あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/11/22

ことばで世界を描くことについて (3)

投稿者 じん   11/22/2010 0 コメント
前回の更新から少し時間が経ってしまいました。簡単にこれまでの話を振り返っておきます。言語で世界を描くとき、日本語では他人を主人公にし、英語では自分を主人公にして世界を描くのだというのがここでの主題です。ひとはことばを使うことで、区別なく現実世界に満ちている原子に名前をつけ、頭の中に映る世界に秩序を与えていきます。その秩序の与え方が日本語と英語とでは、誰が主人公の物語を描くのか、その物語は誰の目を通して描かれるのかという点で異なっているのではないか、ということを考えていきます。

前回は手始めに日本語の自称詞は話し手が話し手自身のことを指して使っていることばではなく、相手が話し手をどのようにみているのかということを表現することばだということを、森有正の「汝の汝」という考え方を借りてお話ししました。今回以降はそれを文のレベルで見ていきたいと思います。

(1)     (二尉の質問「……てゆうか、何をやってる……」への返答)
部下1: 自分はちせさんにコーヒーをと思いまして……
小隊長(ちせ): あたし…自分はこっ、交換日記を……
部下2: 自分はちせちゃんの宿題を手伝って……

まず、前回の流れを汲んで、どんな自称詞が使われているかを見てみましょう。軍の上官の質問に2人の部下と新米小隊長が答える場面です。軍人としての会話であるため、「自分」と自称するのがふさわしい場面です。場にふさわしいことばづかいをするというのも相手を意識した行動です。相手は自分を軍人として扱っている。軍人は「自分」と自称する。だから自分は「自分」と自称するという意識が働きます。自分が普段「あたし」と自称する女の子であったとしても、自称詞が「汝の汝」を指す限り、ここでは「あたし」を使うことはできません。

「どんな時でも俺は『俺』という自称を貫くんだ!」という人もいるかもしれませんが、「汝の汝」のロジックでいえば、これは自己のアイデンティティを表現しているのではなく、相手が自分を『俺』的な人間(一般的には「強さ」「男らしさ」「荒々しさ」といった性質をもった人物になるでしょうか)とみるように相手の見方を誘導しているということになります。

中村桃子という言語学者がこのことを『らせんの素描』というゲイを描いたドキュメンタリー映画の1シーンを例に説明しています。ゲイ・パートナーである矢野(25歳)と隆司(23歳)が同棲する家に同居することになった呼人(20歳)が、矢野と関係を持ってしまいます。矢野は普段自称詞として「おれ」を用い、隆司は「隆司」を用いていますが、この3人の関係を良好なものへと修正するために、矢野と呼人の前で、隆司は「ママ」を自称詞として用います。隆司は自分を「ママ」と呼ぶことで、隆司と呼人が矢野をとりあう三角関係から、矢野を父親、隆司を母親、そして呼人を二人の息子として捉え直した家族関係へと3人の関係をつくりかえたのです。自分を「ママ」と呼ぶことで相手の見方を誘導し、新たな関係を構築した例です。

この「ママ」という自称を、「汝の汝」の構図で分析すれば、「呼人から見れば隆司は『ママ』である。だから隆司は『ママ』と自称する。」という構図ができあがります。自称詞が自分の事を直接指していることばとして考えるより、相手に見えている自分の姿を指していることばとして考えた方が、この3人の間に生まれた新しい関係は安定したものになります。これは小さい時に遊んだ「ままごと遊び」にそっくりです。「ご ごめん。お前はそんな子じゃなかった。疑ってすまんっ。父さんが悪かった。」と学校の友人に言えば、その瞬間に2人は親子になります。これも、自称詞が、相手が自分をどう見るかを表すことばだからです。

2010/11/15

思い出せない~~~

投稿者 福田快活   11/15/2010 0 コメント
いいアイディアが思い浮かんで「こいつぁいいや!こんなステキなアイディア忘れっこないぜ!メモ~~~~!?ンなんいらねえに決まってんだろ!」とほくそ笑むときがある。ヤ、ほくそ笑むどころか体中をファンファーレが鳴り響いて、ファンは狂喜乱舞、興奮した暴徒をおさえこむのに警備員は必死、くらいの興奮をひそかに噛みしめてるんだけど、熱狂した群衆がケロッとしずかに日常にもどるように、「あれ?さっき思いついたアレ。。。なんだっけ?」とさみしく木枯らしが吹くときもある。友蔵、心の俳句でも詠みたくなる。

よくアイディア関係の本だと、メモなんかとるな。忘れてしまうアイディアにいいもんなんかない。て書いてある。ウソだと思う。「あんなよかったじゃないか!アイディア本体は忘れたけど、あのファンファーレだけは覚えてるぞ!あの興奮!あの熱狂!」て猛り狂ったところで、砂をもう一回噛みしめるだけ。泣きたくなっちゃう。

忘れてしまったアイディアを悔いてもしょうがない。忘れてしまったものは酸っぱいブドウだと唾はいて、新しいのを思いつこう――「忘れたアイディアにいいもんなんかない」ていう発想はこういう処世術なんぢゃないか。アイディアを量産しなきゃいけない人間がいつまでも覆水のことをグチグチ思いかえしたって百害あって一利なし、だろう。だったら心機一転、頭を切り換えたほうが生産的にちがいない。そういう意味ではとても実践的な教訓だ。おれも見な
らおう。

ああ、それにしても今日何を書くつもりだったのか思い出せない~~~~(;へ;)

2010/11/11

カンナとカカシ(6)

投稿者 Chijun   11/11/2010 0 コメント
ずいぶん高いところにある。カカシは話を聞いているうちにおじけてしまいそうになったけれど、でも、高ければ高いだけカンナはよろこんでくれそうな気がした。それに、高いのにはちがいないけれど、七百三十歩ならそうとおくもない。
「カンナはね、楽園にいったことないの。おうちでまってないと怒られちゃうから。でもね、おじさんはとろけるような目で楽園のことをはなしてくれたわ。とても大きな池があって、おいしい木の実がなっていて、赤白黄色のお花がいっぱい咲いてるの。いーっぱい咲いてるのよ! すごいでしょ!?」まるで自分が見てきたように、小さなカンナは興奮していた。



ろうかを右側にまっすぐあるいて、エレベーターにのる。……いちばん上の『30』を押して……ついたらまたまっすぐあるく。……そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……ついたらまたまっすぐあるく。……そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……いまいったい何階なんだろう? エレベーターがこんなぐあいじゃあ何階にいるのかもわからないし、何階に行けばいいのかもわからない。……ついたらまたまっすぐあるく。ヽヽここは何階まであるんだろう? 
そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……エレベーターはしずかにしずかに上がっていく。もうどこにもつかないんじゃないか、そう不安になったころにようやくゆっくり止まる。ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……おなじことを何度も何度もくりかえしているうちに、カカシはついうとうとしてしまった。そこへとつぜん、

 もーしもーし、
と空から声がふってきて、見上げると灰色のをした女子高生が携帯電話片手に話していたんだ。いつのまにエレベーターに乗り合わせたのだろう?
「そーそー。ガンダム好きとかいいだすから、いやんなってわかれちゃった♪ きゅうにオタクになるとか、まじきいてないんですけどー、って感じ。うんそーそー、いまつくとこだよ!」
エレベーターのドアがひらくと、そこにもう一人ひらひらのスカートをはいた女子高生がまちかまえていて、
「ミカチンひさしぶりっ!」と目をほそめてむかえた。
エレベーターに乗っていたはずの女子高生は、「アヤタンひさしぶりっ!」とそとにいた女子高生に飛びついている。
「やだーひさしぶりー、しんじらんなーい」
「え、なんで、すごくない? イヒヒヒヒ」
「え、え? イヒヒヒヒ。イヒヒヒヒ」
「なにー。どうして? イヒヒヒヒ」
おでことおでこをくっつけてだきあうふたりは、鏡をくっつけたみたいにそっくりだった。こしまでながれおちる髪、まっしろいワイシャツのむなもとのくろいリボン、折れてしまいそうにほそいうで、すらりとのびた脚さきの、くろいストッキングとくろいクツ。もうひとりの目がひらいたとき、その瞳も灰色だった。そうしてふたりは「イヒヒヒヒ」だけで会話をしていたんだ。

2010/11/02

口癖がうつるとき

投稿者 じん   11/02/2010 0 コメント
相手の口癖がうつるのは、たくさん聞いて「考え方が刷り込まれる」のではなく、相手が自分の話を理解しやすくするため。相手の世界、相手の言葉へ自分の気持ちを翻訳することであり、時枝誠記の「場面への融和」である。

職場の先輩の口癖は「めんどくさい」。コストパフォーマンスへの意識が高い先輩なので、必ずしも後ろ向きな口癖ではないのだけれど、後ろ向きな見た目をしたことばって出来るだけ使いたくはないな、と当初思っていた。ところが最近どうもこの先輩の口癖が最近うつってきたようだ。

「口癖がうつる」というのは、長く一緒にいる人と考え方が似てくることを指して使うことが多いけれど、実際にはどうだろう。コミュニケーションの道具としてのことばにまつわる現象として「口癖がうつる」ことについて考えているうちに、時枝誠記の「場面への融和」にたどり着いた。

「場面への融和」とは、相手の考え方に沿った表現をすることで相手の理解を促すこと。小さな子供に赤ちゃん言葉を使ったり、論理的な考えな人に対して情に訴えるのでなく理屈で説得したりするような場合がそれだ。

「口癖がうつる」というのもまさにこの「場面への融和」で、長く一緒にいれば相手がどのような時にどのようなことを考えてその口癖を使うのかが見えてくる。先輩の「めんどくさい」の場合は、額面通り面倒でやりたくないという感情の表現であると同時に、やろうとしていることのコストパフォーマンスが悪く、もしかしたら別のやり方が考えられるのではないか、さらにはやらない方がいいことなのではないかという考えの表れである。先輩がそういう事柄に対して「めんどくさい」を使うのであれば、「効率が悪いのではないでしょうか?」というよりも「少し面倒かもしれませんね」といった方が、はるかに伝わりやすく、話が早い。

さらに、同じことばづかいをする、というのは同じコミュニティに属していることを表現する手段でもある。相手が自分を仲間だと感じてくれれば、相手に自分の考えを理解させやすくなるのは言うまでもない。

つまり、「口癖がうつる」という現象は、相手と考え方が似てきた結果として起こるというよりも、相手と同じ考え方をしているのだと明示することで、実際には考え方が異なっていたとしても、自分の考えを理解してもらうという、コミュニケーションをとるうえでの戦略として現れてくるものなのだ。
 

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