親族の葬儀の一日に、こんなことを思った。
七回生まれ変わっても、おれは彼らとなにも共有できない。
ある人がいる。
その人と関わりがあった、ただそれだけのことで多くの人が同じ場所を共有して、一緒に時間をつくる。葬儀っちう儀式を協働してすすめてく。
おなじ関わり方をした人たち同士は旧知だったり、もっと親しかったり、内心けったくそ悪くても頻繁に顔をあわしたり。たとえば仕事をつうじて関係をもった人は、共有してる意識とか発想がある。同じ業界に身を浸してる人同士として。
そうじゃない、ちがう関わり方をした人どうしは接点があったりなかったりする。もちろんちがう業界だからってわかりあえない、なんてことは全くない。人が通いあえるのは肩書きじゃなくて、ザマ、生き様。人生へのスタンス。
ほかの業界人がまったく危機感をもってなかったり、やたらと危機感をもってたりするのを「ヘンなの」と思ってたとこに、ちがうコトをしてる人から「いや、おれもまったく同じこと思ってたのよ。これからはさ…」って聞かされた日にゃ「夜は長いぞ!呑み明かそう!」ってグラスがカチンと音をたてるっきゃない。
友達っていうのはそういうザマ、価値観が同じじゃなけりゃ近い人が多い。だから友達になる。呑み明かして、呑み明かして、呑み明かす。
べつに葬式にかぎった話じゃないけど、異人種同士が遭遇するのは。おれは親族の葬式でまったくザマの通わない、異人種の集団に遭遇した。なにも共有しないし、できない。接点はただひとつ、ある人と関わりをもったってこと。
でもそれは、まったくなにも共有できない人同士でも「ある人と関わりをもった」っていう一点は共有してる、てことでもある。「なにも共有できない」は正確な言いかたじゃない。
七回生まれ変わっても、おれは彼らと自分が「大切だ」と思うことはなにも共有できない
うん。長い。わかりにくい。
これでも簡潔にしたつもりだけど、簡潔にしようとしたのがいかんのか?大切なことってのはいつだって伝えにくいものだ。そう切り口上してドロンすることにしよう。
人生はいつだって、おわりは突然に、じゃない?
七回生まれ変わっても、おれは彼らとなにも共有できない。
ある人がいる。
その人と関わりがあった、ただそれだけのことで多くの人が同じ場所を共有して、一緒に時間をつくる。葬儀っちう儀式を協働してすすめてく。
おなじ関わり方をした人たち同士は旧知だったり、もっと親しかったり、内心けったくそ悪くても頻繁に顔をあわしたり。たとえば仕事をつうじて関係をもった人は、共有してる意識とか発想がある。同じ業界に身を浸してる人同士として。
そうじゃない、ちがう関わり方をした人どうしは接点があったりなかったりする。もちろんちがう業界だからってわかりあえない、なんてことは全くない。人が通いあえるのは肩書きじゃなくて、ザマ、生き様。人生へのスタンス。
ほかの業界人がまったく危機感をもってなかったり、やたらと危機感をもってたりするのを「ヘンなの」と思ってたとこに、ちがうコトをしてる人から「いや、おれもまったく同じこと思ってたのよ。これからはさ…」って聞かされた日にゃ「夜は長いぞ!呑み明かそう!」ってグラスがカチンと音をたてるっきゃない。
友達っていうのはそういうザマ、価値観が同じじゃなけりゃ近い人が多い。だから友達になる。呑み明かして、呑み明かして、呑み明かす。
べつに葬式にかぎった話じゃないけど、異人種同士が遭遇するのは。おれは親族の葬式でまったくザマの通わない、異人種の集団に遭遇した。なにも共有しないし、できない。接点はただひとつ、ある人と関わりをもったってこと。
でもそれは、まったくなにも共有できない人同士でも「ある人と関わりをもった」っていう一点は共有してる、てことでもある。「なにも共有できない」は正確な言いかたじゃない。
七回生まれ変わっても、おれは彼らと自分が「大切だ」と思うことはなにも共有できない
うん。長い。わかりにくい。
これでも簡潔にしたつもりだけど、簡潔にしようとしたのがいかんのか?大切なことってのはいつだって伝えにくいものだ。そう切り口上してドロンすることにしよう。
人生はいつだって、おわりは突然に、じゃない?