あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/04/25

「報われない想い」by 愛子

投稿者 せんちゃん   4/25/2010 0 コメント
人は何の為に生まれてきたのか。

これは人間にとって永遠のテーマであり、統一された明快な答えは無い。

個々が人生を歩んでいく過程で見つけていくものだからだ。

感情の多様な色を知りながら答えを探していく。

その過程で人の優しさに触れ、その存在を肯定したくて、まっすぐでひたむきな感情を向ける姿は純粋で美しい。

けれど本来、人は孤独な生き物だ。

生まれてくるとき、死んでいくとき、いつ何時もその行動を自身のものとして感じられる人は本人しか居ない。

どんなに感情移入したとしても完全理解は存在しない。

それを知りながらも自分の想いを相手に理解して欲しいと願う。

認めて欲しくて精一杯伝えようとする。

誰でも無意識に行っていることだ。

私が人身事故などのニュースを見て「切ない」という感情を抱く理由はそこにある。

ニュースを耳にした私は、まず自分の大切な人たちのことが脳裏に浮かぶ。

そして、普段の楽しい会話、笑顔、温もりが生々しく思い起こされ、その人たちの計り知れない闇を少しでも取り除けているのか不安になる。

人の為に出来る事の幅の狭さのようなものを感じてしまう。

おそらくみんな分かっていることだ。

全ての人が自分を理解してくれる訳ではないし、好意を抱かれる訳でもない。

少数でも自分の居場所を創ってくれる人が居ればいい。

それすら居ないと感じた場合、人に向けられていたエネルギーがマイナスに作用する。


その報われない想いが存在することが切ないと感じるのだろう。

人にはそれぞれ個性がある。

自分にはないものを持っている人に魅かれ、あらゆる化学変化が起こる。

世界はその化学変化によって構築され、新しい時代が始まるきっかけにもなる。

けれどその個性が時には仇となり、外に追いやられる人が居るのも事実だ。

その悲しき矛盾の下で、人は多種多様な生き様を晒していく。

すべての人の傍に暖かく見守ってくれる存在が一人でも居ることを儚くも願う。

ヘンタクロース

投稿者 Chijun   4/25/2010 0 コメント
「クリスマスというものを馬鹿にしてはいけません。これは、子供たちが何歳でサンタクロースの存在を否定するに至るかを棒グラフにしてまとめたものです。確かに近頃の子供たちは幼くしてサンタクロースの存在を否定する傾向にありますが、だからこそ逆に、今我々の信念と努力が試される時なのです。自らの聖なる職務に自覚と責任を持ち、皆さんの役目を全うしてください」

そういって教師が教室を去ると、3–B組は一気に乱れました。女子生徒たちは男子生徒たちの見ている前でサンタクロース・コスチュームを器用に脱ぎだし、下着を見せる一暇も与えぬ間にハラジュクで買った他校の(あるいは実在などせぬ学校の)カワイイ制服に着替えています。
「カラオケ行こカラオケ」
「今日は私がM歌うんだからね。絶対先に歌っちゃだめだよ」
「それよりさーケーキ食べたくね?」
「え、カラオケ? 俺らも一緒に行くー」
「えマジ? ちょマジ? おれ『いつかのメリークリスマス』歌いてえ」
「ったく、縁起でもねえなあ。テンション下がるからやめてくれよ」
「だいじょぶだって。あれはサンタさんじゃなくて旦那が嫁にプレゼント買ってそれで二人幸せよ、って歌なんだから。俺たちより旦那のがいい!って思ってもらえりゃ、そっちの方が好都合じゃね?」
「おいヘンタ、たまにはお前も来いよ」
「やめとけって。よりにもよって24日に、そいつがついて来るわけねえだろうよ」

そういって男子生徒が見下ろした先に、背を小さく丸めて机にしがみついたままの男が居ました。皆にヘンタクロース、ヘンタクロースと蔑まれるこの男はしかし、サンタクロース育成学校たるこの学び舎で、その精神を最も尊敬されてしかるべき男のはずだったのです。というのも彼は、生徒だけではない、教師も含めて誰一人己が職務の聖性など信じるもののなくなったこの学校で、ただ一人世界中の子供たちのサンタクロースを求める清心を信じ続けているものなのです。

教室が静まって数刻の後だれもいなくなったのを脇目に確認してからようやく、男はゆっくりと動き出しました。誰も気づいてくれるものはありませんでしたが、昨晩自らアイロンをかけてきたサンタクロース・コスチュームを型通り身にまとった男は、教室の後ろの方にあるロッカーからプレゼントの詰まった白袋を取り出し、いざ教室を出ようとしたところでつまずいてこけてしまいました。しかし学校には、彼の不様を嘲笑するものすら残っては居ませんでした。

何度も落第してようやく手に入れた運転免許が制服の内ポケットに入っているのを確認すると、ヘンタは「レッド・ノーズ」と名付けられたトナカイの鹿房にやって来て、自分の足ほどの太さのある縄でトナカイと橇とをきつくしばりました。
「やあ、レッド・ノーズ。調子はどうだい? ただの練習じゃない、今日は本番なんだ。きっとうまくやってくれよ」
「・・・・・・」
「君は落ちこぼれなんかじゃないぞレッド・ノーズ。そのぴかぴかの鼻は暗い夜道でよく光るからな」
そのときトナカイが厳しい視線を投げて来た気がして、ヘンタは慌てて橇に飛び乗り、勢いよく鞭を降って叫びました。
「ハイドー!」

広い宙にひとりぼっちになるとヘンタはがぜん元気が出てきました。勢いよくトナカイに鞭をふるってはハイドーハイドーと高く声を上げます。しかし怠惰な友人たちに仕事を押し付けられているヘンタには、夢中に気持ちよくなっている暇などありません。どんどん白袋のプレゼントを配って回らなければならないのです。ヘンタは灯りを頼りに狙いの家を定めるとトナカイを急降下させ、よしいくぞ、と思ったところで急ブレーキをかけました。というのもその家は鉄筋コンクリートでぐるりと囲まれた丈夫な家で、ヘンタの入る隙などなかったのです。しかも窓から覗いてみたところ子供たちは既に親からプレゼントを手渡されていて、満面の笑みを浮かべているではありませんか。一家の幸福の邪魔をしてはいけない、そう思ったヘンタは、手早く次の家を探すことにしました。
二番目の家は一軒家でしたが頼みの煙突もなく、さてどこから入ったものだろうかとヘンタは家のぐるりを物色しだしました。最近ではサンタクロースを泥棒と間違えてしまうおっちょこちょいな警察も少なくありません。ようじんようじん、そうつぶやきながら家を回っていたヘンタの目に入って来たのは、お財布から一万円を抜き取って子供に差し出すお母さんの笑顔でした。それを受け取る子供もまた、顔には満面の笑みを浮かべていたのでした。

「こんなことじゃだめだこんなことじゃだめだこんな・・・・・・」
そうつぶやくうちに、トナカイを走らすヘンタの目からは知らず涙があふれ出ていました。町の人たちにまぎれて今ごろはカラオケ・ボックスで陽気に歌い踊っているであろう友人たちが言っていたように、やはり、もうサンタクロースを待っている子供など居ないのでしょうか。しょせんヘンタはただの変わり者で、彼の信念など独りよがりにすぎないのでしょうか。もう誰もサンタクロースを・・・・・・
「ヘンタ、早く指示をくれ。さっさと次の家に行こうじゃないか」
レッド・ノーズが声をかけてくれるなど滅多にないことなので、ヘンタは一瞬どこから声が出ているのかとびっくりしてしまいましたが、しゃべっているのはやはりレッド・ノーズです。
「別にお前のことが好きなわけじゃないが、お前のやっていることは間違っていないと思う」
レッド・ノーズはまっすぐ前を向いたままそういうと、いつでも出発できるぞと言わんばかりに、夜目に美しく赤々と輝くハナから熱い息を吹き出します。
「そうだ、ぼくはまちがってない」
ヘンタはもう一度自分の神聖な職務を心静かに確かめたように強いまなざしを取り戻して、レッド・ノーズの尻を叩きました。

三番目の家に近づくにつれ、屋根からにょっきりと空に向かって突き出している物体が、ヘンタの目に入りました。
「あれは!」
ヘンタは興奮を抑えきれません、そう、それは今はあまり目にすることも出来ない、昔ながらの煙突ではありませんか。ヘンタは煙突のぎりぎり真上までトナカイを走らせると、見事な垂直を描いて落ちるように煙突の中へ突っ込んでいきました。ところがその煙突の長いこと長いこと。真っ暗な一本道をどれだけ進んでも、いっこうに煙突を抜けられそうな気配がありません。暗い、冷たい、じめじめした煙突の中でヘンタは恐怖に駆られて何度も引き返したいと思いましたが、折り返せるだけの道幅の余裕もなければ、トナカイにも全くその気はないようで、今は乗り手の気持ちなど全く無視してずんずん下っていく勢いです。

ようやくトンネルを抜けるとそこは雪一面の野原で、少し離れたところにぽつぽつと建つ家には驚くことに、すべて煙突がひょっこりとついているではありませんか。まるでおとぎ話に出てきそうな幻想風景に見とれているうちにヘンタは橇を止めることもすっかり忘れて、そのまま雪の中に墜落してっ込んでしまいました。それからどれほど時が経ったでしょうか、ヘンタがようやく顔を上げるとびっくり、周りを大勢の人たちが取り囲んでいます。橇を失ったヘンタはすっかりいつもの臆病風に吹かれて、背を丸めて雪に顔を埋めてしまいました。

「イヨッホーイヨッホー」
男の声が高く上がると、それに続いて
「ソーレイヨッホーイヨッホー」「ソーレイヨッホーイヨッホー」「ソーレイヨッホーイヨッホー」
と人々が大合唱のように大きく声を揃えて歌い出しました。ヘンタはいよいよおびえて雪に穴を掘らんばかりの思いでしたが、よくよく聞いてみると人々の声はとても陽気で、どうやらヘンタを歓迎している。それどころか待ちに待っていたといわんばかりのようにも聞こえます。ヘンタにはわからない言葉でしゃべっていたものの、どうやらそうにちがいない、とヘンタには信じられたのでした。幼い頃から蔑まれ続けて来たヘンタなのに、大勢の人々が彼の到来を祝福しているのです。このままではいけないと思ってヘンタも勇気を出して顔を上げ、にっこり笑おうと努力してみたのですが、つり上がった唇の先はプルプル震えてしまうし、目元には変な力が入ってしまうしで、どうにも奇妙な笑顔が出来上がってしまいました。
そこへたくさんの村人の中から豊かなひげを蓄えた男が近づいてきて、突然ヘンタの前にひれ伏して顔をどすんと雪の中に突っ込み、ヘンタの前に両手を差し出します。何のことやら分からずにヘンタの引きつった顔はさらに引きつり、すっかりかたまってしまいましたが、慌てて気づいたかのように
「メリークリトリス!」
と声を限りに叫ぶと、雪に突っ込んだ時も必死につかんで離さなかった袋の中から、プレゼントを取り出そうとしました。ところが、袋の中はまるで空っぽで、ヘンタがグルグル手を引っ掻き回しても、何も出てきやしません。ヘンタの顔はいよいよおかしく引きつって、ついには笑い顔だか泣き顔だか分からないほどになってしまいました。村人たちの中数人首を傾げ出すものが居て、近くの人と何やらこそこそ話をはじめだすものも出てきました。そして次の瞬間には最初男がやったのと同じように、諸人こぞって顔をどすんと雪に突っ込み、ヘンタに向かって手を差し出してきました。
「クリ、クリ、クリクリ、ギャーーー!!」
と叫ぶとヘンタはとうとうその場に倒れ込み、目をクルクル回して気を失ってしまいました。

———

どうもヘンタが学校に出てこない、登校拒否? しかしあのヘンタが? 不器用でも熱心に人一倍の努力だけは惜しまなかったあのヘンタが? やっぱりあのとき無理してでもカラオケにつれてった方がよかったかな?
そんな噂が生徒たちのなかでもてはやされたのもつかの間のこと、いつも通りの自堕落な時間がサンタクロース育成学校にすぐに流れ出しました。ヘンタのことを思い出すものなど、もう誰一人ありません。






2010/04/18

人身事故 by愛子(ゲストライター)

投稿者 せんちゃん   4/18/2010 0 コメント
自殺による人身事故のニュース。

これに対しての世間の表面的な反応は常に否定的なおかつ攻撃的だ。

「人に迷惑をかけるな」、「死にたいのなら一人で死んでくれ」。

自分と関わっている人ならば感情移入もしやすいが、大半が全く関係の無い人によって引き起こされるのだからそれもそうだ。

一切面識が無い他人に、どうして自分の人生の貴重な時間の一部を乱されなければならないのか、そう思うのも無理は無い。

けれど、私は最近この類のニュースを見る度、人間の儚さをみてしまう。

その儚さというのは人の命が消え行く様ではなくて、死の手段として「多くの人を巻き込む」という選択をしたところにある。

それこそ、命を絶つ方法はごまんとある訳で、なぜ最期に知りもしない他人とかかわりを持ちたいと望んだのか。

電車への飛び込みだけではない。

かつて世間を賑わした秋葉原の事件の犯人も多くの「関係ない人」を道連れにしようとしていた。

どんな形でもいいから人と関わりたくて、相手にされたくて、そんな想いが届かずに負の方向へ倒れ込んでしまうのか。

様々な事件をニュースで知ると、いつもその人たちの切なる想いが私の中をよぎる。

人との関わりを絶たれてしまった誰かが誰かに一方的な感情を寄せる。

独りが嫌で、どんな状況でも誰かとの居場所を求めて人の想いは彷徨い、渦巻いている光景がどうしても頭に浮かんでしまう。

尽きない感情の矛先は誰に向けられるか分からない。

2010/04/15

親しい間柄での丁寧語使用について

投稿者 じん   4/15/2010 0 コメント
 友人同士であるH、D、K、S、計4名の会話について、言語の対人関係の確立や維持・調節にかかわる働き(ポライトネス)の観点からの会話分析を試みる。全員23歳で、全員男性である。4人はコーラスグループとして活動しており、これから分析するのは、練習中、ある曲を歌い終わった直後に反省を行い、その後雑談に移行する場面である。Hはグループのリーダーである。

 各行左の番号はデータのライン番号を示す。その右の大文字アルファベットは発話者のIDである。(0)は前の発話との間にポーズがないことを示す。[ ]は[ ]とのオーバーラップを示す。[1 1]のように番号が示されたものは、同じ番号で示された部分とのオーバーラップを示す。(( ))は注記を示す。..はポーズを示す。直後に( )で示される場合があるが、これはポーズの秒数である。&は発話が途中で妨害され、次の&で再開したことを示す。

01 H: えーと、歌詞だね。
02 D: はい、そうです、完全に。
03 S: (0)そうですね。
04 D: (0)うん。
05 H: 音はこれ以上はすぐには多分 [1 よく、 1]
06 D: [1 まー 1]良くならない--
07 H: [2 良くならないと思うよね。 2]
08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
09 D: [3 まー、若干 3]俺、自分で問題ある所は[4 押してったよ。 4]
10 H: [4 俺も 4]"slide rule is for"を忘れた。
11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
12 H: ま、それは。
13 D: ま、K((愛称使用))、あのー、..「チョキン」で。
14 K: そだね、切るんだよ[ね?]
15 H: [うん。]
16 D: そうなんだよね。
17 H: ((歌う))"slide rule is for"
18 D: ..歌詞が出ないしー。
19 D: [下っていた部分は大体分かっている。]
20 K: [なんか、う、歌いづらいな。]
21 S: 歌いづらいよね、ちょっとー。
22 K: ...(9)ねー、ここさ、ハ、 大悟、ね、ハミングの方が良いの?
23 D: いや、「ウー」でいい[7 よ 7]。
24 K: [7 うー 7]って、い&
25 H: うん、[8 言っていい。 8]
26 K: &[8 言っていいの? 8]

 オーバーラップが非常に多く、おおむね非敬語での会話である。前の発話との間にポーズがない発話や、複数人で1文を構築する共同発話も見られ、協調的で共感の強い、親密な会話とみてよいだろう。オーバーラップ、非敬語、ポーズのない発話、共同発話は共感的配慮から相手との近接化を図るポジティブ・ポライトネスの表現である。Line 05-06、Line 24-25で見られる共同発話は、受け継ぐ側の発話がどちらもオーバーラップで始まっていて、強くポジティブ・ポライトネスが表現されている。

 その一方で、敬避的配慮から相手との遠隔化を図るネガティブ・ポライトネスの表現も見られる。Line 05では「良くならない」ことを指摘することに相手の「他者と一定の距離を保ちたい」という欲求を侵害するリスクを感じたために、曖昧な表現になったものと思われる。係助詞「は」が繰り返し使用されることで文の主題が曖昧になり、さらに「すぐには多分」という表現で言語的な距離も長くなっている。また、核となるべき「良くならない」は、Hの発話では言いさし表現となり、これは敬避的配慮をさらに進めた言及回避、ほのめかしのストラテジーである。

 冒頭部で丁寧語が見られるのが興味深い。丁寧語は聞き手をソト待遇するネガティブ・ポライトネスの表現であるとされる。これは話者の関係や、全体の発話の親密さにそぐわない表現である。丁寧語は、会話の後半、雑談に移ってからも見られる。

 @は笑い声を示す。発話が@で挟まれた場合は、笑いながらの発話である。

27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
28 S: [9 @@@@@ 9]
29 K: ((楽譜を見ながらの独り言))[10 そか 10]
30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
31 H: はまっちゃいました。
32 D: DVDありますよー。
33 S: あれ((DVDではなく、バンド自体を示す))やばいよ[11 ね 11]
34 H: [11 買いましたか。 11]
35 S: ライブ聴きたい、[12 ライブ。 12]
36 D: ((Line 34への反応))[12 え? 12]
37 H: DVD。
38 D: (0)俺、だってライブのときに買ったもん。
39 H: あ、そかそか[そか。]
40 D: [うん。]
41 S: 貸して? @@@
42 D: いいっすよ。
43 H: やっぱ”Feel It In The Air”((曲名))はやばいよね。[@@]
44 S: [あれ]やばいね。あれも、できたらやりたい。 @@@
45 H: @@ ま、あれは割とアカペラっぽいからね。
46 S: うん。((歌う))”I can feel it comin’ in the air tonight, oh no And Ive been waiting for this moment for all my life, oh Lord, oh no.”
47 H: うす、..行きますか、..もう一発。
48 K: ..もう1回行くー?
49 S: (0)OKー。
50 H: (0)もう一回だけ行っとこうか。
51 S: (0)あいあい。
52 H: (0)歌詞ね。
53 S: ..もう[多分]&
54 H: [歌詞。]
55 S: &大丈夫。
56 H: OK、行こうか。[13 “slide rule is for”。 13]
57 D: [13 ま、正直 13]&
58 K: これあるよー、[14 歌詞ー。 14]
59 D: [14 あの 14]一回目は[15 分かるん 15]だけどー、
60 K: [15 @ 15]みんな、はい。
61 D: うーん、けど[2巡目に入ると、「うーん、わからない」って]なるよね。
62 H: ((歌う))[“slide rule is for”]
63 K: ((歌詞の文字が小さいのを見て)) @この、@[@ 豆粒のような。@]
64 S: [2番目一回しか歌わないしね。]
65 H: @そうそうそう。@

 丁寧語及び丁寧な表現が現れているのは、Line 02、03、08、11の練習の反省部分、Line 27、31、32、34、42の雑談部分、そしてLine 47の練習再開を促す部分である。話者別にみると、Hが4回、D、Sが3回、Kが0回で、H、D、SとKの間には明らかな差ができた。発言権をとった回数はHが22回、Dが18回、Sが15回、Kが10回で、発言回数の差以上に、丁寧語の使用の差は大きいようだ。このデータを見る限りでは、Kは、親しい関係にある者同士の会話において丁寧語を使用するというストラテジーを持っていない。Kの発話は全て練習に絡むものであり、Line 27-46の雑談には参加していない。会話を雑談と練習に分ければ、丁寧語は練習に絡む内容の発話に6:4で若干多く現われている。

 以下に丁寧語が現れた個所を抜き出す。

(1)     01 H: えーと、歌詞だね。
       02 D: はい、そうです、完全に。
       03 S: (0)そうですね。
(2)     08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
(3)     11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
(4)     27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
       28 S: [9 @@@@@ 9]
       30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
       31 H: はまっちゃいました。
       32 D: DVDありますよー。
(5)     47 H: うす、..行きますか、..もう一発。

 練習に絡む内容に若干多く丁寧語が用いられている。雑談と比べれば、相手との関係に距離をとるのも理解できるが、使用頻度に大きな差はないため、他にも距離をとる理由があると考えるべきだろう。

 丁寧語の聞き手ソト待遇機能を考慮して、ウチ/ソトを分ける基準を考えてみる。(1)、(2)、(3)の練習の反省の場面では、ミスを認めた者が丁寧語を使用している。ミスを指摘した側と指摘された側、あるいはミスを認めた側と認めていない側という区別を反映していると見ることもできるだろう。(5)も練習に絡むものであるが、こちらは意識が練習に向かっているものと向かっていないものという区別といえる。(4)では、あるバンドに”はまった”者と、もとから好きだった者という区別を考えると、ウチ/ソトの区別が説明できる。丁寧語を使用しているのはもとから好きだった者である。丁寧語の使用により、新たに”はまった”ものをソト扱いし、揶揄するような印象を受ける。雑談に参加していないKは考えないこととする。

 相手をソト待遇する側は、ウチ/ソト関係からみると、ウチ側となる。丁寧語が内輪であることを示す標識としても機能しているということになり、このデータでみられる親しい間柄での丁寧語使用は、ポジティブ・ポライトネスの表現であるということができる。

 丁寧語の使用をKはこの丁寧語使用というストラテジーを使用していない。このデータを見る限りでは、このストラテジーをもっていないように見える。

 もう1点、遠隔化の理由として、社会言語学的観点から、中村(2007)の、新しい「男ことば」を挙げることができる。「上下関係にもとづいた『おれとおまえ』の密着した親しさは、かっこ悪」いため(中村 2007, p.68)、「若者のような上下関係が少ない横並びの集団の中では、互いの『親しさ』を調整する言語資源が必要」となり、〈距離〉の表現である敬語が使用されたと考えられる。なお、中村(2007)では〈距離〉の表現としての敬語は敬語の用法の変化であるとされているが、滝浦(2008)からすればこれは当てはまらない。

 中村(2007)の観点では、参加者が全員男性であることを重く見て、セクシャリティとジェンダーに絡めた議論を展開するところであるが、ここでは深く立ち入らない。簡単に触れておけば、「男らしさ」にとって異性愛であることは重要な要素であり、同性愛は嫌悪される。そのためあらゆる手段で同性愛者とみなされることを避けなければいけない。〈距離〉の表現である敬語はこのための手段となりうる。

参考文献

中村桃子. 2007. 『〈性〉と日本語 ことばがつくる女と男』 日本放送出版協会
滝浦真人. 2008. 『ポライトネス入門』 研究者

2010/04/12

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)

投稿者 福田快活   4/12/2010 0 コメント
チャック・パラニク(チャック・パラニューク)というアメリカの作家しってる?って聞いても「はあ?」がふつうの返事。一般的知名度なんかないに等しいんだから「はあ?」は不思ギでもなんでもない。でもこう言えばわかってくれる人はけっこう多い↓

「『ファイト・クラブ』って映画あったじゃん?99年くらい。ブラピとエドワード・ノートン主演でほら喧嘩って楽しい!ってやってるやつ」
「ああ、あれ!あったあった」
「その原作者」
「ああ、そうなんだ。へーー」

「わかってくれる」って言っても返事は「へーー」で、それはそれでしょうがないんだけど(だってそれ以上何を求めようか?)、この人はとってもいい作家なんだ。へたな万言を尽くすより、、、で彼のインタビューとか取材物をあつめた『non ficition』ってステキな本がある。巻頭の言、みたいなやつが作家パラニクのスタンスを明快簡潔に表してるんで、ちょっと翻訳してみるから読んでみて。「ちょっと待ってよ。その前にパラニクとかパラニュークとか併記されてるのはなんで?」ってツッコミもあるよね。「併記」とかむずかしい言葉つかうね?とおれも自分ツッコミ入れたくなるけど、日本での慣用はパラニュークなんだ。でもこれはただの英語音で本人は明確に「pɑːlənɪk」って発音してるんだから片仮名にするならやっぱ「パラニク」でしょ?パラパラなお肉みたいでパラニクの姿勢にぴったしだし。。。

では本編のはじまりはじまりー

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
もしまだ気づいてないなら、ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」についての本だ。

ある意味それはアメリカンドリームの逆:すっごい金持ちになって脱けだすんだパンピーから、高速にいるあんだけの人、もっとひどいかも、そう通勤電車。 ヤ、ドリームはおっきな家だ、どっか独り離れて。ペントハウス、ハワード・ヒューズみたいに 。山頂の城、ウィリアム・ランドルフ・ハーストみたいに。ステキな隔離されたねぐら、きみが気に入ったパンピーだけ招待すりゃいい。きみがコントロールできる環境、争いと痛みから自由――そこできみは「支配する」。

それがモンタナの牧場だろうが、10000枚のDVDと高速インターネットつきの地下室だろうが、これだけは期待できる。そこにたどりついたら、独りだ。寂しい。

もう十分に惨めになって-ファイト・クラブマンションの語り手みたいに、本人の美しい顔に疎外された『インビジブル・モンスターズ』の語り手みたいに-初めてぼくたちはステキなねぐらを破壊し、自分自身をより大きい世界に強制送還する。いろんな意味でこれは、小説を書く方法でもある。考えて調べて。独りで過ごして、きみがすべてをコントロール、コントロール、そう、コントロール!するステキな世界をつくる。電話は鳴りっぱなし。メールは積み上がってく。自分のモノガタリ世界のなかで過ごすんだ、破壊するときまで。そうして他の人と過ごすためにもどってくる。

もしきみのモノガタリ世界がじゅうぶん売れたら、ブックツアーにいける。インタビューされる。ほんとうに人といっしょにいれる。たくさんの人。人、人、ヒトに病んなるまで。脱走する夢に餓えて、逃げたくなる・・・

また違うステキなモノガタリ世界へ。

で、またはじまる。独り。いっしょ。独り。いっしょ。

たぶん、これを読んでるならこの円環がわかるはず。本を読むのは集団活動じゃない。映画とかライブにいくのとは違う。スペクトルの孤独の端なんだ。

この本の中のモノガタリすべては「他の人といっしょにいる」についてだ。ぼくが他の人といっしょにいる。あるいはひとびとがいっしょにいる。

(中略)

これぜんぶノンフィクションのハナシ・エッセイで、小説のあい間に書いたんだ。ぼく自身の円環はこうだ:事実。フィクション。事実。フィクション。

書くことでヒクことのひとつは「独りだ」だ。まさに「書く」部分。孤独な屋根裏のとこ。大方の想像ぢゃ、そこが作家とジャーナリストの違い。ジャーナリスト・新聞記者はいつも急いでて、目を皿にして、人と会って、事実を掘りおこしてる。モノガタリを料理してる。ジャーナリストは人に囲まれて書いてて、いつも〆 切だ。混んでて急かされて。刺激的かつ楽しい。

ジャーナリストは書いて、きみを大きな世界につなげる。パイプだ。

でも作家、作家は違う。フィクションを書く人は誰でも-人は想像する-孤独だと。フィクションはきみをいま1人の人間の声にしかつなげない、そう思えるからかもしれない。読書はひとりですることだから、かもしれない。それは「過去」で、ぼくたちを他の人から隔てるように思われる。

ジャーナリストはモノガタリを取材する。作家はモノガタリを想像する。

笑えるのは、小説家がこの単一の孤独な声をつくるためにどれだけ多くの時間を他の人と過ごさないといけないか、知ったら驚くから。この隔離されてるかのような世界。

ぼくのどの小説も“フィクション”とは呼びにくい。

ぼくが書くほとんどの理由は、「書くこと」がぼくとほかの人を週に一回いっしょにしてくれたから。木曜の晩に、出版された作家-トム・スパンバウアー-に教えられるワークショップで、彼の台所机を囲んで。当時ぼくの交遊は手近さにもとづいてて:隣人か同僚か。その人たちを知ってるのはただマア、毎日隣に座るハメになってるからで。

ぼくの知ってるいちばんオモチロイ人、イナ・ゲバルトは同僚を“空気家族”って呼んでる。

手近の友達の問題は、引っ越しちゃうこと。辞めるか馘になること。

書くワークショップってのに出会うまでは、情熱をわかつ友なんて知らなかった。書くこと。映画。音楽。理想を分けあった人もいた。パーティー(みんな)で出かける冒険、それがあれば、きみが大切にする曖昧で漠然とした芸を大切にする人と一緒にいられるんだ。こおゆう友情は仕事とか立ち退きに左右されない。 書いても一円にもならない時代に毎木曜のくっちゃべりは――ぼくが書き続ける唯一の動機だった。トム、スージー、モニカ、スティーブン、ビル、コリー、 リック。ぼくたちは闘い、讃え合った。それで十分だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
実際はもっと長いんで、あんま一度につめこむのもナンだから、つ・づ・く

2010/04/05

車内妄想

投稿者 Chijun   4/05/2010 0 コメント

 午前8時21分発、埼玉から東京方面へ向かう上り列車に乗ると、Kは本を取り出し、アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。眼下には、眠る人のうなだれる頭が三つ並ぶ。左右には、横目に吊革を握る人の袖口から覗く白い腕首が見える。電車は混雑していたが、声を出すものはいない。Kの耳には耳鳴りだけが響く。目的地に着くまでに、電車は7つの駅に停車する。

――1年浪人、1年留年。大学を卒業したのが、24歳。誕生日は4月3日だから、1ヶ月経たないうちに25歳。それから2年。この2年で、自分は何をしたか? 作家志望のフリーター君、君の仕事一覧をプリント・アウトしてみたまえ。たいした時間もかからずに、ほとんど真っ白のA4用紙が吐き出されることだろう。……

 Kはズボンのポケットの上をなぞって触感で探り、アイポッドの再生ボタンにあたりをつけて圧力をかける。少しの間を置いて馴染みのない聖歌が女声合唱のア・カペラで歌われるのに続き、皺枯れた、だが軽みのある男声の、英語の朗読が流れ出す。Kは手にした翻訳書の該当部分を追っていく。

 Kを乗せた電車が2つ目の駅に停車する。雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認すると、アイポッドから流れ出る朗読はそのままに、Kは本から目を外す。

――よし、今日はあのじいさんにしよう。……雪崩れ込む乗客の中に一人、ビッコをひきずりながら腰を曲げ、獣のように頭を低め、猛然と人波を掻き分け突き進み、何としても吊革を占拠しようとする老人が居りました。両隣の人を押し退けるようにして自分の場所を確保すると、スッと腰を伸ばしてギュッと吊革を握り締めました。してみると身長は意外にも高く、170センチを超え、体格も急に立派に映りました。体重は70……72キロ。頭はてっぺんまで禿げ上がり、――頭頂部は赤ん坊の肌のようにスベスベで―― 後頭部には、悔い多き人生への未練を切々と訴えるようなうぶげたちがまばらに生えています。目は穏やかさを湛えながらもキリッと引き締まり、周囲の人々に見られているのを過剰に意識するかのように、ぎごちないほど真直ぐ前の一点を見つめています。スッと伸びた外国人風の高い鼻の下のフサフサと豊かな口髭。年は? ……70歳。20歳の時に父親を自殺で亡くし、翌年奥さんになる女性と出会いました。……

 電車は3つ目の駅に停車し、Kはふたたび、雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認する。4つ目の駅にある共学高校への通学生徒数が、この駅でピークに達する。Kはポケットをなぞってアイポッドを停止し、わきかえる女子生徒たちを楽しむ。本は手に持ったまま、老人に視線を戻す。溢れ返る学生に、老人はソワソワしているようだ。電車が出発する。

――おじいさんはその翌年には結婚し、そのまた翌年の桜まいちるなか、可愛らしい男の子が誕生しました。二年後の冬、今度は女の子が誕生しますが、年明け間もなく死んでしまいます。希望に溢れたはずの赤ん坊の人生は、たった11日間で終わってしまいました。埋葬のとき、母親は毛糸でチョッキを編んでやりました。おじいさんとおばあさんの間に静かな、しかし永続的な緊張感が生れたのはそれ以来のことです。ホラ、おじいさんの思い詰めたようなあの眼差しは、悲しみに満ちているようではありませんか。ジッと見ていると時々若い女子学生の方にチラッと目をやるでしょう? あれはきっと、失った女の子の娘盛りを、17歳の花盛りの娘たちに思い描いているのです。……

 4つ目の駅で学生たちがゾロゾロ降りて行くと、確かに老人の眼は悲しみに翳ったようだった。幾分余裕のできた車内、老人の反対側に制服姿の美しい女子学生が残った。女子学生は窓から遠くを見る。車内にさしこむキラメク朝の陽射しが、波打つ黒髪にのって揺らめく。分けた髪のなかに覗く褐色の横顔は、――キュッと結んだ薄い唇は女王様気取り、でも丸い鼻にはあどけなさが残っている――ちいさいあごでスッとまとまり、細く長いくびがつづく。柔らかい髪がやさしくつつむように、くびにまとわりついている。手を半ばおおうまで伸ばした紺のセーラー服からチョコッとはみ出た小さな手は、ドア脇のスチール棒を軽く握る。女子学生は上衣からスカートへと一本の曲線のようになだらかに続き、丈を詰めたスカートがふっくらしたももとももの間に陰を添え、その直下の膝がイヤホンから流れ出るのであろう音楽に合わせ、小気味よいリズムでたてに揺れている。Kはアイポッドのボタンをまさぐり、男声の朗読を流したままふたたび老人に視線を戻す。老人は自分とは反対側斜め後方にいる女子学生を、窓の反射を利用して、相手に気付かれぬまま盗み見る。電車は5つ目の駅に向って出発する。

――おじいさんは毎朝起きると一番にトイレに行き、ズボンを下ろし、裸の膝をむき出しにします。便座にどっかりと腰を下ろして深い溜息を吐き出し、亡き娘のことを思い浮かべるのです。亡き娘を、17歳の若く美しい姿で。街中の人混みをキビキビと直線的に歩く後姿、まるで女王様のように誇らしげに、尻を左右に躍らせて。でも前に回り込んで女王様の顔を覗けば、強く結んだ小さな唇をつけたその顔には、幼い頃から変わらない、あどけない鼻が残っているのです。小さいときからずっと傍で成長を見届けてきたおじいさんは、そのことをようく知っているのです。そして知っていることに自信を持っているのです。立派に育ったあのオシリだって……。あいつは本当にいい子で、反抗期もなかった。末っ子だから可愛がられかたをよく心得ている。クリクリのオメメで表情いっぱいニッコリ笑顔を浮かべる。そうしてその眼を逸らさずにジッと見つめてくる。すると大人の方が照れて、こっちから先に眼を逸らしてしまう。フンッ! おじいさんは便座に腰掛けたまま、木戸に手を伸ばし、手を上下に動かして、さらさらとした木の触感を楽しみます。年頃の娘の肌を思いながら。きっとこんなのに違いない。でも触って確かめるわけにはいかない。そんなことしたら嫌われてしまう。下水道を這いずり回る鼠のように。――やっぱりあなたも……。一定の距離を保ち、その美を讃美する視線を送る限りにおいて、あいつは拝謁するものにクリクリの笑顔を授け与えるのだ。……ちっ、スケベじじいが!

 老人は窓に映る女子学生をじっと見つめ、ズボンのポケットの奥の奥にまで手を突っ込み、眼をキラキラと輝かせ、キョロキョロしている。電車は5つ目の駅を過ぎて6つ目の駅に向かう。この駅間が長く、15分を要する道のりである。Kはふと便意に気づく。排泄を日に3から4度少しずつ分けてする習慣のあるKにとって、朝早い仕事を選ぶ際の大きな難点の一つだ。家で一度済ませても、職場につく前には二度目の便意に襲われる。
 女子学生は、スカートからあらわに覗く肉付きのいいフトモモでリズムをとる。

――タン、タン、タン、タン。コシ、コシ、コシ、コシ。タン、タン、タタタン。コシ、コシ、コシコシコシ。……恐らく32年前、老人は亡き娘を偲びながら、便所のなかでしたのだろう。32年前? ボットン便所だったろうか、祖父の家のあれのように。してみると、土間だったかもしれない。先ずは排泄を――アレも結局は排泄だが――済ませてから。季節は冬、冷たいコンクリートのように固い土、またぐらからのぞく光の届かぬ穴の底、永く深い暗闇、折り重なるように蓄積された、ひり出された人の垢。憎悪の様に激しく腹をつき上げる便意、頭は真空の白に近づき、死に接近するように頬はどんどん蒼褪めて、いつでも出せる、便器はすぐ下にある、それでもためらうように、腹がいたむ! 嘲笑って銀蝿が踊る、眉毛にとまる、悪臭が鼻から頭頂を貫く。流れる血が手の先、足の先までニオイを運び、悪臭と――この部屋の空気と、全身とが一体になる。穴の底には鼠が巣食っているのだろうか、それとも鼠の死屍が今まさに腐りつつあるのか、地下水が滲みだして暗く湿った穴の底、バキューム・カーに吸い余された世々の垢が少しずつ積もり、父の、祖父の、曽祖父の垢が薄く堅固な層となって一枚一枚つみ重なったもの。ここで、曽祖父は弟を殺した後に一息つき祖父は腕をまくって戦争の銃痕を確かめ父は自殺する直前に、この便所で……。この穴の底には、土俗的な、血族的な、逃れられない無限がある。奔流の音を立てて水が、陶器の肌を洗い流すこともない。おうちに帰るまでこらえ切れず、うんこしないとくちからもどすわよ、先生の脅迫に怯えた憐れなこどもとて、逃れられないのだ。そう、傲岸不遜に涙で訴える我がままなこどもにとってここは、懲罰部屋でもあった。この個室には、時間を越えて、恥辱と憎悪が集中している、この一点に――。ボットン便所の薄い壁一枚隔てた西側の部屋では、祖母が、今まさに死につつある祖母が、二度と起き上がることができず蒲団にからだを侵食されつつある祖母が、幽かな、規則的な呼吸音をたてていたのだ。そんなトイレで、おじいさんは、(電車は6つ目の駅を過ぎる。最後の駅は近い。)――ボットン便所の底にフンを落とすといそいそとふりかえり冷たいつちの上にむきだしの膝をつき尻にこびりついたくそはそのままに先ずはやさしく下からなでて形がととのったら手をまるめ次第につよくはやくはげしく父をも赦す女の慈しみの幻想に抱かれて
 老人はうなだれる。

 7つ目の駅に着くなり、Kは電車を飛び降り、人ごみを掻き分け、トイレに駆け込んだ。イヤホンからは、章の終わりにもう一度、聖歌が流れていた。

 女声ア・カペラで。

《処女マリアよ
そは罪人の鎖を解き
盲人に光を与え
われらの悪を清め、……

 しだいに、よわく……
 

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