「あの明るい星ですか?うわあ…」
五歳も下の後輩が思わず声を上げたのも無理はない。山深い長野の町にあっては、霞がかって薄れてしまう春の夜空も、澄んだ美しい冬空のように見えてしまう。四月の末日にもかかわらず、コートがいるほどに冷え込んだ町で、片道三十分もかかる温泉からの帰り道である。こうして春の夜空をきちんと見るのは私もはじめてのことだから、ふたりしてずいぶんとはしゃいでしまった。夏は美しく金色に染まる麦畑の狭間を弱いライトで照らしながら、数センチ先の足元も見えない暗闇に立ち、ふたりで空を見上げていた。
春にひときわ輝いて見えるのは一番星の金星だが、次に眼につくのがうしかい座のα星、オレンジ色のアルクトゥールスだろうと思う。北斗七星の末端からカーブを描き、アルクトゥールス、おとめ座のスピカと結ぶ著名な春の大曲線―ここまではっきり空に弧を描いたところを私ははじめて見たような気がする。夏のさそり座アンタレス、冬のおうし座アルデバランなど、赤星は黒い夜空によく映える。
野尻抱影の『日本の星「星の方言集」』を開いてみると、アルクトゥールスはどうやらある地方で〝麦星〟と呼ばれていたようである。麦が熟れる頃に昇ってくるためということも書いてある。この偶然を私はとても嬉しく思った。先にも書いておいたように、私たちが星を見ていた場所は、眼を見はるほどの金がうねる麦畑である。あの光景は夏にしか見ることができないのだから、金色の麦と麦星とを、一緒に見ることはできないのだ。とても切ない話である。だからこそよりいっそう、この星に対してもこの土地に対しても、私は深い愛着をもった。今やすっかりなじみ深くなったこの土地を、私はこれからも見守っていきたいと思うのである。
五月二十二日の今日、東京は昼下がりからひどい夕立ちに見舞われた。芳しい雨の香りがまた鼻をつき、見上げればいくつもの色を重ねた水彩の雲が漂っている。あの雲の上にもきっと煌びやかなアルクトゥールスが高く高く高度をとり、東京の街を見下ろしていることであろう。