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数日前東京外大に行って柴田元幸、都甲幸治、和田忠彦のシンポジウムを聞いてきた。
お題は『現代文学と子ども』。
ここで内容を全部紹介するわけにはいかない(というかそもそも全部覚えてるわけないし)が、気になったことが一つ。
このお題とどう関わっていたのかは忘れてしまったが、都甲先生がバフチンのポリフォニー論を一人称に関しても適用できるのではないかという論を展開したのである。
バフチンのポリフォニー(多声性)論というのは、ドストエフスキーの作品においてはそれぞれの登場人物の様々に異なる主張や意見がことごとく対立したまま描かれているとか、そういうことだ。バフチンによれば、それまでの文学作品は、一見異なる意見を持つもの同士の対話があっても、最終的には作者の肩入れする方向に回収されてしまっていた。
三人称の小説であれば、作家が公正な審判のように、ある種の誠実さに基づいて人物を造形すれば、そういう優れたテクストができるのだろう、という気はする。それは「違う人を、違うように」描くということだからだ。
しかし、それは一人称でも同じことなのである。私たちは、日常的に「同じ人を、違うように」提示し続けている。例えば以前千歩くんが言ったように、私たち日本語話者は、当然のようにさまざまな一人称を使い分ける。友だちの前では「おれ」、先生の前では「ぼく」、面接官の前では「私」など。そのことについていちいち混乱を覚える人はあまりいないだろうと思う。なのになぜ、小説の中ではあれほど人称がきっちり統一されるのだろう?
数日前東京外大に行って柴田元幸、都甲幸治、和田忠彦のシンポジウムを聞いてきた。
お題は『現代文学と子ども』。
ここで内容を全部紹介するわけにはいかない(というかそもそも全部覚えてるわけないし)が、気になったことが一つ。
このお題とどう関わっていたのかは忘れてしまったが、都甲先生がバフチンのポリフォニー論を一人称に関しても適用できるのではないかという論を展開したのである。
バフチンのポリフォニー(多声性)論というのは、ドストエフスキーの作品においてはそれぞれの登場人物の様々に異なる主張や意見がことごとく対立したまま描かれているとか、そういうことだ。バフチンによれば、それまでの文学作品は、一見異なる意見を持つもの同士の対話があっても、最終的には作者の肩入れする方向に回収されてしまっていた。
三人称の小説であれば、作家が公正な審判のように、ある種の誠実さに基づいて人物を造形すれば、そういう優れたテクストができるのだろう、という気はする。それは「違う人を、違うように」描くということだからだ。
しかし、それは一人称でも同じことなのである。私たちは、日常的に「同じ人を、違うように」提示し続けている。例えば以前千歩くんが言ったように、私たち日本語話者は、当然のようにさまざまな一人称を使い分ける。友だちの前では「おれ」、先生の前では「ぼく」、面接官の前では「私」など。そのことについていちいち混乱を覚える人はあまりいないだろうと思う。なのになぜ、小説の中ではあれほど人称がきっちり統一されるのだろう?