

2011/01/08

人生の真実

投稿者 福田快活   1/08/2011 0 コメント
村西とおる、って聞いて思うのはなんだろう?ブログの人?AVの帝王?裏本の帝王?帝王つづきだなあ、まあ最近はやっぱりブログだろう。あの漆黒のブラックホールみたいな得体のしれない語り口。やっぱりブログだろう。

28歳おれ、は名前は知ってるけど村西監督のAVをみた記憶はないし、盂蘭盆はましてや……てな状況。見たいんだけどVHSしかないんだよね。たしか。ビデオデッキとかないしなー。。。実家でみる。。。?きつくねー?てな煩悶して、結局あきらめてる。やっぱりみたいのは村西監督と主演の黒木香を一躍時の人にした『SMっぽいの好き』だろう。この作はパッケージ、タイトルロール、宣材で題名がちがって、ていうAV業界のステキなてきとーさというか、むしろ月に3本撮れば多作監督の世界で、10本近く撮ってた村西監督の人間じゃないエネルギーが窺える。

『SMっぽいの好き』が有名なのは何ていっても、お祭りで売られる貝の形した笛でしょ。

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「あなたとわたしとこれからファックをします。でもすぐにあなたのあそこにわたしの大きな物を入れるわけではありません。前戯があります。あるいは中戯があるかもしれません。そしてご期待の本番ファック!……あなたにはその笛を吹いていただきたいんです。たとえば、……まあまあ感じてきたなというときには一回」
黒木香はプーと一回笛を吹いてみた。
「もっと感じてきたときには二回」
プープー。
「たまらないときには三回」
プープープー。
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この設定を聞いただけで、俄然見たくなる!てなもんだ(>_<)可笑しすぎる。悲哀と笑いに身悶えするのが確約されてる。

イタリア語の原書を読み、「村上龍との対談では『ドリアン・グレイの肖像』の中の一節を引用して芸術と実生活の対比を発言」する当時女子大生の黒木香は村上龍以外にはねじめ正一、荒木経惟、中上健次、中沢新一といった文化人と対談しする。対談を構成する本橋信宏に「目の前のAV女優に接した彼らは、対等に渡り合える女性の出現に素直に喜んでいた」と印象抱かせる、才媛。言葉づかいは異常に丁寧で、言葉自体が考えられ、選ばれ、練られていて、対談原稿を起こすときに、「彼女の発言はそのまま一字一句変えなくても通用する文章になっていた」。つまりは書き言葉で考え、会話する人間だ。

村西はそんなインテリ黒木をスパンキングする。頬を張る。黒木はもっと強くと要求する。逆さ吊りにする。笛がプープー鳴る。村西はバスローブの紐で黒木の首をしめる。蹴る。完全にイッてる黒木はカメラに向かって自分で陰部を開く。

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女子大生は膣に自分の指を一本づつ埋めていく。
「三本入ったの」
狂気をひめた笑みを浮かべながら黒木香が言った。
「すけべだな。もう一本入れてごらん」
「あー、入った」
「入った?何本指が入ってる?」
「四本」
「四本も入れたー!?しょうがないなあ。抜きなさい。体に毒だ。四本も入れたところにわたしの物を入れるなんて、わたしに失礼でしょう。……せめて三本にしなさい!」
「いやあ」
「・・・・・・……」
「わがままなんだね。じゃあ、わたしの物を入れてあげないよ」
「いや」
「じゃあ、三本にしなさい」
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このアホらしさ、2人で大気圏外に脱出した村西と黒木のやりとりもステキすぎるけど、やっぱ白眉はここ。アナルセックスのシーン

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「アナル、一度したかったんでしょ。よかったねえ。できてね。ビデオに撮ってもらえてよかったねえ。こんなことしてもらいたい人はみんなビデオにでたほうがいいよね。たとえばこんなふうにアナルセックスもできるんだからねえ」
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、だめよだめよだめよだめよもうだめよ!」
(中略)
女はくの字に体を曲げられて上からペニスを入れられる。歯を食いしばりながら黒木香が歓喜の波にさらわれないように必死に耐えている。凄い形相だ。
「いいわ!いいわ!見える!すごい!うごごっ!よいしょっ!」
耳を疑った。
今、彼女は「よいしょっ」と言ったはずだ。
いったい何なんだ?
よいしょとは何なんだ?
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こういうのを人生の真実という。本橋信宏『AV時代ー村西とおるとその時代』。素晴らしいドキュメントです。よいしょっ♪♪♪

2011/01/03

カンナとカカシ(8)

投稿者 Chijun   1/03/2011 0 コメント
もうひとりがつづけていう。「ケータイだけじゃないわ。なんだってそう。みーんなみーんな小さくしちゃったの。ここにあるドアだっておなじよ。どんどんどんどん小さくして、見えないくらいに小さくして、だからいま見ているのは、かべに映った『めじるし』にすぎないの。ほんとはもういらないものなのに、目に見えなきゃわからないなんて、わたしたちっておバカさんね」
「そうして最後に残ったのは、自分のからだだけ、ってね。まわりのものがどんなに小さくなっても、自分のからだが百五十センチ以上もあったんじゃ意味ないじゃーん」
「こら、アヤタンたら。こんなにかわいい男の子をからかっちゃだめよ」
今しゃべったのがミカチンで、怒られちゃったのがアヤタン。カカシはだいじなことを忘れてしまわないようにいっしょうけんめい覚えようとしたけれど、姿も声もそっくりなので、いまにもわからなくなってしまいそうだ。
「ここに来たばかりでまだなにもわからないかもしれないけど……いい? ここは君のためだけの世界なんだ」



全部で何回かは忘れてしまったけれど、ふたりといっしょになってからは十二回エレベーターにのった。ここにはすべてがある……そういわれてみても、みんなおなじものばかりで、カカシはすっかりあきてしまった。だいじな用事……そう、ちいさなカンナに会ったのも、ずいぶんむかしのことのように思える。プレゼントのことも、うっかりすると忘れてしまいそうだ。たとえ時間がたっぷりあるとしても、おなじことのくりかえしばかりじゃ、なにもしてないのとおなじことになってしまいそうだ。
ところが十三回目のエレベーターを降りたとき、カカシはなにかがおかしい感じがした。なにがおかしいのかはわからない、でも、なにかがすこしだけちがうような気がする。足もとで気難しそうにしわをよせているこどものことには気づかず、女子高生たちはすたすた目的地へむかって進む。……やっぱりなにかがおかしい。おしゃべりな二人組がもうずっとだまったままだから? いやいや、そんなことじゃないはずだ。
そのうちカカシはなんだかおちんちんのあたりがもぞもぞしてきてね。そういえば、ここにきてからまだ一度もおトイレにいってない、ってことに気づいたんだ。
「ミカチーン。あたしおしっこしたくなっちゃった」たすかった、カカシは思った。「ちょっと待ってて」
そう言い残すと、アヤタンはたくさんあるドアのひとつのむこうがわに、すっと消えてしまった。
「……ひょっとして君もしたいんじゃない? いまのうちにすませておくといいよ。あたしは……ごめんね。女の子だからいっしょに入ってあげられない。だいじょうぶ、ちゃんとここでまっててあげるから」
 

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