あ、1本いいっすか?

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2009/12/06

『アメリカの鱒釣り』を読み返してみた

投稿者 サトウ   12/06/2009 0 コメント

 久しぶりにリチャード・ブローティガンの本を読み返す機会があった。ブローティガンをヒッピー世代のスターに祭り上げた代表作『アメリカの鱒釣り』である。冒頭から表紙の写真に言及する異様な章で始まるこの作品は、全体として緩やかなつながりをもつ一~数ページ程度の短い章の連なりで構成されている。どの程度のつながりかというと、短編集と呼べるほどそれぞれの章が独立しているわけではなく、かといって最初から最後まできっちりつながった長編小説というわけでもないぐらいの、位置づけが難しい本だ。


 だからこの本について、登場人物やプロットによって作品全体の印象を伝えようとするのはむずかしい。とりあえず全体を通してわりに「つながっている」要素をあげると、これはタイトルから想像するのが容易だが、語り手の「わたし」はよく川に鱒釣りに出かける。しかしその語りには幻想が入り交じり、とても開高健やヘミングウェイの「釣り文学」と一緒にはできない。そもそも、釣りそのものが焦点となっているわけではない。たとえば「赤い唇」という章では、語り手が川下に行くためにヒッチハイクしているのだが一向に車が捕まらず、暇なのでハエを捕まえまくる。「ポートワインによる鱒の死」では、語り手は一応釣りをしているのだが、釣りをしながら友だちと雑談している。釣った鱒にその友だちがワインを飲ませて殺してしまうのだが、なぜか「鱒がワインで死んだ例など聞いたこともない」という驚きに語りの重点がおかれている。苦しまぎれにもう一つ「つながっている」要素をあげると、「アメリカの鱒釣り」という《なにか》が出てくる。これは出てくる場面によって、人物であったり、落書きの文句であったり、この本自体を指し示すものであったりするので、とりあえず《なにか》と呼ぶしかないのである。


 文の種類からいっても、その章だけで短編といってもいいようなまとまりをもつものもあれば、小説と呼んでいいのかわからないような一ページ程度の短文もあり、「ウォルナット・ケチャップのもう一つの作り方」というタイトルのとおりほとんど料理の作り方が書かれているだけの章、さらには「『アメリカの鱒釣りをネルソン・オルグレンへ船で送ること』への脚注章」なんていう章もある。「脚注」なのに「章」? この本はほとんど読者の脳内に形成されている通常の論理階梯をたたき壊すためだけに書かれたのではないかと思われるほど、徹底して「わかる」という感じを与えない。


 しかし、この作品がただ前衛的なだけの本かというと、ちょっと違う。文学史的に作家の重要性を説明するときに「いかに新しいか(新しかったか)」を説明するのは常套手段であるが、考えてみれば、近代以降、立派な「新しい」理論を立ち上げて、その理論に突っ走った結果、五十年後の大学生に「なんか重要な作品らしいけど、よくわからない。眠い。『ジャンプ』でも読むか。レポートはネットからコピペすればいいや」といわれるようなレベルまで異質さを極める作品を書いた方々はたくさんいる。ダダやシュルレアリスム、ビートニクといった通常の意味作用を徹底的に破壊する前衛的な芸術運動は、単純にいってしまえば既存のものに「反」をつけた運動だといえるだろう。それに対してブローティガンの作品は、「新しい」文学を創造しなければならぬ、というよくも悪くも「熱い」芸術的野心とは無縁である。むしろ、そのような野心に駆られる人々に冷や水を浴びせるような一歩引いた立場から、作品を書いているような印象を与える。柴田元幸が『アメリカの鱒釣り』は「反」小説というよりは「脱」小説といったほうがいい作品だというのを聞いたことがある。私はブローティガンの作品は脱・表象的なものだと書いたことがあるのでそれに意を強くしたのだが、それはさておき、「脱」小説的であるというのはどういうことだろう。上記のような印象が生まれるのは、おそらくテクストに現れるメタフィクション的な要素に由来する。


 今回訳出するのは、「木を叩く(その一)」である。



木を叩く(その一)


 子どものころ、はじめてアメリカの鱒釣りについて聞いたのはいつ、誰からだったろう。たぶん継父の一人からだ。

 一九四二年の夏。

 あのろくでもない酔っぱらいが鱒釣りについて話したのだ。しゃべれるときには、彼はまるで鱒が知性をもった貴金属であるかのような言い方をした。

 「銀のような」というのは、鱒釣りについて聞いたときの感じを表すのに適切な形容詞ではない。

 なんと言えばいいのだろう。

 おそらく鱒の鉄だ。鱒から作られる鉄。鋳造と熱処理のはたらきをする、雪でいっぱいの澄んだ川。

 ピッツバーグを想像してごらんなさい。

 建物や列車、トンネルを作るのに使われる、鱒からとれる鉄。

 鱒王アンドルー・カーネギー!


《アメリカの鱒釣り》からの返事:

 明け方に釣りをしている三角帽をかぶった人たちを、私は格別の楽しみをもって思い出す。


 この部分を訳出したのは、この短いパッセージにブローティガンの作品の多くに通底する「この作品は言葉でできている」というメタフィクション的な自覚が端的にあらわれているからである。語り手は幼い頃の体験を語るのに、適切な言葉を探している。人は「内容」を正確に伝えるべく、言葉を選ぶ。これ自体は当然のことだ。言葉の選択を間違えれば、「内容」は低速度の回線を通して劣化した音声のように、その輪郭を失ってしまう。ここに最終的に選択された言葉だけではなく、「言葉の選択」の過程自体を書き込むことは、作品が言葉によって作られた虚構であることを暴露する(ただし一般的に作家が言葉を巧妙に選択し、それが言葉で出来ていることを忘れさせてしまうようなリアリティを持った作品世界を構築するということと、訳出部分のように、あくまで作品内の語り手=「わたし」の言葉の選択過程が描かれていること──いうまでもなくこれも一種の巧妙な「選択」であるわけだが──とを混同してはならない)。ブローティガンのテクストが脱・小説的なのは、私たちに小説というジャンルに見られるルールを忘れさせるのではなく、このような仕掛けによってそのルールを思い出させるからである。

 

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