あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/02/11

末永くおしあわせに ~四谷怪談~

投稿者 福田快活   2/11/2010 0 コメント
お岩さんの職業は「惚れた男に裏切られて祟り殺す」だ。
ヲトコが好きだから、もおイケメ~ンってなったら逆ナンして一緒なって、でもダメンズだから男はサイテー。裏切られて殺されて、クヤシイシカナシイシ
幽霊になって男を祟り殺す。

実録、歌舞伎、合巻いろんな作で「幽霊になって祟り殺す」をしてきた(有名な『東海道四谷怪談』でもこのキャラだよね)ある日、ジョブチェンジするんだ。

妻 子持ちのタミゴロー(名前萌エの彼女はいつも似たよな名前に惚れる)がスキッ♡♡てなっちゃって、もう敵討ち諸国巡りで大変なタミゴロー夫婦だまして家に くわえこんで、タミゴロの足洗って「おまえのおみ足が洗いたくってしょーがなかったの」。幸せだったろーね。もっと「いやらしきこと」シタかったかもしん ないけど夫婦にすりゃうざいから、引っ越される。(ここら辺はいつも通り)

恋しさ患って、死んだ。

埋葬された遺体を狼が掘りおこす。
っと!お岩は死んでなかった、仮死状態だった(*^ー^*)∠※パパーン!!。・:*:・
狼は猟師に耳撃たれ、猟師は駈ける狼に逃げ、現れたのは以前お岩がいじめた狐;化カシテヤルゼー。髑髏に馬の骨さして狐の術、ホイ!お岩を幽霊になったつもりにした。

「幽霊になって男を祟り殺す」が商売だったお岩が幽霊気取りにジョブチェンジwて

「あたしは幽霊よ!男を殺してやるーー」そーれ、ってんでタミゴロの家いって男の首をチョーン!女の喉にガブー!(ほんとは南瓜ひっこぬいて石地蔵に喰らいついただけ。口から垂れる血は歯の欠けた自分の血)
びっくりしたのは村人、死んだはずの女が南瓜ぶら下げてヒエラヘエラ笑ってる。
タタリヂャー!
でもこの幽霊朝明けたどころか昼なってもいるし、足もある。ァ、ただの基地外だ(笑)
小学生には石ぶつけられたりしたけど、村の相互扶助は手厚くって畑の番すりゃおまんまくれる。流れもんと死裝束のまま(チョット白無垢っぽくない♪)蓮の葉かぶって(チョット綿帽子っぽくない♪)、シアワセナ祝言あげましたとさ。

(⌒▽⌒)/゜・:*【HAAPY WENDDING】*:・゜\(⌒▽⌒)

2010/02/06

一人称って変ですよね

投稿者 サトウ   2/06/2010 0 コメント
 更新が滞ってすいません。
 数日前東京外大に行って柴田元幸、都甲幸治、和田忠彦のシンポジウムを聞いてきた。
 お題は『現代文学と子ども』。
 ここで内容を全部紹介するわけにはいかない(というかそもそも全部覚えてるわけないし)が、気になったことが一つ。
 このお題とどう関わっていたのかは忘れてしまったが、都甲先生がバフチンのポリフォニー論を一人称に関しても適用できるのではないかという論を展開したのである。
 バフチンのポリフォニー(多声性)論というのは、ドストエフスキーの作品においてはそれぞれの登場人物の様々に異なる主張や意見がことごとく対立したまま描かれているとか、そういうことだ。バフチンによれば、それまでの文学作品は、一見異なる意見を持つもの同士の対話があっても、最終的には作者の肩入れする方向に回収されてしまっていた。
 三人称の小説であれば、作家が公正な審判のように、ある種の誠実さに基づいて人物を造形すれば、そういう優れたテクストができるのだろう、という気はする。それは「違う人を、違うように」描くということだからだ。
 しかし、それは一人称でも同じことなのである。私たちは、日常的に「同じ人を、違うように」提示し続けている。例えば以前千歩くんが言ったように、私たち日本語話者は、当然のようにさまざまな一人称を使い分ける。友だちの前では「おれ」、先生の前では「ぼく」、面接官の前では「私」など。そのことについていちいち混乱を覚える人はあまりいないだろうと思う。なのになぜ、小説の中ではあれほど人称がきっちり統一されるのだろう?

2010/02/01

短めの小説

投稿者 Chijun   2/01/2010 0 コメント

「本日出展を予定しておりましたブースNo.XX「◯◯△△建物(株)」について、当センターに提出されている求人は充足しました。したがって、本日は欠席となりました。」

とA4版わら半紙に刷ってある、それが挟んであったのは、就職合同説明会で配られたピンク色の冊子で、パラパラめくってみると沢山の求人票が次々に目に飛び込んできて、最後のページ数は「-134-」と記されてある。

ひるがえって表紙を見ると、上から順に、開催日、開催時間、会場、主催者が書いてある。

「平成21年9月8日(火)、9日(水)、10日(木)」

そうか、あれからもう三ヶ月が経っているのか。これではあっという間に30歳フリーター職歴なしのわたし、になってしまうではないか。

「13時00分〜16時00分」

29歳フリーター職歴なしのわたしには少し早く感じられる時間の、それでも神経質で几帳面なところもあるわたしは30分前には会場に着いて見渡すと、「インフルエンザ流行のため着用義務」とされていたマスクをしているのは10人に1人か、2人しかいなかったと思う。もちろんわたしはしていった。

もう一度ひっくり返して裏表紙を見ると、そこには会場案内があって、各ブースとその番号が図示されている。そうそう、最初わたしが行ったのは11番のブースだった。そこではベテランにしては落ち着きのない男性社員と、じっと目の前一点を見据えて動かない若い女性社員が待ち構えていた。

この冊子には、黄色い「企業訪問カード」というのがまた挟まっていたのだが、そこにわたしの字で、名前や年齢や住所・連絡先、学歴の欄が埋められてある。席に着いてこのカードを差し出したとき、男性社員の方は「いらっしゃいいらっしゃい」とわたしの顔ばかりを見てえへらえへら笑っているばかりだったが、女性社員はちらと鋭い一瞥をカードに与えた(ような気がした)。

各ブースには二つの席があり、わたしがその席に着いて間をおかず、若い、肌の灼けた男の子がとなりに座った。彼が出した訪問カードをちらと見ると、新卒の子のようだった。わたしより七つも年下である。大学に在籍しているようだったが、学校名は聞いたことがなかった。

会社訪問の日時を言い間違えて慌てて自分で訂正したり、創業年を言い間違えてニコリともしない女性社員にすかさず訂正されたりしながらも、なんとか男性社員はわたしたち二人に説明をし終えるまでに漕ぎ着けた。そこでようやく気付いたかのように彼は企業訪問カードに目を留め、老眼に苦しみながら、まず男の子の素性を確認した。

男の子に向かっては「君スポーツはやってますか?いや〜、やっぱだいじなのは明るさと体力なんですよ!」と大きな口を好意的に開けてのどちんこを震わせていた男性社員は、わたしのカードを見て一変、「ええ〜。ほんとうに。あぁ、そう。そうかあ。いやぁ。すごいねえ。へえ〜」と老いた眼をさらに細くしてカードとわたしを見比べた後、「でもねえ、あなたみたいに優秀な人がうちなんかに・・・いや〜もったいないなあ。もちろんだめとはいいませんよ。学歴だけでねえ、そんなことは言えませんよ。でもねえ、もったいないなあ」

「そうですか?でもみなさん全く同じようにおっしゃって、わたしを排除するんです」

なんてお行儀の悪い言葉は「優秀な人」わたしの口から飛び出すはずもなく、予定調和的に最後に名刺を受け取って席を立った。見ると男の肩書きは「東京支社長」だった。

それから確か26番のブースに移ってまた話を聞き、とりあえず訪問しようと前日決めていたのはその二社だけだったので、挙動に気を遣って神経をすり減らし、慣れない集団の熱気にも疲れてしまったわたしは、会場を出てトイレに入り、便座に座り、一人になって大きく息をついた。三時間の開催時間のうちまだ一時間も経っていなかった。それでもわたしは帰ることにした。その時間に会場を出ようとする人はいないようなので、トイレを出るとあまり目立たないよううつむいて歩き、エレベーターは使わず階段でそっと降りた。

ーーー


帰りの電車の中でくたびれて目をつむっていたら、ふと小説の冒頭が聞こえてきた気がした。

「こんにちは」

「・・・・・」
「こんにちは」
「・・・・・」
「こんにちは」
「・・・・・」

これだけだ。これがわたしの新作のどうやら全てのようで、その先はいくら粘っても聞こえてきそうになかったから、無理にその先をこじつけるようなまねはしなかった。

こじつける。そうだ、まさにそんな感じだ。自分に鞭打って机に向かっていた時はいつもこじつけるかんじがして、そうじゃなくてとつぜん頭の中に鳴り響くような稀なときだけ、わたしの小説は自然に進んだ。

とはいっても、今回のは冒頭の六行分しか進まなかった。誰やらわからぬ人が「こんにちは」と、これもまたわたしにとってもその誰やら分からぬ人にとっても未知である人に問いかけているようなのだが、「・・・・・」と返事がない。二人ともわたしの新作の登場人物らしくはあるが、この調子では二人ともどんな人物なのかはっきりしないまま延々と続き、何もないまま終わってしまいそうだ。いつの話か、どこの話かのイメージも付いてない。それでも頭の中に鳴り響く小説の声はここで中断してしまったのだから、しかたがない、と思う。

この小説に続きはあるのでしょうか?

仮に続きがないとしても、わたしはこの小説がこれだけでそんなに嫌いではなかったのだから、困ったものだ。

2010/01/26

《顔》

投稿者 じん   1/26/2010 0 コメント
 壁に空いた穴の向こう側から、すぐそばに座った客を見つめている垂れ目の《顔》。いやらしさはない。優しげな、どこか悲しそうな目で、そっと見守っているようですらある。視線の先の男は、自分が見られていることには気が付いていないようだ。
 ここはファーストフード店の喫煙室で、仕事を終えて疲れたサラリーマン、友人の悩みを大げさに同情しながら聞く中年女性、げらげらとはしゃぐ学生たちが、同じ空間にいながら、違う世界、違う時間を過ごしている。やがて手元のコーヒーやコーラ、フライドポテトなんかがなくなり、最後の一服を終えれば、またそれぞれの場所に帰っていくのだろう。そんななか、《顔》はずっと、同じ場所で、いつも同じ一つの席を、見続けている。その席に座った客のうち、いったい何人が《顔》に気がつくだろうか。今座っている男のように、視線にすら気がつかないのがほとんどだろう。それでも《顔》は見守っている。
 男がタバコの火を消した。さっきより少し表情が和らいで見えるのは、コーヒーとタバコのせいだけではないかもしれない。



2010/01/23

コラージュ@京都(去年のことだけど)

投稿者 福田快活   1/23/2010 0 コメント
木製の床は、音が脚からつたわってくる。とくに低音が。

まずはこれを開いて音
を再生して。再生する音源はどれでもいい。


20ほどのフロアで踊る客は少なめ、左に右に体をすべらせるステップ、流りなのかみな同じようなステップ、混に体同士をぶつからせることもなく銘が音と踊りを堪能している、のだろう。足につれて世につれ、ゆらす頭は朦朧と酩酊してくのは酒にか音にか攪拌された意識の粒はイザ、ビトごとに飛びだしてく交感、うねってってく瞬間


小さいハコだとありがちなのは閉鎖感。常連同士の、排除することで高まるナマカ(流行らなかったね(つд⊂))感、意識的積極的に排除を進めてるつもりはないんだが、人口の83%が顔見知りとなったときに83%の意識から抹殺される17%、は思うしかないだろう――ってドラマでも見ヨッ☆……あ゛見たいドラマがなかった・・・orzそんな2009年


ではそんなことなかった。もっと正確にいおうKYOTO JAZZ MEETINGぢゃそんなことはなかった。ちっさなハコで、フロア20にラウンジ20。常連もいればそうぢゃないのもいる。それぞれがそれぞれで好きに自分たちの時間を酒で音話でしんでる。ソファでいちゃついてるカップルはご愛嬌の定番。微笑を誘う。こうでなくっちゃ!踊りながら体を寄せあうカップルもおなじ


波にさらわれて潮まかせな夜の魚たち、ながれの源は一段たかい壇上、刈り込まれた髭、夜を熱帯にするサングラス、クビでヘッドホンおさえ、手は自働的にさまよい音がひいてはよせるわだつみに、あしたはないと浜千鳥、たつは都の唐錦、いろも綾によする光、となりの男がくずおれた。呑みすぎ踊りすぎ楽しすぎ


DJス上、沖野好洋は、兄沖野修也とKYOTO JAZZ MASSIVEをやってると言った方が通りがいいだろう。クラブジャズの定番(1)、と知った口たたくのはもう。。。でもクラブジャズてなに?都 会が夢でいられる音楽。都会ではオサレな男女がオサレなクラブでオサレな腰ふってオサレな時間に流されてゆく。もういまのニッポンぢゃ都会にユメなんかな いことはばれてしまってる。「都市の空気は人を自由に」なんかしない。でも都会に夢を感じることができる人はいる。もし少しでも感じられるなら、クラブジャズを聴いてみるのもいいかもしんない。


コラージュの客のありかたは見事にそういう意味でクラブジャズ的だった。都会が夢として存在してた。ちょっとその夜の客数は少なかったが、他人に干渉するこ となく(鬱陶しいナンパもないし)それぞれが自分の持ち分で楽しんでる。あの数時間だけ、コラージュの空気は「人を自由に」してた。そう思えば「コラージュ」って名前もふたむかし前のポップアートのステキさ、ニューヨーク的ステキさに繋がる。



(1)
もう、音のジャンル分けは「みんながわかったになれる用」に細分化されすぎて、かえって誰もわかれないアミダクジとしか思えないんだが、むかしTSUTAYAで沖野修也が「ラウンジ」となってたのは腑に落ちた。もうジャンル分けは音性じゃなくて雰囲気の問題でしかないんだ。あるいはジャンル分けはそもそも雰囲気の問題でしかなかった。

2010/01/21

ダダの詩を作ってみた

投稿者 サトウ   1/21/2010 0 コメント

ダダの詩をつくるために


 新聞を用意しろ

 ハサミを用意しろ

 つくろうとする詩の長さの記事を選べ

 記事を切りぬけ

 記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れろ

 袋をそっと揺り動かせ

 切りぬきをひとつずつとりだせ

 袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写しとれ

 きみにふさわしい詩ができあがる

 今やきみはまったく独創的で魅力的な感性をもった作家というわけだ

 まだ俗人には理解されていないが


(塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』九〇頁 トリスタン・ツァラの詩)





 というわけでやってみました。使用テクストはドン・デリーロ『コズモポリス』(小説)、ニーチェ『この人を見よ』(哲学)、緒方弘一『今日はこれ食べたい!』(料理本)である。偶然開いたページをコピーし、これら三つのテクストから適当に数行ずつ切りとり、それをさらに文節ごとにばらばらにして混ぜ合わせ、ランダムに配列し直した。改行・行空けはとりあえず文字列が完成した後適当にやってみた。





  自分のきみは濡れている。

  しゃぶしゃぶ用一瞬どころかきみを座っている──7~8cm 来ない


  「硬くなりっこないわ。

  と彼女は言った。

  走者という感じる。

  その日を羽目に日にはな。

  生まれついてのを背負わされている。

  わけではない。シートベルトをしてきみは寂寥感や

  私は事実上、五時間もユダヤ教・キリスト教的な皮をむく

  麻痺させて

  タイプだよ」



  晴れ着に……過ぎ去った……とんでもない、きみのことを



  とんしゃぶであったか私は

  ジョギングのではということだが──すっかり痩せこけ、人々はジョギング

  誤った何者かが感じないって。

  どれくらい自分のような……こういう連中がたるんだ体を見つめる。

  六時間も!──(写真は一人分)



  三つ葉2束興奮してしまった



  許されないとわかっているという運命

  飢えに窶れた

  「お尻のあるし、タイプの歴史的研究にさえ、心理的にそこにこういうから解放される。

  までに、なくなった見つめて、大根1本と語っているあいだ、わかる。


  投げ出せ

  悲劇的な

  わかっている


  「それだって豚ロース肉芸術によって包まれて半分に切る起きているかことを材料/生まれついて進路を求めるようにほかはしていて、男が衰えていく、わけだから」


  その揚句、──本来の同じさ。生理学と言えば俺には自然科学との全面的に切り落とし、そんな強要される悟った、走るのを恐しい多くのにわかにきみがみるなら、使命のといういたのだ! 余りに時期もグルリと悲しい重荷を座っている抱えて決定し、電気が自分の然るべき医学と精神の芸術のような「帝国」来るすると、十年、私は切り、400g 飢餓感をはずよ」


  きみはことを。そのあいだ何も女だ。所業。

  きみが声に

  日が長さに

  自分のいまさら座ったという栄養摂取は

  阿片を

  きみは恥じた。椅子にもうところでうちに

  きみを無益で命ずる体臭がである。気紛れ境に、長さを


  私は何が4人分姿をこの病根を

  私の麻酔剤的はっきり陥って謙遜さを厚く

  私は

2010/01/17

母なる証明

投稿者 Chijun   1/17/2010 1 コメント

私立男子校で中学二年生に国語を教えている連れがある日、「ウ音便について学習します」と告げたところ、教室中から「ウォンビン!ウォンビン!」という叫び声が上がったそうだ。

中二男子もよく知っているウォン・ビンは、「韓流四天王」の一人として日本人にも親しみ深いが、2005年から兵役につくものの途中古傷が悪化して除隊され、そして今作「母なる証明」(ポン・ジュノ監督)が復帰第一作となった。

以下ネタバレ注意

復帰第一作にしてなかなか挑発的な役柄である。ウォン・ビン演じるトジュンは知的障害のせいで悪友からからかわれ、都合よく利用される毎日。そんなトジュンがある日、少女殺人容疑で逮捕される。トジュンの知的障害をいいことに、警察は不十分な状況証拠のみでトジュンに罪を負わせて早々に事件の決着を図ろうとし、必死に息子の冤罪を晴らそうとする貧しい母がなけなしの金を積んで頼んだ弁護士は、トジュンを精神病院送りにすることで手を打とう、と取り引きを持ちかけてくる始末。

トジュンの母は息子を溺愛している。迫害者たちから守るため、その分よけいに深く母は息子を愛している。息子の冤罪を晴らすため体を張って真相を自ら究明しようとする母親、その美しい母性愛に感情移入しつつ、観客はともに真犯人を追いかけてゆく、という一種の定型的な軌道に身を委ね、「なるほど、この映画はこの方向で観ればよいのか」と安心しつつ、一方で型にはまった物語を追いかけるときの退屈を覚え始める。

しかし、その退屈はどこか居心地の悪い退屈である。この母子の愛情はどこかおかしい。なにか行き過ぎている、という思いが、ときに観客の脳裏にちらつく。というのも、成人の肉体を持った息子トジュンは毎晩母に添い寝したり(母子二人きりの家庭である)、息子が立ちションをすれば母は脇で出尽くすまでじっと見ている、といった場面が、所々で挿入されるのである。「美しい母子愛物語」に観客が疑問を忘れて没入しかけた頃に、そういった場面が随所に散りばめられているのである。

どこか居心地の悪いそのような流れのなかで、観客が美しい「母子愛」に決定的に裏切られた、と感じるのは、拘留されているトジュンの口から、面会にやってきた母に対して、お前が昔僕を殺そうとしたことを僕は忘れていない、というシーン。トジュンが五歳のとき、子育てに苦しんだ母は心中未遂を図っていたのだ。息子にそのことを告げられた母は(息子は忘れたものと信じていた)、面会室で泣き叫び狂乱の体をさらす。

ここで観客は、過去の罪悪感ゆえに母の愛情は行き過ぎていたのか、と一つ納得をする。と同時に、トジュンを犯人に仕立てるために嘘をついていた人々のみならず、唯一真実と共にあり真実の追究者であると信じられた母までもが信ずるに値しない人物である、という場面を見せつけられ、この映画のなかでいったい誰を信じればいいのか、どこに自分の立脚点を定めればいいのか、という不安に落とし込まれる。

これについては、最初は「息子の冤罪を晴らす母 vs 疑わしき人々」という構図で観客は母に視点を同化させるよう仕組まれていた作品が、「観客 vs 母を含めて誰一人感情移入できない作中人物」という構図に広がりを見せた、ということができるだろう。後者に移行した時点で初めて、観客は自分が作中人物と対等な立場に立たされている、と気づく(と同時に、それまでは作品の外の安全な位置から、視点人物=母親という一人の人間の、全てを知った気になって安穏と鑑賞していた、ということに気付かされる)。これが、感情移入していた作中人物に裏切られるという経験の、鑑賞者にとっての重要性であろう。

息子の糾弾を受けてなお真相の探求を続ける母の前に、貧しい廃品回収業者の男が現れ、トジュンが少女を殺害する現場を自分は目撃していた、という。ここでも母は狂乱の体となり、この男をその住処ごと焼き殺すに至る。トジュンによる少女の殺害場面がこの男の口から語られる際、スクリーンに映し出されるのは真相を語る廃品回収業者の姿ではなく、廃品回収業者が見た(という)そのままの、トジュンによる少女の実にリアルな殺害場面の再現である(困惑するトジュンの身体動作などは、こちらの身体に直に訴えかけてくる)。

暗黙の信頼関係を結んでいた母親に裏切られた観客は、ここで第二の裏切りを経験した、と感じるであろう。知的発育が遅れ、そのせいで嘲笑され、殺人事件の犯人にまで仕立て上げられようとしていた純粋無垢な「犠牲者」トジュンが、じつはこの殺人事件の真犯人なのではないか、と。しかし観客が突きつけられる廃品回収業者の「真相」にも留保が必要である。というのは、この男は被害者である少女の「常連客」の一人であり(少女は売春行為を何人もの男性相手にしていた)、そうであればこそ警察にも通報しなかった。男が語る台詞と共に映し出された犯行現場の映像では、彼が銀のシートを敷いて、米を用意して待っている事実が同時に写されていた。

ここで母親の言動について振り返ると、彼女が狂乱の体を見せるシーンがいくつかあり、1つはトジュンが5歳の心中未遂を語るとき、もう1つは廃品回収業者を殺害するときである。2つに共通するのは、母親が自分の知らない息子と対面したときだといえよう。自分の大切な息子が、自分が信じるのとは違う姿で現れるとき、母は狂う。過去の過ちに目を伏せたく異常に溺愛するが故に、全てを理解していないと、一線を超えて変貌する。

無実の息子を救おうと懸命な母親に寄り添いながら(のみならず応援しながら)、疑わしき作中人物たちの間を観客はともにさまよい歩き、母性愛の裏返しである母親の妄信的狂気が高まっていくのと同時に、二度の大きな裏切りを通じて、わたしたち観客は(映画館のクッションの効いた席に座っていながらに)実に不安定な感覚のなかにあることに気づく。誰にも感情移入・視点同化できず、母親もトジュンもふくめて全員を疑い出す。この疑心が観客を母の狂気へと接続する、つまり誰が真犯人か分からないことによって、より母親の狂気が浮き上がり、観客をその狂気の感覚へと道連れにする。

ここまで考えると、この映画が実に綿密に仕組まれたものに思われてくるのである。トジュンが知的障害者であること、母親が暗い過去を持ちながら息子を溺愛していること、トジュンの友人が腹黒いこと、警察が無能なこと、殺人事件の真相がきわめて思わせぶりなかたちで示されるものの結局は明かされないこと、などなど、全てが監督の計画通りなのではないかと・・・。

狂気、という抽象的な概念が見事に印象づけられる、すごい映画なのではないかと思った次第です。ちなみにわたしはこの映画を観るまで、ウォン・ビンのことは何も知りませんでした。
 

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