あ、1本いいっすか?

Next Writer:Chijun

up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/05/26

つぶつぶ

投稿者 じん   5/26/2010 2 コメント
 少し前に流行った脳科学の文庫本。本棚の奥から引っ張り出して、少しだけ読み進めていたら、体が溶けていくような感覚に陥った。人間の心はニューロンの発火だ。生命活動は化学現象で、肉体は原子の寄せ集めだ。そんなことを考えているうちに、自分と自分以外の境界線があいまいなもので、自分の存在が自然現象の一つのように思えた。鼻の穴で、冷たい空気の流れとして、原子と原子の交流を感じる。

 自分が自分だと思っているつぶつぶの塊が、別のもう少し緩やかなつぶつぶの集まりをかき分けながら歩いていく。向こうからまた別のつぶつぶの塊がやってきて、少し離れた所から、緩やかなつぶつぶを震わせ、その振動が僕のつぶつぶを震わせる。僕もまたつぶつぶを震わせて、あいだのつぶつぶ同士震えを伝え合って、やがて相手を震わせる。繰り返すうち、僕のつぶつぶの震えはだんだんと激しくなる。震えて、震えて、やがて、弾け飛ぶ。

 弾けたつぶつぶの震えは、さらに周囲のつぶつぶを震わせて、共鳴し、次々とつぶつぶの塊を弾けさせる。

 弾けたつぶつぶはお互いぶつかり合いながら、ピンボールのように駆け回り、やがてまた寄り集まって、いくつかの塊と、そのあいだを埋めるゆるやかな集まりとなる。弾けて飛び回る前とは少し違う組み合わせで、似たような形の塊になる。こうしてつぶつぶの塊である僕らは、あらゆるものと少しずつつぶつぶを交換していく。

 休日の午後、たまの読書の合間、そんな実のないことを考えていた。

2010/05/22

「ロシア構成主義のまなざし」と「かっこいい」

投稿者 福田快活   5/22/2010 0 コメント
フランツ・フェルディナンド「Do you want to」のCM、あれはソニーウォークマンだった気がする、に出遭ったのはいつだっけ?ネットでみてっとどうも2006年くさい。ていうのもシングル発表が2005年、収録アルバムは2006年。聞いてすごいいい!ダンスビートきいててロックでダサかっこいい!思ってすぐ、アルバム買った気がする。だから2006年の推測なんだけど、そんな枝葉はさておき、この先になにがあんのか?てアルバムジャケットに使われてたデザイン。女の子がインディアンみたいに呼ばってるあれ。あれはロシア構成主義を代表するロトチェンコのこれを下に敷いてる。

でタイトルにある「ロシア構成主義のまなざし」展のはなしになる。ロシア構成主義(て打ち続けるのも長いので次から製造業の工場風省略形で「RK(Rosia Kouseisyugi)」)は、ひとこと、「ダンシ」(男子)だった。地球がほんとは楕円なように、「神がつくりたもうたこの世界は美しく単純な数式で表せるはず」と聞いても「そげな信仰は共有できまへんな」としか思えないように、純粋な円とか直線はほとんどないこの世を幾何学的な、整形された円と直線に集約してしまう大胆さはちょっとひく。その「大胆」は「乱暴」でもあって、ダンシ的あるいはファシズム的な、明快さを好む「乱暴なぶったぎり」だ。ナチスのポスターとか思い出してほしい。でもナチスはそこまででもないけど、RKはあきらかに「かっこいい」。ぢゃあ「かっこいい」は「ダンシ」で、「かっこいい」は「ファシズム」なんか?「かっこいい」についてあまり考えてるひと見たことないんだけど、思い出すのは宮沢章夫くらいで、やっぱりこの人はすごいなって思ったんだけど、こういう空気的な概念をもとから共有してない人につたえるのはとてもむずかしい。宮沢章夫の「かっこいい」も正直よくわかんなかった。hip、60年代?ジャズがいけてたイメージなんだけど英語の「いけてる」に相当するhipを、小説一冊読み終わってはじめて宮沢章夫がわかった気がする、ってのはほんとそうだと思う。hipはいまもよくわかんないけど、ケツと関係あるんだろな、ってのはわかるww オトナに関係する、って感じかな。

話はもどって「かっこいい」だ。誰もがRKをみて「かっこいい」と思うとは限らない。おれが思った、てことはおれの「かっこいい」に過ぎないかも。だからこっから考えるのはおれの「かっこいい」について。補足しとくとおれは80年代前半生まれニッポン男子。あえて「80年代前半生まれニッポン男子のかっこいい」について考える、と言い訳しとこう。

「かっこいい」が「ダンシ」なのは自明だ。「かわいい」が「ジョシ」なように、ジェンダーを浮かび上がらせる志向っていえるかもしんない。「かっこいい!かっこいい!!」叫んでる女子はあんまいない。対象が男の子の場合は別だけど(彼、チョーかっこいい!)。別にほかのもの、そうね車とか電車とかバイクとかみて「かっこいい!」叫んでる女子は思い浮かべにくいけど、叫んでる男子は容易に想像できる(実際いるかいないかは別として)。気にしたいのは女子が「対象が男の子」だったら「かっこいい!」て叫びまくれる、てとこで、これはなんだろう?女子がじぶんにとって魅力的な男=かっこいい、て考えると「かっこいい」=「オトコだね~」て考えられる。女子がいいと思う「オトコ」と男子がいいと思う「オトコ」に当然ちがいはあるから、女子の「かっこいい」と男子の「かっこいい」にも違いがある。

でも身の回りで男の子対象いがいで「かっこいい!」て叫ぶ女の子を思い出すと、男の子いがいが対象のときの「かっこいい!」は男子の「かっこいい!」と違いがない。そしてそうした子は女性誌がきらいで男性誌が好き☆って子でもあった。対象が「オトコそのもの」、つまり女子からみて対象にそもそも「オトコ」が充填されて明視できるときだけ女子の「かっこいい」は自立する、てこと。対象のオトコ性が自明ぢゃない場合、車でも電車でもバイクでも、女子と男子の「かっこいい」に違いはない。

これはけっこうおもしろくって、なんで対象が男の子のときだけ男女の「かっこいい」に合意が得にくいの?てのは女子対象の「かわいい」にもあてはまる。合コンで「かわいい子連れてきたから!」っていわれて、現地とか駅前で「おいおい、あの集団ぢゃねえよなー(-_-)」ておそるおそる接近してみると、沈黙以外に術がないのは、幹事の子が自分より「かわいい」が下の子しか連れてこない女子だったから、とか審美眼が狂ってる子だから、では「説明がつかない!!」って経験は男子なら誰でもあるはず。あとで問いつめてみて、その子に何のわるびれもなく「え?かわいくないの?かわいくない?なんで?なんで?」とむしろ「あたしショック(>_<)」な視線に、すべてを諦める修行僧の境地に達したこともあるはず。でもおなじく女子いがい、が対象だったら、男女の「かわいい」が反目することはあんまりない。男子の無関心、理解できない、はあるけど。これは「かっこいい」も同断だね。

この問題はちょっと後にまわしてとりあえず話まとめると「かっこいい」=「オトコだね~」で、男女が感じる「かっこいい」に反目はない(対象が男子そのものの場合は別。)。ただ男子の方が関心の傾斜は高いので、女子の不理解はある。「オトコであること」を通してモノ・コトを受け止めるかしないかの違い、であり、男子の感覚からすると世界は「オトコ=かっこいい」で充填されてるけど、女子は「ジョシ=かわいい」で充填されてるってとこかな☆

長くなったので続きは次回。ばいばいき~ん^(ノ◎皿◎)^ノ

対象が男子そのものだとなんで男女の「かっこいい」に反目がうまれるの
RKについてもうすこしちゃんと
フランツ・フェルディナンドとRKの違い
RKからみる「かっこいい」について
あたりを詳しくやりま。羊頭狗肉にならないよに

2010/05/19

二つの対談~保坂和志と佐々木中,大江健三郎と中村文則~

投稿者 Chijun   5/19/2010 2 コメント
最近立て続けに,文筆家同士の対談を二件ばかり聞いてきた。
一つ目は,五月九日,青山ブックセンター本店での,保坂和志と佐々木中の対談。二つ目は,五月十六日,講談社での,大江健三郎と中村文則との対談。
前者は佐々木中という,ベテラン作家保坂和志が一押ししている若手評論家の対談で,後者は大江健三郎賞の授賞式であった。奇しくも両者ともに「ベテランー若手」というペアだったが,共通点はそれだけではなかった。ステージ上に二人並んではいるのだが,どうも話が噛み合っているように見えない。単純に発話量の点でいっても,一人が九割方しゃべり倒すという,およそ対談とは呼びがたいものであった,と思う。ちなみに,前者では若い佐々木中が,後者では,ベテランの大江健三郎が大半の時間しゃべっていた。
別に内容を批判するのではない。ただ「対談」という以上は,そこは独演会のステージでもなければ,くだを巻くための居酒屋でもないのだから,なんというか,二人の間で,「建設的な発展のある話」を聞かせてもらえなければ,どうも損した気分なのである。別に「激しい衝突」でも構わない。とにかく「ふたり」いなければ生じないような何かを期待したい。こっちは身銭切って時間をつくって聞きに行ってるのだから。
「対談」というのもある種のライブなわけで,うまくいくときもあれば,しらけるときもあるのでしょう。本をひとり自室で読んでいるだけでは得られない何かを一時きらめかせてくれるような,名対談はどこかに落ちてないかしら。
あっ。そうそう。来月は最近「「悪」と戦う」を出版した高橋源一郎と,昨日「クォンタム・ファミリーズ」で三島賞を受賞した東浩紀の対談を,再び青山ブックセンターに聞きに行ってきます。いいライブに立ち会えることを祈ります。

2010/05/13

あんず

投稿者 じん   5/13/2010 0 コメント
 高尾山帰りで寝過ごした各停の、終着駅が高幡不動。呼ばれたかな?と思いつつ、数年振りに珈琲はうすあんず村に足をのばし、マイルドブレンドとちょび助でひと休み。
 「やっぱりいいお店だな」なんて珈琲飲んでると、2人の女の子が、斜め向かいの席に入ってきた。何気なく追う僕の目と、隣の席にカバンを置こうと横を向いた彼女の目がぴたり。
 3つ星つけていたお店に星を1つ上乗せして、珈琲をお代わりしました。その日の夕焼けがピンク色に染まったのは出来すぎでしょう。


2010/05/10

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)3

投稿者 福田快活   5/10/2010 0 コメント
さて、このパラニクのシリーズも最終回。『インビジブル・モンスターズ』を書くためにダイヤルQ2して、色んなひとの変態話を収集してたってとこまでが前回。変態話はまた「真実」の物語でもあった。そして世界は物語る人々で出来てる、とか。

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4冊目の本『チョーク』の下調べするあいだ、セックス中毒者のおしゃべりセラピーに週2回、6ヶ月間参加した。水曜と金曜の夜。

多くの意味でこの雑談会は、ぼくが参加してた木曜夜の作家ワークショップとあんま違わなかった。どっちの集まりもただ「自分の物語する人たち」だった。セックス中毒者はひょっとしたら技巧にあんま関心がなかったかもしんない、でも数多の風呂場セックス・売春婦の物語して、観客からいい反応をひきだす腕はもってた。多くの人はもう何年も集会で語ってきたもんだから、耳をかたむけると、そこには素晴らしい独白が在った。抜群の役者が彼―彼女自身を演じてる。1人芝居のモノローグから本能が感じられるんだ――ゆっくりと明かされる重要な情報、創られてゆく劇的緊張、ヤマ場を組みあげて、聴衆を完全に巻き込む本能。

『チョーク』のときはボランティアとしてアルツハイマー患者とも同席した。ぼくの役割はただ患者がみんなクローゼットん中の箱にしまってる古い写真について聞くだけで、彼らの記憶を試し、刺激しようとしてた。看護スタッフには時間のない仕事だった。この仕事も、「物語を語ることについて」だ。日がな日がな同じ写真をみるんだけど、患者がちがう物語をするうち、『チョーク』の脇筋が出来あがっていった。ある日だと、美しい胸も露わな女性は彼らの妻だった。つぎの日、彼女は海軍に勤めるあいだメキシコで出会った女だった。その次はむかしの同僚だった。ぼくが打ちのめされたのは・・・「彼女が誰か説明するためには、話を創るほかないんだ」ってこと。もし忘れちまってても、絶対に認めなかった。穴だらけのウマク騙られる物語はいつだって、「そんな女憶えてない」って認めるよりましだ。

ダイヤルQ2、病気支援グループ、12段階グループ、これらの場所はぜんぶどうやったら効果的に物語を伝えられるか、まなぶ学校だ。声に出して。人前で。ただアイデアを探すんじゃなくて、どう演じるか。

ぼくらは物語に寄っかかって人生を生きてる。アイリッシュであること黒人であること。ぎっしり働くこと、ヘロイン打つこと。男であること女であること。ぼくたちの物語を支える証拠さがして人生をすごしてる。作家やってると、ただそういう人間のありかたが分かるんだ。キャラクターを創るたび、そのキャラクターとして世界をながめる、そのリアリティーをたったひとつの本当のリアリティーにする細部を探す。

事件を法廷で争う弁護士のように、読者に自分のキャラクターの世界観の真摯さを受けとめてもらいたくて、代弁者になる。読者を、彼ら自身の人生から休憩させたげたいんだ。彼ら自身の物語から休ませたげたい。

ぼくはこうやってキャラクターを創る――どうもぼくはキャラクターひとりひとりに、世界の見方を制限する教育や技術をあげたがるみたいで:清掃人は落とさなきゃいけない汚れの繰り返しとして世界を見る。ファッションモデルは社会の注目を競うライバルの繰り返しとして世界を見る。落第医学生は末期病の予兆かもしれない黒子と引きつり以外、なんにも見ない。

ちょうどぼくが書きはじめた同じ時期に友達と毎週恒例の「ゲーム・ナイト」ってのを始めた。毎日曜午後、集まってパーティー・ゲームをするんだ、ジェスチャーゲームとか。一向にゲームをはじめない夜もある。ぼくたちが欲しかったのは口実と、時には仕組みだけ、一緒にいられるように。書き物でいき詰まってたら――どうしたら新しいテーマを作り上げれるか?――あとで「みんな種まき」って呼ぶようになるコトをした。会話のトピックを場に投げ出して、こっちから短いおもしろ話をしたりして、他の人に自分のを話すよう刺激する。

『サバイバー』を書いてて、ぼくがトピック;掃除のコツを持ち出す、するとみんな何時間も教えてくれる。『チョーク』のときは暗号化された警備放送。『ダイアリー』のときはぼくが作った家の壁の中に見つけた;置いてったものの話をした。両手一杯のぼくの話を聞いて、友達も話してくれた。お客たちもしてくれた。夕方になれば、もう本にするに十分だった。

こうすると、孤独な営為「書く」も人のまわりにいる口実になる。順ぐりに人が物語にガソリンくれる。

独り。一緒。事実。フィクション。これは環だ。
喜劇。悲劇。光。闇。たがいを定義する。
効くよ。ただ、どっか一つ所に停滞しなけりゃ。

2010/05/07

電子の本と紙の本(2)

投稿者 Chijun   5/07/2010 1 コメント
(2)と銘打っておきながら,(1)とはタイトル変えました。(1)は「電子書籍と紙の本」でしたが,今回は「電子の本と紙の本」としてみました。
「名付け」というのは面白いもので,新しい,それまでにないものや概念が出てきたときに,それに合わせて造語するという方法もありますが,いずれにせよ,既存の,ありあわせの言葉を使ったり,組み合わせたりして,何とか名前をつけようとがんばるわけです。
そしてがんばった結果,ときにおかしなことになりますよね。「電子書籍」というとひとまとまりの名詞として違和感が見えにくいですが,「電子の本」というと「あれ?」となりません?そう,今流行の(そしてこれからますます流行るであろう)「電子書籍」って,形もないし,「ページ」ったってデータ上で擬似的に作られたインターフェースに過ぎないし,書籍=本じゃないんじゃない?…と,立ち止まって考え込んでしまいます。
そして同時に,わくわくするわけですね。未知の部分が多いゆえに,いったいどうなるんだろう,なにはともあれいいものになってほしいな,と大いに期待を寄せるのです。
電子書籍(書いていていちいちもどかしいです)の話題が盛んになる前,九十年代後半からゼロ年代前半にかけては,「本離れ」がずいぶん口やかましく騒がれたものです。実際文字通りの意味でいえばみんな「本」を離れつつあるのでしょうが,「本離れ」という問題意識の主眼が「ある一定のまとまりをもった文章を読まないのはいかん」ということだとすれば,実はそんな心配は杞憂に過ぎないといえるのではないでしょうか。というのも,「ある一定のまとまりをもった文章」は日々大量に生産され消費されているからです。ネット上で。この私の文章とておなじこと。こうなってくると,「本離れ」との戦いというのは,一体何ものと戦っているということになるのでしょうか?ひょっとして相手のいない一人相撲?
しかしあまり楽観的になって「電子書籍万歳!」とだけいっているのもあまり芸がありませんね。「書く」が「打つ」に変わり(これはもう一昔前の話ですが),「紙」が「電子」に変わる。手段や媒体が変われば,中身も変わらずにはいられません。ワープロの使用とともに読点の多い文章が増えたとか,ブログ・携帯小説・メールの流行とともに一文が短くなり,改行が多用されるようになったとか。ひとつの文がうねってねじれてどこにたどり着くかも分からぬままじっと息を詰めてもだえて考え込んで追っかけてようやく句点にたどり着いてほっとする,そんな重厚感のある文章になかなかネット上では出会えないなあ…と思っていたら,どうも最近はそうでもなくなってきてません?新聞や雑誌,あるいは硬派な書籍に劣らないような鋭い論考をブログ上で発表されている方がどんどん目につくようになり,ますます「本離れ」との戦いが,ドン・キホーテ的な滑稽さ(悲壮さ?)を帯びてきているようにも思われます。
果たして「本」はこれからどう変質していくのでしょうか。見たこともない発見に驚き呆れ,なおかつ感動をもたらしてくれる,そんな文章との出会いを楽しみにしています。

2010/05/01

チャック・パラニク(チャック・パラニューク) 2

投稿者 福田快活   5/01/2010 0 コメント
nobutovskiの更新が遅れまして、すみませんm(_ _)m 4/28更新と予告したのですが、5/1になりまして、、、今後このような手抜かりのないよう、急度叱り申しつけておきますれば、何卒、何卒、御見物衆のかわらぬご贔屓ご引き立て、願いたてまつりまするう~~~m(_ _)m

さて前回はどこまで訳したんだっけ?――そう、パラニクが書くのは「書くこと」で他のひとと一緒にいれた=つながれたから、てとこまでだったね。パラニクに言わせれば『ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」』で、こっからは具体的に『ファイト・クラブ』はじめ彼の小説のはなしがはじまる――

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ファイト・クラブ』の成功について、ぼくのお気に入りの説は、人と人がいっしょにすごす枠組みを提示したから、なんだ。人は新しい繋がりかたを知りたがってる。『キルトに綴る愛』とか『ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密』とか『ジョイ・ラック・クラブ』のような本をみてよ。こうした本はぜんぶ枠組みを提示してる―キルトをつくったり、麻雀したり―そうしたら人が一緒にいれて、自分たちの物語をわかちあえる。こうした本はぜんぶ、共通の活動あって結わえられたいくつもの短い物語なんだ。もちろん全部女の物語。男の社交の新しいモデルってのはあんまり見かけない。そうだね、スポーツ、納屋の棟上げ。それくらいだね。

で、いまファイト・クラブがある。良かれ悪しかれ。

『ファ イト・クラブ』を書き始める前、ぼくは慈善ホスピスでボランティアしてた。ぼくの仕事は診療予約や支援グループのミーティングへ車で人を送ること。そこではてきとうにみんな座って、そう教会の地下室とか、病状くらべたりニューエイジ体操したりして過ごしてる。そうしたミーティングはぼくに居心地悪かった。どんだけ隠れようとしてもみんなぼくも同じ病気もってんだろと穿つんだ。ただ見守ってるだけ、ホスピスにもどって責任を果たそうとしてるだけの観光客、って穏便に言える方法なんてありゃしない。だからぼくは、焦点のあわない自分の人生を慰めようと重病者の支援グループに出没する男の物語を自分のなかでつくりあげていった。

多くの意味でこうしたとこ-支援グループ、12段階回復グループ、デモリション・ダービー-はむかし宗教が果たしてた役割を果たすようになってる。そのころぼくたちは教会にいって自分の最悪な面、ぼくたちの罪、を曝してきた。じぶんの物語を伝えるため。許されるため。贖われ、共同体にふたたび受いれてもらうため。この儀式はぼくたちが人と繋がるための方便で、不安が、ぼくたちを人間性からあまりに遠ざけてしまって自分が失われてしまう、まえに解消させる方法でもあった。

こうしたとこでぼくは誠実な物語を見つけた。支援グループで。教会で。どこだろうともう失うものがないとこ、そこで人はもっとも真実に近づいてた。

『インビジブル・モンスターズ』を書いてる間、ぼくはダイヤルQ2に電話して、ひとにとびっきりのエグい話をきかせてよ、てせがんでた。電話してこう言えばいいんだ:「やあ、みんな元気?アツイ兄弟姉妹近親相姦のはなし探してるんだ。おまえの聞かせてよ!」とか「あんたのいっちゃんエグくて不潔な女装・男装ファンタジー聞かせてよ!」そうすりゃもう、何時間ものメモさ。そこにあるのは音だけだから、猥褻ラジオショーみたいなもん。お粗末な役者もいれば、胸張り裂かれることもある。

ある電話で男ノコが話したのが、「てめえの親を児童虐待と育児放棄で訴えるぞ!」て脅されたんで警官とセックスさせられたことだった。警官はその男子に淋病をプレゼントして、彼が助けようとした両親は・・・彼を追い出して浮浪児にした。自分の物語をしながら、おわり近くで彼は泣きだした。もしあれがウソなら、最高の演技だった。小っちゃなマンツー劇場。もしそれが物語なら、それでもすばらしい物語だった。

もちろん本の中でつかったさ。

世界は物語る人々でできてる。株式市場をみてみなよ。ファッションでもいい。どんな長編物語、小説も短い物語の組み合わせだ。

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さて次は「3」で最後だ。ずいぶん長い、分載?になっちまったけど、最終回も「みんな観てくれよな!」って台詞でバイバイキーン^(ノ◎皿◎)^ノ 

The Brief Wondrous Life of Oscar Wao(前編)

投稿者 サトウ   5/01/2010 3 コメント
 授業で読んでいる本がおもしろい。ドミニカ系アメリカ人のJunot Diaz という人の書いたThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoという作品である。まだ半分しか読んでいないのだが、なんとなく感想を書いてしまうのである。
 主人公はタイトルにあるとおり、オスカーOscarという、ニュージャージーで暮らすドミニカ系の移民二世。デブでSFオタク、週末にはヤオハンで日本のオタクカルチャーにどっぷり浸かる。人生で最高にモテたのは7歳のころ、という、ちょっと哀れな男の子の生活が作品の主軸をなしているようなのだが…。
 これがなんだか変な作品なのである。まずは大量に混入されるスペイン語。わたしはスペイン語を習ったことがないので全然わからない。ただし、なんとなく「ここはののしり言葉かな」とか「これはおじさんとかおばさんとか、とにかく親戚を表す単語だろう」ぐらいの推測はつくので、内容を完全に見失ったりはしないところがすごい。
 また、この作品はいくつかの章にわかれているのだが、章によって話者が次々と変わり、人称も変わる。一章ではオスカーの悲惨な生活が三人称でおもしろおかしく(雰囲気は森見登美彦と似ているかもしれない)描かれるが、二章になると突然二人称の文がすこし挟まれ、直後にオスカーの姉ローラLolaの一人称の語りがおかれている。このローラの語りは母親とのかなりハードな確執が描かれていて、一章とはがらりと変わって切迫している。ちょっとThe Catcher in the Ryeのホールデンを思い出した。
 半分読んだ段階で、この本のもつ一番の特異性は、実は「語り手」の存在にあるのだ、と気づいた。それは三章に現れる。全体的には三人称の語りによって、オスカーの母ベリシアBeliciaのドミニカでの十代からアメリカに移住するまでの経緯が描かれるのだが、なぜかところどころに「わたし」が乱入してくるのである。三人称の語りを他の人称と比較した場合、どちらかといえば中立的で俯瞰的な視点を読者に提供するもの、すなわち読者に出来事を伝達する、透明度の高いメディアといえるだろう。しかしここでは、たとえばベリシアが十代の頃働いていたレストランの客と話している場面で、語り手は「いまでも私は車に乗っているとときどきその男を見かける」などと、あまり関係のないような自分の体験をつい言ってしまう。それから、やたらに注が多い、というのもこの本の特徴なのだが、ここでも謎の「わたし」が自分の体験や感想、詳細なドミニカの歴史、そしてなぜか創作過程(「じつはここに出てきた○○という地名は草稿の段階では××にする予定だった」など)を明らかにしてしまったりする。こうした三人称の語りのなかでは違和感を与えるような一人称の発話が挿入されることによって、しだいに語りが抽象的な「視点」としてよりは、生身の身体をもった誰かの「声」として存在しているように思えてくるのだ。

 語り手はいったい誰なのだろう、と思いながら読み進める。そうでなくても、どんどん先へ進みたくなる小説である。ついでにいうと、スペイン語だけでなく日本語もときどき出てくるのだ。アメリカの小説にkatana、kaijuなど、日本語がたくさん出てくるのはなんだか不思議だ。otakunessという言葉が出てきたときは笑ってしまった。

 全部読んだら改めて書こうと思う。
 

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