下から上に。いろんなものが流れていく。
ぼくは果てしなく落ちている。
虚空を果てしなく落ちている。
などというのは大ウソで、ただ単に、橋から飛び降りたにすぎない。
飛び降りるとき、注意して、そうっと、足の先からゆっくり踏み出したせいで、頭が上で足が下。気をつけの姿勢で落ちていく。なんてハメになってしまった。これは君の理論上整合性のある状況なのか?
橋の下には川がある。すべての橋の下に川があるとは限らないが――あるいは線路かもしれない――それはともかく、ぼくはどんどん川にむかって落ちている。
だから、下から上にいろんなものが流れていく。
たとえば愛しい妻と娘の笑顔とか。
たとえばセクシーな裸の天使たちが死にゆくぼくをやさしくつつんで舞い踊る姿とか。
なんてね。
ウソついてごめん。妄想でも幻想でもそんなもの見えてない。見えてないとしても、だ。今まさに死につつあるというのにまったくなんて安いんだろう、オレの想像力。
しかたない。ぼくはまだ十四才の中二なのだ。走馬灯を美しく飾れるだけの経験も積まず思い出のたくわえもないうちに、こんなことになってしまった。
それでもぼくは、最後の滑空を楽しむ今この時が、人生の絶頂だと思っている。たまらなく気持ちいい。
ぼくはずっとこの日のことを――人生最後の日のことを思いつづけていた。
思いつめていた。
夢見ていた。
きっと生まれ落ちたその日から。
いや、もっとずっとずっと前、母の胎内でプカプカ楽しんでいたころから。
父の精子として流れ込んだときから。
母の卵子として運命的な結合を待ちわびていたころから。
当該卵子への果てしない連鎖として母の初潮のあったその日から。
母の母の母の初潮のその日から。
宇宙の虚空をただよう……おっといけない、調子に乗りやすいのはぼくの悪いクセだ。
ぼくはいまも、この瞬間のために生まれてきたのだと信じて疑わない。できればイメージ通り頭から落ちたかったところだが、あまりわがままをいってもいけない。風を切って全身を投げだす感覚はわるくなかったし、風に切られて未知の終わりに向かって突っ込んでいく感じも悪くない。
ぼくは、ただ死の訪れるのを待ち呆けているだけの軟弱モノではない。公園の片隅に居を構える哲学者になるまえに一個の実践者として足を踏み出したし、それに、来るかどうかも分からないものを水平的に待っているだけでもなかった。水平歩行運動と垂直落下運動のあいだにはやはり座標軸を九十度回転させた以上の何かがあるはずだ。じっさい落ちているぼくが言うのだから、まちがいない。
ぼくの行く先には最後がある。
それを忘れることはできない。
……などとかっこうをつけてみても、どうもしっくりこないね。こんなシチュエーションなのだから、ウソはなしにしよう。そうだ、死の意味を悟るには、中二のぼくはどうも若すぎるのだ。
からだは大人、でもこころはこども。
そんなあやうい境を行き来するぼくたちは、ときとしてその行きつく先も知らないままに夢中になって終わってしまう。
オワタ!
では済まないところまでいってしまう。この多難な一時期を一部運良くやり過ごしたやつらだけが、何かになることができるのだろう。安定したX、つまり大人というモノに。
話をちょっとだけ元に戻そう。まあ大して脈絡もない話なので、断る必要もないかも知れない。流れるままに行けばいいんだろ?
彼女が××と言ったから、おれは落下しようと思ったんだ。『母の母の母の初潮のその日から』ってのは、もちろんウソだよウソ。色恋沙汰が死の理由になるのは、ぼくたちくらいのおとしごろには普遍的真理に見えてしまうわけで。
橋の上にソレと来たのがいつのことだったかよく覚えてはいないけれど、――ぼくがどれだけのあいだ落ち続けているか考えてもみてほしい――ソレはぼくのとなりで欄干に軽く手をのせ、とても悲しそうな目をしてうつむいていた。だからその瞳にはぼくではなく、流れる川が映っていた、のだろう。(じっさい人の瞳に映っているものなんて、そう簡単に識別できるものではない。まあ、ふたりのあいだにそれくらいの距離があったということは認めざるをえないけどね。)仮にそうだとして。
ソレの体全体が、その目にとりこんだ川の流れのように、ゆるやかに、ではなく、クラクラするほどまばゆい変化を見せていたんだ。ソレはぼくの母のようでもあり、おさない妹のようでもあり、あるいはかわいい天使のようでもあった。まるでぼくの欲望の鏡のようだった、というには、それでいてもっと強い実在感があったなあ。君だったら、それを『距離』と呼び換えるところかな? ぼくだったら、靴下のほつれとでもいいたいところだ。
橋の上の最後の逢瀬、とでも呼んでみようか。
ぼくが、「もうそろそろかえろうか」といおうとしたら、
ソレが先に、「もうそろそろかえろうか」といった。
そういってとつぜん泣き出したかと思ったら、ウオェッオェッと嗚咽を漏らしているのはぼくのほうだった。
生きているうちも死んでからも二度と会うことはない。
(ぼくは死後の世界を信じない)
そのことがわかったとたん、涙がとびだした。
悲しかったというよりは、怖かった。
体の底からふるえとともに、涙があふれる感じだ。
そんなぼくを目の当たりにしたことで、「もうそろそろかえろうか」、というのはなかったことになった。
だまったまますることもなく、ただふたりでいる時間をひきのばすためだけにそこにいた。
ザアアアッーーーと川の流れる音をぼくなりに区切って、それで三千六百回数えたとき、「そろそろいこうか」、といったのは、やはりぼくではなかった。
歩きだして気づいたことだが、ぼくはもう全身の力が抜けきってしまったようで、何が起きてるのかもよく分からず、半歩後ろをついていくだけだった。
するとぼくの手がとつぜんあたたかいものに包まれて、ぼくはまるで、母に引っ張られて泣く泣くおもちゃ売り場を後にしたときの気持ちを思い出したようで……あれはぼくの人生でいちばん美しい瞬間だった。
ぼくは落下を続ける今も忘れられないけれど、ソレはきっともう自分のしたことを覚えてはいないだろう。風の便りに、大好きなカレシを見つけたと聞いた。
さて、と。ところでおれはいつまで落ち続ければいいのかね? 親友たる君の予測では、君たちの世界ではぼくが落ちるのは一瞬のこと、ぼくの世界ではぼくは永遠に落ち続けねばならない、ということだった。異なる時間軸上に生きる以上、ぼくはもう君たちとは別世界の人間といってもいいのかもしれない。つまりぼくは、橋から飛び降りた瞬間、そしてのち川にドシンと落ちる瞬間、二度死ぬということになる。できれば君の理論完成に向けての材料として提供したいところだが、君と連絡を取ることはかなわない。君がもう少し早く、異世界間の通信機器を発明してくれていれば。
中絶。
途絶。
回復。
これも君の意識との関係の錯覚にすぎない。とすれば、ぼくは君たちの世界で一度でも誰かとつながることができたといえるだろうか?
そんなことは一度もなかった。
というのは、ひとりきりで落ちるぼくの、いっときの感傷に過ぎないのだろうか? どうせなら、もっと感傷を続けてみようか? ソレをみち連れにしたなら、ぼくたちはずっといっしょにふたりで落下できただろうか? 最後の逢瀬のときぼくは、二人で落ちるチャンスを無言のまましかしずっと狙っていたのではなかったか? ソレと一緒なら、ぼくはもっと水平的な落下をのんびり楽しめたのではないか? それはもう落下などと呼べる代物ではなくて、ただ単純に末長くお幸せに、ということではないか? 最高の人生じゃないか?
そうだ、ぼくは彼女を愛していた。
「真の芸術家というのはね、真の人生の観察者のことなんだ。仮に、なんとも憂鬱なトーンで連載をはじめてしまった小説家がいるとしよう。そうだな、たとえば女子高生が学校のクソまみれの便器に産み落とした赤ん坊を絞殺する、衝撃的な幕開けというわけさ。ところが、だ。彼は人生をつぶさに表現しようとする。そのために人間をますますよく見る。そうするうちに、やはり人間というのは驚異的な神秘以外のなにものでもない、という感動に撃たれるんだ。そうして気がつけば、子殺しの頻発するこの世界に向けて、生命賛歌を歌い上げている。彼こそ真の芸術家さ」
そうだね、君の言うとおりだった。
おちるおちる。もう目の前に。
川面が美しく暁を反射する。
そんな終わり方はぼくの望んだもんじゃない。
遺言。オレが中二だなんて、もちろんウソだよウソ。