あ、1本いいっすか?

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2010/02/26

拝啓 ジャイアン様

投稿者 じん   2/26/2010 0 コメント
拝啓 ジャイアン様

 突然の御手紙をお許しください。

 あなた様のリサイタル、時折テレビで拝見させていただいております。

 突然ですが、私を含め、自分をさらけ出すことを恐れ、失敗を恐れ、訪れるかどうか分からない“そのとき”を待ち続ける人が、とても多いと感じております。

 そんななか、あなたは行動することを恐れない。派手な衣装を身に纏い、客がいなければ強権、ときに恐拳を発動してでも集め、批判的な周囲の声よりも自分の心を信じる。そんなあなたは、誰よりも強い存在感を示しておられるように思います。

 正直に申し上げれば、あなたの曲も歌声も、私の好みには合わず、意味の無いことを知りながら、思わず耳をふさぎたくなることもございます。しかし、目は閉じず、しっかりとあなたの行動を、1つのあるべき姿として、焼きつけ、その姿に躊躇いがちな私の心を叱咤していただこうと思っております。

 近頃はお声が少し変わられた様で、あの雄々しく力強い歌声を聴くことができず、寂しくもありますが、ますますのご活躍をお祈りします。
敬具

2月26日
じん

2010/02/23

去年9月の歌舞伎……『松竹梅湯島掛額』

投稿者 福田快活   2/23/2010 0 コメント
松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)は福森久助の作だ。

福森久助はまあ、明和4(1767)年にうまれて文政元(1818)年に死んだ歌舞伎作者、『東海道四谷怪談』で有名な作者鶴屋南北のライバルだった人ととりあえず思っといて。

い まも作者名を冠して上演される江戸時代の作者がこの鶴屋南北と、時代はくだって幕末明治の河竹黙阿弥くらいだろう。黙阿弥は「明治になる前に近代だった」 芝居を書く人間でしょうじき好みぢゃない。南北はそれこそ、江戸の髄とでもいえるような芝居を書く、そのライバル福森は、これまでみたことがなかった。 ネームバリューは相対的に低い。

それでも今回(去年の9月。。。)の上演とあって楽しみ、南北とどう違うんだろどう似通ってるんだろ――という期待に駆られていた。

「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕にわかれる。
八百屋お七ものだ。八百屋お七ってのは「恋にはまり過ぎて男にあうため放火する」キャラだ。まちの八百屋の娘っていうより、ダイエーの社長令嬢、「男にあうため放火」ってのは男とあったのが火事のため避難した寺だったから、また火事が起これば会える、と思って放火する。

こ の『松竹梅湯島掛額』ではちょっと違うんだが、基本キャラはかわんないので割愛。。。んーやっぱ軽く説明――避難先吉祥院でお七が惚れた寺の小姓吉三郎、 実は歴とした武家、紛失した御家の重宝天国の短刀を捜しだしてお家再興を図る大事の身。(間があって)この短刀を見つけたお七、吉三郎に届けようとするも 暮れ六つ(6PM)を過ぎ、木戸は固く閉ざされている、木戸を開き吉三郎のお家再興を果たすため、お七は重罪をかえりみず火の見櫓の太鼓をたたく

「男にあうため放火」が「男のために禁を犯して太鼓をたたく」にアレンジされてる。このアレンジは歌舞伎の胆にかかわることだけど、今回は割愛。。。ほんとに

「吉祥院お土砂の場」は中村福助演じる美貌のお七を手に入れようと蒲冠者範頼(史実では源頼朝の弟のひと)が手先をよこしてくる。そいつを撃退するために中村 吉右衛門演じる紅長が、人をグニャグニャにする霊験あらたかなお土砂(まあ砂)で手先もグニャグニャ、寺の上人・小坊主、お七のお母さん、下女・友達かま わずグニャグニャにしまくる、お七だけはしない、お祭り芝居で、このムチャクチャぶりが福助か、なるほどと思ってた。

「火の見櫓の場」は全然違った。

さっきの「(間があって)」以降の筋なんだが、みて欲しい。上のグニャグニャ騒動とノリが違いすぎる。マジメなんだ。悲劇なんだ。

そして何より福助のお七が人形振り。
人形振りってのは黒子が後ろについて操ってる設定で、福助が人形みたいな動きをするんだ。
ポッピングと通うものがある

このお七が人形振りが信じられなかった。

八百屋お七=恋に狂った女=人形操り

観念的な整合性がとれすぎてるんだ。

恋に狂った女は人形である。凝縮された恋の激情は臨界点を超え虚無を爆発させる、黒子に操られる手足は機械的な直線を描き、眼はガラスのように見るものを吸い込む、まさにこの虚無こそが福助の演技の・・・なんたらかんたら

と言えちゃいそうな、いやこういうことはゆえるし、ハズレではない。

「すべてが恋」になったお七は実は「なにももってない」怖さのようなものは
舞台を見てれば感じるんだけど、そゆことは実際にもあるんだろけど

「これって福森久作?文化文政(19c初め)の発想?」

首を傾げる。
この整合性のとり方は近代の発想で、江戸ぢゃあねえな。これ福森ぢゃないんぢゃ?

て思いながらポテチかじってたら気になりすぎたので、買う積りのなかったプログラムを買ったらこうあった――

『松竹梅湯島願掛』は、文化6年(1809)3月、江戸森田座で初演した福森久助作『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「吉祥院の場」と、安永 2年(1773)4月、大坂北堀江座で人形浄瑠璃で初演され、歌舞伎でも人気のあった『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』の「火の見櫓の場」 を河竹黙阿弥が繋ぎ合わせて脚色し、安政3年(1856)11月、江戸市村座で初演しました。

福森を観に行って、黙阿弥は「明治になる前に近代だった」をあらためて確認した。安政3年は明治維新まで11年待たねばならない――でおわったらこの文章、整合性とれすぎてるので、
さいごに――バイバイキーン

※そもそも「火の見櫓の場」を入れるのが黙阿弥の発想でも、「狂ったお七は人形」が黙阿弥の発想かわかんないしね。これは黙阿弥の元の台帳で後日、確認しよう。黙阿弥が近代、ってか近代ってなに?ってこともあらためて

2010/02/19

ワンクリック狂気

投稿者 サトウ   2/19/2010 2 コメント
 グルジアのリュージュ選手、ノダル・クマリタシビリ(21)が、ヴァンクーヴァーオリンピック開会式直前の最後の公式練習で、コントロールを失ったソリから投げ出されて死亡した。21歳の若者が晴れ舞台を目前に不慮の事故で亡くなってしまう、ということだけで十分に悲劇的であるが、もっと衝撃的なのは、スタートしてから時速140キロ以上のスピードで鉄柱に激突、死亡に至るまでの一連の映像が、インターネットを介して全世界に配信されたことである(テレビではもちろん激突の寸前、クマリタシビリが空中に舞い上がったところまでしか映さなかったし、ネット上でもyoutubeでは誰かが配信するたびにIOCが即座に削除、また別の人がアップ、という恒例のいたちごっこを経て、ではあるが)。
 なんであんなところに柱があったんだ、とか、スピードを重視しすぎたコースが悪いんだとか、いろいろな批判はある(し、そういう事が起こってしまったからには構造的な欠陥を批判することは絶対に必要だと思う)が、しかし、私はなぜそんなにも彼の死が人を──不謹慎な言い方だということは承知で言わせてもらうが──魅惑するのか、そのことのほうが気になってしょうがない。
 実際わたしも暇にまかせて、何度も彼の〈死への滑走〉の映像を見てしまった。ソリはカーブの出口でコースの側壁にあたり、舞い上がった彼の体はカーブの外側にあった鉄柱に背中からぶつかる。報道によれば140キロ以上出ていたのに、まるで柱にぴたっとくっつくように、彼の体は静止する。彼の体は二度と動かない。
 他のどのメディアでもなく、映像という媒体に特有の説得力があるのだ。バルトが『明るい部屋』で書いたように、写真(この場合は動画だが)は、その被写体が「たしかに存在した」ことと同時に、彼が「もはや存在しないこと」まで証明してしまう。「写真、バルト、時間」(『〈明るい部屋〉の秘密』青弓社)で、長谷正人はこれを見事に説明している。原文は引用しないが、単語だけ入れ替えてほぼそのまま記述しよう(すみませんがどの単語を入れ替えているとかそういったことは明示しません)。

〈以下二段落は「ほぼ」引用〉
 私たちはまず、この動画を「過去」の衝突事故死という出来事を捉えた写真として見る。クマリタシビリというリュージュの選手がそのときカメラの前にいたのだ(「彼は─かつて─いた」)、と。ところがよく考えれば、これが撮影されたそのとき、クマリタシビリはまさにこれから死のうとしていたのだった。その意味では私たちは、この動画から、近い「未来」に起きようとしている衝突事故死という出来事を恐怖とともに読み取ってしまう。しかもさらにもう一度我に返って考えるならば、その未来に起きようとしている衝突事故死は、すでに「過去」のものとして終わってしまったのだ。つまり私たちは、過去にすでに起きたことを知っているはずの出来事を、これから未来に起きるかのように恐怖していることになる。
 いまこれから死のうとしているクマリタシビリを動画のなかに見るとき、私たちは衝突事故死という実際に起きてしまった未来だけでなく、もしかしたら彼が死ななかったかもしれない別の歴史的可能性をどこかで感じるのではないか。少なくともこの映像が撮影されはじめたときには、まだ何が未来に起こるのかわからなかったのだから(何事もなくゴールして夕方の開会式に出席できたかもしれないのだ)。この映像は、そのような複数の未来の潜在的可能性にさらされたままスタートするクマリタシビリの姿を見せてくれる。そしてそれを見ることによって、私たちは、結果的にはこのようにしかありえなかったいまここに至る継起的歴史の時間が、別の可能性に向かっていまここに開かれていくのを感じるではないか。それはいささか倒錯した時間的経験なのかもしれない。だがこの動画を見るという経験は確実にそうした狂気を孕んでいるというしかない。
〈「ほぼ」引用以上〉

 私たちが彼の死に魅惑されるのは、あの動画を見ることによってこのような「倒錯した時間経験」を体験するからなのだ。
 バルトが論述の対象とした写真と違う点は、クマリタシビリの死亡事故の動画は原理的には無限に、しかも一瞬にして全世界に増殖し得たということである。私たちはしかるべき検索語句を打ち込み、リンクをクリックするだけでこの「狂気」を、しかも、もし望むならば何度でも手軽に体験できてしまうのである。しかし、それは同時に、私たちは動画の再生ボタンをクリックするたびにクマリタシビリを何度も殺している、ということでもあるだろう。

2010/02/16

差出し不明宛名なし

投稿者 Chijun   2/16/2010 4 コメント

下から上に。いろんなものが流れていく。
ぼくは果てしなく落ちている。
虚空を果てしなく落ちている。
などというのは大ウソで、ただ単に、橋から飛び降りたにすぎない。
飛び降りるとき、注意して、そうっと、足の先からゆっくり踏み出したせいで、頭が上で足が下。気をつけの姿勢で落ちていく。なんてハメになってしまった。これは君の理論上整合性のある状況なのか?
橋の下には川がある。すべての橋の下に川があるとは限らないが――あるいは線路かもしれない――それはともかく、ぼくはどんどん川にむかって落ちている。
だから、下から上にいろんなものが流れていく。
たとえば愛しい妻と娘の笑顔とか。
たとえばセクシーな裸の天使たちが死にゆくぼくをやさしくつつんで舞い踊る姿とか。
なんてね。
ウソついてごめん。妄想でも幻想でもそんなもの見えてない。見えてないとしても、だ。今まさに死につつあるというのにまったくなんて安いんだろう、オレの想像力。
しかたない。ぼくはまだ十四才の中二なのだ。走馬灯を美しく飾れるだけの経験も積まず思い出のたくわえもないうちに、こんなことになってしまった。
それでもぼくは、最後の滑空を楽しむ今この時が、人生の絶頂だと思っている。たまらなく気持ちいい。
ぼくはずっとこの日のことを――人生最後の日のことを思いつづけていた。
思いつめていた。
夢見ていた。
きっと生まれ落ちたその日から。
いや、もっとずっとずっと前、母の胎内でプカプカ楽しんでいたころから。
父の精子として流れ込んだときから。
母の卵子として運命的な結合を待ちわびていたころから。
当該卵子への果てしない連鎖として母の初潮のあったその日から。
母の母の母の初潮のその日から。
宇宙の虚空をただよう……おっといけない、調子に乗りやすいのはぼくの悪いクセだ。
ぼくはいまも、この瞬間のために生まれてきたのだと信じて疑わない。できればイメージ通り頭から落ちたかったところだが、あまりわがままをいってもいけない。風を切って全身を投げだす感覚はわるくなかったし、風に切られて未知の終わりに向かって突っ込んでいく感じも悪くない。
ぼくは、ただ死の訪れるのを待ち呆けているだけの軟弱モノではない。公園の片隅に居を構える哲学者になるまえに一個の実践者として足を踏み出したし、それに、来るかどうかも分からないものを水平的に待っているだけでもなかった。水平歩行運動と垂直落下運動のあいだにはやはり座標軸を九十度回転させた以上の何かがあるはずだ。じっさい落ちているぼくが言うのだから、まちがいない。
ぼくの行く先には最後がある。
それを忘れることはできない。
……などとかっこうをつけてみても、どうもしっくりこないね。こんなシチュエーションなのだから、ウソはなしにしよう。そうだ、死の意味を悟るには、中二のぼくはどうも若すぎるのだ。
からだは大人、でもこころはこども。
そんなあやうい境を行き来するぼくたちは、ときとしてその行きつく先も知らないままに夢中になって終わってしまう。
オワタ!
では済まないところまでいってしまう。この多難な一時期を一部運良くやり過ごしたやつらだけが、何かになることができるのだろう。安定したX、つまり大人というモノに。
話をちょっとだけ元に戻そう。まあ大して脈絡もない話なので、断る必要もないかも知れない。流れるままに行けばいいんだろ?
彼女が××と言ったから、おれは落下しようと思ったんだ。『母の母の母の初潮のその日から』ってのは、もちろんウソだよウソ。色恋沙汰が死の理由になるのは、ぼくたちくらいのおとしごろには普遍的真理に見えてしまうわけで。
橋の上にソレと来たのがいつのことだったかよく覚えてはいないけれど、――ぼくがどれだけのあいだ落ち続けているか考えてもみてほしい――ソレはぼくのとなりで欄干に軽く手をのせ、とても悲しそうな目をしてうつむいていた。だからその瞳にはぼくではなく、流れる川が映っていた、のだろう。(じっさい人の瞳に映っているものなんて、そう簡単に識別できるものではない。まあ、ふたりのあいだにそれくらいの距離があったということは認めざるをえないけどね。)仮にそうだとして。
ソレの体全体が、その目にとりこんだ川の流れのように、ゆるやかに、ではなく、クラクラするほどまばゆい変化を見せていたんだ。ソレはぼくの母のようでもあり、おさない妹のようでもあり、あるいはかわいい天使のようでもあった。まるでぼくの欲望の鏡のようだった、というには、それでいてもっと強い実在感があったなあ。君だったら、それを『距離』と呼び換えるところかな? ぼくだったら、靴下のほつれとでもいいたいところだ。
橋の上の最後の逢瀬、とでも呼んでみようか。
ぼくが、「もうそろそろかえろうか」といおうとしたら、
ソレが先に、「もうそろそろかえろうか」といった。
そういってとつぜん泣き出したかと思ったら、ウオェッオェッと嗚咽を漏らしているのはぼくのほうだった。
生きているうちも死んでからも二度と会うことはない。
(ぼくは死後の世界を信じない)
そのことがわかったとたん、涙がとびだした。
悲しかったというよりは、怖かった。
体の底からふるえとともに、涙があふれる感じだ。
そんなぼくを目の当たりにしたことで、「もうそろそろかえろうか」、というのはなかったことになった。
だまったまますることもなく、ただふたりでいる時間をひきのばすためだけにそこにいた。
ザアアアッーーーと川の流れる音をぼくなりに区切って、それで三千六百回数えたとき、「そろそろいこうか」、といったのは、やはりぼくではなかった。
歩きだして気づいたことだが、ぼくはもう全身の力が抜けきってしまったようで、何が起きてるのかもよく分からず、半歩後ろをついていくだけだった。
するとぼくの手がとつぜんあたたかいものに包まれて、ぼくはまるで、母に引っ張られて泣く泣くおもちゃ売り場を後にしたときの気持ちを思い出したようで……あれはぼくの人生でいちばん美しい瞬間だった。
ぼくは落下を続ける今も忘れられないけれど、ソレはきっともう自分のしたことを覚えてはいないだろう。風の便りに、大好きなカレシを見つけたと聞いた。
さて、と。ところでおれはいつまで落ち続ければいいのかね? 親友たる君の予測では、君たちの世界ではぼくが落ちるのは一瞬のこと、ぼくの世界ではぼくは永遠に落ち続けねばならない、ということだった。異なる時間軸上に生きる以上、ぼくはもう君たちとは別世界の人間といってもいいのかもしれない。つまりぼくは、橋から飛び降りた瞬間、そしてのち川にドシンと落ちる瞬間、二度死ぬということになる。できれば君の理論完成に向けての材料として提供したいところだが、君と連絡を取ることはかなわない。君がもう少し早く、異世界間の通信機器を発明してくれていれば。
中絶。
途絶。
回復。
これも君の意識との関係の錯覚にすぎない。とすれば、ぼくは君たちの世界で一度でも誰かとつながることができたといえるだろうか?
そんなことは一度もなかった。
というのは、ひとりきりで落ちるぼくの、いっときの感傷に過ぎないのだろうか? どうせなら、もっと感傷を続けてみようか? ソレをみち連れにしたなら、ぼくたちはずっといっしょにふたりで落下できただろうか? 最後の逢瀬のときぼくは、二人で落ちるチャンスを無言のまましかしずっと狙っていたのではなかったか? ソレと一緒なら、ぼくはもっと水平的な落下をのんびり楽しめたのではないか? それはもう落下などと呼べる代物ではなくて、ただ単純に末長くお幸せに、ということではないか? 最高の人生じゃないか?


そうだ、ぼくは彼女を愛していた。


「真の芸術家というのはね、真の人生の観察者のことなんだ。仮に、なんとも憂鬱なトーンで連載をはじめてしまった小説家がいるとしよう。そうだな、たとえば女子高生が学校のクソまみれの便器に産み落とした赤ん坊を絞殺する、衝撃的な幕開けというわけさ。ところが、だ。彼は人生をつぶさに表現しようとする。そのために人間をますますよく見る。そうするうちに、やはり人間というのは驚異的な神秘以外のなにものでもない、という感動に撃たれるんだ。そうして気がつけば、子殺しの頻発するこの世界に向けて、生命賛歌を歌い上げている。彼こそ真の芸術家さ」
そうだね、君の言うとおりだった。
おちるおちる。もう目の前に。
川面が美しく暁を反射する。
そんな終わり方はぼくの望んだもんじゃない。

遺言。オレが中二だなんて、もちろんウソだよウソ。

2010/02/11

お風呂シンガーの皆様へ

投稿者 じん   2/11/2010 1 コメント
 私もその一人です。心は湯けむりとともに大きく広がり、いい気持ちで歌います。先日は、ジ・インプレッションズの名曲、ピープル・ゲット・レディを歌っておりました。ひとしきり歌った後、ふと、日本語で歌ってみようと思い立ちましたが、そもそも英詞もろくに覚えていませんので、さてどうしたものかと思いましたが、うろ覚えの英詞を、乱暴に、1番だけ翻訳した気分ででたらめに歌い、案外と気持ち良かったものですから、そのまま3番まで歌いあげました。

    あの汽車に乗って (People Get Ready)

    さあ行こうか ほらもう待ってる
    余計なこと考えずに
    大事なのは 踏み出せること
    胸張って 前を見て

    さあ行こうか あの汽車に乗って
    新しい色見つけに
    グレイの雲 肩に背負うような
    その部屋を抜け出そう

    さあ行こうか 手をつないで
    一緒なら 来れるかい
    ほらあそこに一つ光っているものが何か
    知りたいでしょ

 ジ・インプレッションズがこの歌を歌っていたのは、ちょうどアメリカで公民権運動が盛んであったころだと、テレビで見知っていたのですが、私は当然生まれておらず、また、幸いなことに、差別を受けたようなこともございませんので、彼らのような意気込みで歌えるはずもなく、今の私が歌ってみると、元の名曲とは似ても似つかないような代物になるわけですが、それでもこの私の日本語版も、大それたことではありますが、何か彼らの歌と通ずるところがあるのではないかと、そんなように感じられるのですから、不思議なものです。

末永くおしあわせに ~四谷怪談~

投稿者 福田快活   2/11/2010 0 コメント
お岩さんの職業は「惚れた男に裏切られて祟り殺す」だ。
ヲトコが好きだから、もおイケメ~ンってなったら逆ナンして一緒なって、でもダメンズだから男はサイテー。裏切られて殺されて、クヤシイシカナシイシ
幽霊になって男を祟り殺す。

実録、歌舞伎、合巻いろんな作で「幽霊になって祟り殺す」をしてきた(有名な『東海道四谷怪談』でもこのキャラだよね)ある日、ジョブチェンジするんだ。

妻 子持ちのタミゴロー(名前萌エの彼女はいつも似たよな名前に惚れる)がスキッ♡♡てなっちゃって、もう敵討ち諸国巡りで大変なタミゴロー夫婦だまして家に くわえこんで、タミゴロの足洗って「おまえのおみ足が洗いたくってしょーがなかったの」。幸せだったろーね。もっと「いやらしきこと」シタかったかもしん ないけど夫婦にすりゃうざいから、引っ越される。(ここら辺はいつも通り)

恋しさ患って、死んだ。

埋葬された遺体を狼が掘りおこす。
っと!お岩は死んでなかった、仮死状態だった(*^ー^*)∠※パパーン!!。・:*:・
狼は猟師に耳撃たれ、猟師は駈ける狼に逃げ、現れたのは以前お岩がいじめた狐;化カシテヤルゼー。髑髏に馬の骨さして狐の術、ホイ!お岩を幽霊になったつもりにした。

「幽霊になって男を祟り殺す」が商売だったお岩が幽霊気取りにジョブチェンジwて

「あたしは幽霊よ!男を殺してやるーー」そーれ、ってんでタミゴロの家いって男の首をチョーン!女の喉にガブー!(ほんとは南瓜ひっこぬいて石地蔵に喰らいついただけ。口から垂れる血は歯の欠けた自分の血)
びっくりしたのは村人、死んだはずの女が南瓜ぶら下げてヒエラヘエラ笑ってる。
タタリヂャー!
でもこの幽霊朝明けたどころか昼なってもいるし、足もある。ァ、ただの基地外だ(笑)
小学生には石ぶつけられたりしたけど、村の相互扶助は手厚くって畑の番すりゃおまんまくれる。流れもんと死裝束のまま(チョット白無垢っぽくない♪)蓮の葉かぶって(チョット綿帽子っぽくない♪)、シアワセナ祝言あげましたとさ。

(⌒▽⌒)/゜・:*【HAAPY WENDDING】*:・゜\(⌒▽⌒)

2010/02/06

一人称って変ですよね

投稿者 サトウ   2/06/2010 0 コメント
 更新が滞ってすいません。
 数日前東京外大に行って柴田元幸、都甲幸治、和田忠彦のシンポジウムを聞いてきた。
 お題は『現代文学と子ども』。
 ここで内容を全部紹介するわけにはいかない(というかそもそも全部覚えてるわけないし)が、気になったことが一つ。
 このお題とどう関わっていたのかは忘れてしまったが、都甲先生がバフチンのポリフォニー論を一人称に関しても適用できるのではないかという論を展開したのである。
 バフチンのポリフォニー(多声性)論というのは、ドストエフスキーの作品においてはそれぞれの登場人物の様々に異なる主張や意見がことごとく対立したまま描かれているとか、そういうことだ。バフチンによれば、それまでの文学作品は、一見異なる意見を持つもの同士の対話があっても、最終的には作者の肩入れする方向に回収されてしまっていた。
 三人称の小説であれば、作家が公正な審判のように、ある種の誠実さに基づいて人物を造形すれば、そういう優れたテクストができるのだろう、という気はする。それは「違う人を、違うように」描くということだからだ。
 しかし、それは一人称でも同じことなのである。私たちは、日常的に「同じ人を、違うように」提示し続けている。例えば以前千歩くんが言ったように、私たち日本語話者は、当然のようにさまざまな一人称を使い分ける。友だちの前では「おれ」、先生の前では「ぼく」、面接官の前では「私」など。そのことについていちいち混乱を覚える人はあまりいないだろうと思う。なのになぜ、小説の中ではあれほど人称がきっちり統一されるのだろう?

2010/02/01

短めの小説

投稿者 Chijun   2/01/2010 0 コメント

「本日出展を予定しておりましたブースNo.XX「◯◯△△建物(株)」について、当センターに提出されている求人は充足しました。したがって、本日は欠席となりました。」

とA4版わら半紙に刷ってある、それが挟んであったのは、就職合同説明会で配られたピンク色の冊子で、パラパラめくってみると沢山の求人票が次々に目に飛び込んできて、最後のページ数は「-134-」と記されてある。

ひるがえって表紙を見ると、上から順に、開催日、開催時間、会場、主催者が書いてある。

「平成21年9月8日(火)、9日(水)、10日(木)」

そうか、あれからもう三ヶ月が経っているのか。これではあっという間に30歳フリーター職歴なしのわたし、になってしまうではないか。

「13時00分〜16時00分」

29歳フリーター職歴なしのわたしには少し早く感じられる時間の、それでも神経質で几帳面なところもあるわたしは30分前には会場に着いて見渡すと、「インフルエンザ流行のため着用義務」とされていたマスクをしているのは10人に1人か、2人しかいなかったと思う。もちろんわたしはしていった。

もう一度ひっくり返して裏表紙を見ると、そこには会場案内があって、各ブースとその番号が図示されている。そうそう、最初わたしが行ったのは11番のブースだった。そこではベテランにしては落ち着きのない男性社員と、じっと目の前一点を見据えて動かない若い女性社員が待ち構えていた。

この冊子には、黄色い「企業訪問カード」というのがまた挟まっていたのだが、そこにわたしの字で、名前や年齢や住所・連絡先、学歴の欄が埋められてある。席に着いてこのカードを差し出したとき、男性社員の方は「いらっしゃいいらっしゃい」とわたしの顔ばかりを見てえへらえへら笑っているばかりだったが、女性社員はちらと鋭い一瞥をカードに与えた(ような気がした)。

各ブースには二つの席があり、わたしがその席に着いて間をおかず、若い、肌の灼けた男の子がとなりに座った。彼が出した訪問カードをちらと見ると、新卒の子のようだった。わたしより七つも年下である。大学に在籍しているようだったが、学校名は聞いたことがなかった。

会社訪問の日時を言い間違えて慌てて自分で訂正したり、創業年を言い間違えてニコリともしない女性社員にすかさず訂正されたりしながらも、なんとか男性社員はわたしたち二人に説明をし終えるまでに漕ぎ着けた。そこでようやく気付いたかのように彼は企業訪問カードに目を留め、老眼に苦しみながら、まず男の子の素性を確認した。

男の子に向かっては「君スポーツはやってますか?いや〜、やっぱだいじなのは明るさと体力なんですよ!」と大きな口を好意的に開けてのどちんこを震わせていた男性社員は、わたしのカードを見て一変、「ええ〜。ほんとうに。あぁ、そう。そうかあ。いやぁ。すごいねえ。へえ〜」と老いた眼をさらに細くしてカードとわたしを見比べた後、「でもねえ、あなたみたいに優秀な人がうちなんかに・・・いや〜もったいないなあ。もちろんだめとはいいませんよ。学歴だけでねえ、そんなことは言えませんよ。でもねえ、もったいないなあ」

「そうですか?でもみなさん全く同じようにおっしゃって、わたしを排除するんです」

なんてお行儀の悪い言葉は「優秀な人」わたしの口から飛び出すはずもなく、予定調和的に最後に名刺を受け取って席を立った。見ると男の肩書きは「東京支社長」だった。

それから確か26番のブースに移ってまた話を聞き、とりあえず訪問しようと前日決めていたのはその二社だけだったので、挙動に気を遣って神経をすり減らし、慣れない集団の熱気にも疲れてしまったわたしは、会場を出てトイレに入り、便座に座り、一人になって大きく息をついた。三時間の開催時間のうちまだ一時間も経っていなかった。それでもわたしは帰ることにした。その時間に会場を出ようとする人はいないようなので、トイレを出るとあまり目立たないよううつむいて歩き、エレベーターは使わず階段でそっと降りた。

ーーー


帰りの電車の中でくたびれて目をつむっていたら、ふと小説の冒頭が聞こえてきた気がした。

「こんにちは」

「・・・・・」
「こんにちは」
「・・・・・」
「こんにちは」
「・・・・・」

これだけだ。これがわたしの新作のどうやら全てのようで、その先はいくら粘っても聞こえてきそうになかったから、無理にその先をこじつけるようなまねはしなかった。

こじつける。そうだ、まさにそんな感じだ。自分に鞭打って机に向かっていた時はいつもこじつけるかんじがして、そうじゃなくてとつぜん頭の中に鳴り響くような稀なときだけ、わたしの小説は自然に進んだ。

とはいっても、今回のは冒頭の六行分しか進まなかった。誰やらわからぬ人が「こんにちは」と、これもまたわたしにとってもその誰やら分からぬ人にとっても未知である人に問いかけているようなのだが、「・・・・・」と返事がない。二人ともわたしの新作の登場人物らしくはあるが、この調子では二人ともどんな人物なのかはっきりしないまま延々と続き、何もないまま終わってしまいそうだ。いつの話か、どこの話かのイメージも付いてない。それでも頭の中に鳴り響く小説の声はここで中断してしまったのだから、しかたがない、と思う。

この小説に続きはあるのでしょうか?

仮に続きがないとしても、わたしはこの小説がこれだけでそんなに嫌いではなかったのだから、困ったものだ。
 

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