思えば中学・高校生私は博奕が大好きだった。といってももちろん阿佐田哲也みたいに、玄人(バイニン)の世界に単身身を潜らせるハイティーン、妖怪変化・魑魅魍魎・鵺・ひょっとこ・ぬらりひょんなしわの数だけ年季のいった玄人に揉まれ、叩かれ、斬りつけて頭角を現してく、通り名は「坊や哲」なんて凄まじいハナシぢゃあない。教室の隅とかど真ん中で昼休み、十分休憩、放課後(そういや授業中もあった。学級崩壊)に友達と打つだけ。ベルが鳴るのをいまかいまかと、鳴おわる前に心とカラダ弾かれたメンツがひとつ机に集まる。「やるか」。チンチロリン、おいちょかぶ、ポーカー、麻雀。だいたいがこんなとこだった。イヤ、大富豪でも賭けた。とりあえず何でも賭けたい年頃だった。ハイティーン。そんな「年頃」があるのか知らないけど、友達とバス停で待ってて次くるのが男か女か。そんな賭けもした。漫画みたいに「来たのはおかま」なんてうまくオチはつかない。
いちばん好きだったのはチンチロリン。サイコロを三つ振って、その目を競うだけ。詳しくはこれでもみてくれ。アゝ、一読郷愁が薫る……「アラシ」「シゴロ」「ヒフミ」。教室の、木の臭いが甦ってくる。机の香りだ。。。。あ、ごめん。イッちゃってた☆メンゴ、メンゴ。
なんで好きだったか?金が動くから。迅速に、おおきく。張りを大きくして、乾坤一擲・捲土重来をねらう。それが当たろうが外れようが、両手に賽を鳴らして、丼に投じるまでの連続したいくつもの一瞬間は、絶対的な緊張と期待と恐怖と希望に満ち満ちて、全身の細胞を感じとれる、ふつふつと「生」が漲るこの充実感、アゝ何テ言エバイインダロウ!書いてるいまも心臓の鼓動が速くなってきた!それで当たって勝ったときにゃあ、もう……!
森巣博はこう言う
わたしはハウスがバストするように祈った。/神の存在など微塵も信じていないのだが、それでもこの時は祈った。/人はカシノで夢を見る。人はカシノで祈る。/そう。夢を見ること、祈ること。この(多分)人間だけが持つ特権を、集中し凝縮して行使できる場として、わたしはカシノを好むのである。
あるいはこうも言う
勝利すれば、感情などが入り込む余地のない、まっさらな快楽が得られる。大賭金での勝利が連続すれば、まっさらな快楽は、いつの間にか光り輝く全能感に変化する。そこには、懼れも怯えも、存在しなかった。すべてが可能だ。行く手を阻むものなどなにもない。不思議と未来が見透かせた。次のカードが読める。なぜなら、自分は神に変身していたのだから。
祈りたくて、夢が見たくて、果てには全能感を体験してしまったから、人は博奕を打つ。おれは高校までの仲間内のしょぼい博奕をやり切って、もういいやと思った。向いてないことがわかった。おれはカモになるだけだ。そもそも全能感体験するほどデキナイし、ただ祈りたくてやるやつに、「墜ちながら夢をみる」以外の結末が残ってるはずもない。全能感を体験しながら、淫することなく、それこそ言語道断の自己管理能力で自己を律しながら博奕を打ち続けるのがプロ。おれはそういう博奕を打たなかった。麻雀でも派手な、人を魅せる打ち方が好きだった。それを完遂する☆のもとにぼくは生まれてない。
て悟ったつもりだったのが、森巣博『越境者たち』を読むとカシノにいきたくなるから困ったもんだ。
こちらにある通りで、森巣博の蘊蓄といったら怒られるか、社会の裏話、いわゆる思想的なところも面白い。もちろんモノガタリの部分になるヒロシ、マイキー、ウルフのハナシもおもしろい。カシノに淫すること、そこにある祈り、夢、全能感、それこそが「生」だ!生きてるってことだ!リア充だ!リア充になりたけりゃ、カノジョとかつくる前にマカオにいけ!でもその「生きてる」人間は境を越えてしまった人間でもある。生存し続けたけりゃ、もどってくる手段を講じないといけない。じゃなきゃ淫してドン。おしまい。そんなカシノ疑似体験ができる。博奕、カシノに興味はあるけど、身を持ち崩すのがこわい人はおすすめ。とりあえず『越境者たち』を一読、疑似体験でお茶にごしてください。おれみたいにかえって熱が昂じるかもしれないけど(^^)/
いちばん好きだったのはチンチロリン。サイコロを三つ振って、その目を競うだけ。詳しくはこれでもみてくれ。アゝ、一読郷愁が薫る……「アラシ」「シゴロ」「ヒフミ」。教室の、木の臭いが甦ってくる。机の香りだ。。。。あ、ごめん。イッちゃってた☆メンゴ、メンゴ。
なんで好きだったか?金が動くから。迅速に、おおきく。張りを大きくして、乾坤一擲・捲土重来をねらう。それが当たろうが外れようが、両手に賽を鳴らして、丼に投じるまでの連続したいくつもの一瞬間は、絶対的な緊張と期待と恐怖と希望に満ち満ちて、全身の細胞を感じとれる、ふつふつと「生」が漲るこの充実感、アゝ何テ言エバイインダロウ!書いてるいまも心臓の鼓動が速くなってきた!それで当たって勝ったときにゃあ、もう……!
森巣博はこう言う
わたしはハウスがバストするように祈った。/神の存在など微塵も信じていないのだが、それでもこの時は祈った。/人はカシノで夢を見る。人はカシノで祈る。/そう。夢を見ること、祈ること。この(多分)人間だけが持つ特権を、集中し凝縮して行使できる場として、わたしはカシノを好むのである。
あるいはこうも言う
勝利すれば、感情などが入り込む余地のない、まっさらな快楽が得られる。大賭金での勝利が連続すれば、まっさらな快楽は、いつの間にか光り輝く全能感に変化する。そこには、懼れも怯えも、存在しなかった。すべてが可能だ。行く手を阻むものなどなにもない。不思議と未来が見透かせた。次のカードが読める。なぜなら、自分は神に変身していたのだから。
祈りたくて、夢が見たくて、果てには全能感を体験してしまったから、人は博奕を打つ。おれは高校までの仲間内のしょぼい博奕をやり切って、もういいやと思った。向いてないことがわかった。おれはカモになるだけだ。そもそも全能感体験するほどデキナイし、ただ祈りたくてやるやつに、「墜ちながら夢をみる」以外の結末が残ってるはずもない。全能感を体験しながら、淫することなく、それこそ言語道断の自己管理能力で自己を律しながら博奕を打ち続けるのがプロ。おれはそういう博奕を打たなかった。麻雀でも派手な、人を魅せる打ち方が好きだった。それを完遂する☆のもとにぼくは生まれてない。
て悟ったつもりだったのが、森巣博『越境者たち』を読むとカシノにいきたくなるから困ったもんだ。
こちらにある通りで、森巣博の蘊蓄といったら怒られるか、社会の裏話、いわゆる思想的なところも面白い。もちろんモノガタリの部分になるヒロシ、マイキー、ウルフのハナシもおもしろい。カシノに淫すること、そこにある祈り、夢、全能感、それこそが「生」だ!生きてるってことだ!リア充だ!リア充になりたけりゃ、カノジョとかつくる前にマカオにいけ!でもその「生きてる」人間は境を越えてしまった人間でもある。生存し続けたけりゃ、もどってくる手段を講じないといけない。じゃなきゃ淫してドン。おしまい。そんなカシノ疑似体験ができる。博奕、カシノに興味はあるけど、身を持ち崩すのがこわい人はおすすめ。とりあえず『越境者たち』を一読、疑似体験でお茶にごしてください。おれみたいにかえって熱が昂じるかもしれないけど(^^)/