あ、1本いいっすか?

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2010/04/15

親しい間柄での丁寧語使用について

投稿者 じん   4/15/2010 0 コメント
 友人同士であるH、D、K、S、計4名の会話について、言語の対人関係の確立や維持・調節にかかわる働き(ポライトネス)の観点からの会話分析を試みる。全員23歳で、全員男性である。4人はコーラスグループとして活動しており、これから分析するのは、練習中、ある曲を歌い終わった直後に反省を行い、その後雑談に移行する場面である。Hはグループのリーダーである。

 各行左の番号はデータのライン番号を示す。その右の大文字アルファベットは発話者のIDである。(0)は前の発話との間にポーズがないことを示す。[ ]は[ ]とのオーバーラップを示す。[1 1]のように番号が示されたものは、同じ番号で示された部分とのオーバーラップを示す。(( ))は注記を示す。..はポーズを示す。直後に( )で示される場合があるが、これはポーズの秒数である。&は発話が途中で妨害され、次の&で再開したことを示す。

01 H: えーと、歌詞だね。
02 D: はい、そうです、完全に。
03 S: (0)そうですね。
04 D: (0)うん。
05 H: 音はこれ以上はすぐには多分 [1 よく、 1]
06 D: [1 まー 1]良くならない--
07 H: [2 良くならないと思うよね。 2]
08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
09 D: [3 まー、若干 3]俺、自分で問題ある所は[4 押してったよ。 4]
10 H: [4 俺も 4]"slide rule is for"を忘れた。
11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
12 H: ま、それは。
13 D: ま、K((愛称使用))、あのー、..「チョキン」で。
14 K: そだね、切るんだよ[ね?]
15 H: [うん。]
16 D: そうなんだよね。
17 H: ((歌う))"slide rule is for"
18 D: ..歌詞が出ないしー。
19 D: [下っていた部分は大体分かっている。]
20 K: [なんか、う、歌いづらいな。]
21 S: 歌いづらいよね、ちょっとー。
22 K: ...(9)ねー、ここさ、ハ、 大悟、ね、ハミングの方が良いの?
23 D: いや、「ウー」でいい[7 よ 7]。
24 K: [7 うー 7]って、い&
25 H: うん、[8 言っていい。 8]
26 K: &[8 言っていいの? 8]

 オーバーラップが非常に多く、おおむね非敬語での会話である。前の発話との間にポーズがない発話や、複数人で1文を構築する共同発話も見られ、協調的で共感の強い、親密な会話とみてよいだろう。オーバーラップ、非敬語、ポーズのない発話、共同発話は共感的配慮から相手との近接化を図るポジティブ・ポライトネスの表現である。Line 05-06、Line 24-25で見られる共同発話は、受け継ぐ側の発話がどちらもオーバーラップで始まっていて、強くポジティブ・ポライトネスが表現されている。

 その一方で、敬避的配慮から相手との遠隔化を図るネガティブ・ポライトネスの表現も見られる。Line 05では「良くならない」ことを指摘することに相手の「他者と一定の距離を保ちたい」という欲求を侵害するリスクを感じたために、曖昧な表現になったものと思われる。係助詞「は」が繰り返し使用されることで文の主題が曖昧になり、さらに「すぐには多分」という表現で言語的な距離も長くなっている。また、核となるべき「良くならない」は、Hの発話では言いさし表現となり、これは敬避的配慮をさらに進めた言及回避、ほのめかしのストラテジーである。

 冒頭部で丁寧語が見られるのが興味深い。丁寧語は聞き手をソト待遇するネガティブ・ポライトネスの表現であるとされる。これは話者の関係や、全体の発話の親密さにそぐわない表現である。丁寧語は、会話の後半、雑談に移ってからも見られる。

 @は笑い声を示す。発話が@で挟まれた場合は、笑いながらの発話である。

27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
28 S: [9 @@@@@ 9]
29 K: ((楽譜を見ながらの独り言))[10 そか 10]
30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
31 H: はまっちゃいました。
32 D: DVDありますよー。
33 S: あれ((DVDではなく、バンド自体を示す))やばいよ[11 ね 11]
34 H: [11 買いましたか。 11]
35 S: ライブ聴きたい、[12 ライブ。 12]
36 D: ((Line 34への反応))[12 え? 12]
37 H: DVD。
38 D: (0)俺、だってライブのときに買ったもん。
39 H: あ、そかそか[そか。]
40 D: [うん。]
41 S: 貸して? @@@
42 D: いいっすよ。
43 H: やっぱ”Feel It In The Air”((曲名))はやばいよね。[@@]
44 S: [あれ]やばいね。あれも、できたらやりたい。 @@@
45 H: @@ ま、あれは割とアカペラっぽいからね。
46 S: うん。((歌う))”I can feel it comin’ in the air tonight, oh no And Ive been waiting for this moment for all my life, oh Lord, oh no.”
47 H: うす、..行きますか、..もう一発。
48 K: ..もう1回行くー?
49 S: (0)OKー。
50 H: (0)もう一回だけ行っとこうか。
51 S: (0)あいあい。
52 H: (0)歌詞ね。
53 S: ..もう[多分]&
54 H: [歌詞。]
55 S: &大丈夫。
56 H: OK、行こうか。[13 “slide rule is for”。 13]
57 D: [13 ま、正直 13]&
58 K: これあるよー、[14 歌詞ー。 14]
59 D: [14 あの 14]一回目は[15 分かるん 15]だけどー、
60 K: [15 @ 15]みんな、はい。
61 D: うーん、けど[2巡目に入ると、「うーん、わからない」って]なるよね。
62 H: ((歌う))[“slide rule is for”]
63 K: ((歌詞の文字が小さいのを見て)) @この、@[@ 豆粒のような。@]
64 S: [2番目一回しか歌わないしね。]
65 H: @そうそうそう。@

 丁寧語及び丁寧な表現が現れているのは、Line 02、03、08、11の練習の反省部分、Line 27、31、32、34、42の雑談部分、そしてLine 47の練習再開を促す部分である。話者別にみると、Hが4回、D、Sが3回、Kが0回で、H、D、SとKの間には明らかな差ができた。発言権をとった回数はHが22回、Dが18回、Sが15回、Kが10回で、発言回数の差以上に、丁寧語の使用の差は大きいようだ。このデータを見る限りでは、Kは、親しい関係にある者同士の会話において丁寧語を使用するというストラテジーを持っていない。Kの発話は全て練習に絡むものであり、Line 27-46の雑談には参加していない。会話を雑談と練習に分ければ、丁寧語は練習に絡む内容の発話に6:4で若干多く現われている。

 以下に丁寧語が現れた個所を抜き出す。

(1)     01 H: えーと、歌詞だね。
       02 D: はい、そうです、完全に。
       03 S: (0)そうですね。
(2)     08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
(3)     11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
(4)     27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
       28 S: [9 @@@@@ 9]
       30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
       31 H: はまっちゃいました。
       32 D: DVDありますよー。
(5)     47 H: うす、..行きますか、..もう一発。

 練習に絡む内容に若干多く丁寧語が用いられている。雑談と比べれば、相手との関係に距離をとるのも理解できるが、使用頻度に大きな差はないため、他にも距離をとる理由があると考えるべきだろう。

 丁寧語の聞き手ソト待遇機能を考慮して、ウチ/ソトを分ける基準を考えてみる。(1)、(2)、(3)の練習の反省の場面では、ミスを認めた者が丁寧語を使用している。ミスを指摘した側と指摘された側、あるいはミスを認めた側と認めていない側という区別を反映していると見ることもできるだろう。(5)も練習に絡むものであるが、こちらは意識が練習に向かっているものと向かっていないものという区別といえる。(4)では、あるバンドに”はまった”者と、もとから好きだった者という区別を考えると、ウチ/ソトの区別が説明できる。丁寧語を使用しているのはもとから好きだった者である。丁寧語の使用により、新たに”はまった”ものをソト扱いし、揶揄するような印象を受ける。雑談に参加していないKは考えないこととする。

 相手をソト待遇する側は、ウチ/ソト関係からみると、ウチ側となる。丁寧語が内輪であることを示す標識としても機能しているということになり、このデータでみられる親しい間柄での丁寧語使用は、ポジティブ・ポライトネスの表現であるということができる。

 丁寧語の使用をKはこの丁寧語使用というストラテジーを使用していない。このデータを見る限りでは、このストラテジーをもっていないように見える。

 もう1点、遠隔化の理由として、社会言語学的観点から、中村(2007)の、新しい「男ことば」を挙げることができる。「上下関係にもとづいた『おれとおまえ』の密着した親しさは、かっこ悪」いため(中村 2007, p.68)、「若者のような上下関係が少ない横並びの集団の中では、互いの『親しさ』を調整する言語資源が必要」となり、〈距離〉の表現である敬語が使用されたと考えられる。なお、中村(2007)では〈距離〉の表現としての敬語は敬語の用法の変化であるとされているが、滝浦(2008)からすればこれは当てはまらない。

 中村(2007)の観点では、参加者が全員男性であることを重く見て、セクシャリティとジェンダーに絡めた議論を展開するところであるが、ここでは深く立ち入らない。簡単に触れておけば、「男らしさ」にとって異性愛であることは重要な要素であり、同性愛は嫌悪される。そのためあらゆる手段で同性愛者とみなされることを避けなければいけない。〈距離〉の表現である敬語はこのための手段となりうる。

参考文献

中村桃子. 2007. 『〈性〉と日本語 ことばがつくる女と男』 日本放送出版協会
滝浦真人. 2008. 『ポライトネス入門』 研究者

2010/04/12

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)

投稿者 福田快活   4/12/2010 0 コメント
チャック・パラニク(チャック・パラニューク)というアメリカの作家しってる?って聞いても「はあ?」がふつうの返事。一般的知名度なんかないに等しいんだから「はあ?」は不思ギでもなんでもない。でもこう言えばわかってくれる人はけっこう多い↓

「『ファイト・クラブ』って映画あったじゃん?99年くらい。ブラピとエドワード・ノートン主演でほら喧嘩って楽しい!ってやってるやつ」
「ああ、あれ!あったあった」
「その原作者」
「ああ、そうなんだ。へーー」

「わかってくれる」って言っても返事は「へーー」で、それはそれでしょうがないんだけど(だってそれ以上何を求めようか?)、この人はとってもいい作家なんだ。へたな万言を尽くすより、、、で彼のインタビューとか取材物をあつめた『non ficition』ってステキな本がある。巻頭の言、みたいなやつが作家パラニクのスタンスを明快簡潔に表してるんで、ちょっと翻訳してみるから読んでみて。「ちょっと待ってよ。その前にパラニクとかパラニュークとか併記されてるのはなんで?」ってツッコミもあるよね。「併記」とかむずかしい言葉つかうね?とおれも自分ツッコミ入れたくなるけど、日本での慣用はパラニュークなんだ。でもこれはただの英語音で本人は明確に「pɑːlənɪk」って発音してるんだから片仮名にするならやっぱ「パラニク」でしょ?パラパラなお肉みたいでパラニクの姿勢にぴったしだし。。。

では本編のはじまりはじまりー

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
もしまだ気づいてないなら、ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」についての本だ。

ある意味それはアメリカンドリームの逆:すっごい金持ちになって脱けだすんだパンピーから、高速にいるあんだけの人、もっとひどいかも、そう通勤電車。 ヤ、ドリームはおっきな家だ、どっか独り離れて。ペントハウス、ハワード・ヒューズみたいに 。山頂の城、ウィリアム・ランドルフ・ハーストみたいに。ステキな隔離されたねぐら、きみが気に入ったパンピーだけ招待すりゃいい。きみがコントロールできる環境、争いと痛みから自由――そこできみは「支配する」。

それがモンタナの牧場だろうが、10000枚のDVDと高速インターネットつきの地下室だろうが、これだけは期待できる。そこにたどりついたら、独りだ。寂しい。

もう十分に惨めになって-ファイト・クラブマンションの語り手みたいに、本人の美しい顔に疎外された『インビジブル・モンスターズ』の語り手みたいに-初めてぼくたちはステキなねぐらを破壊し、自分自身をより大きい世界に強制送還する。いろんな意味でこれは、小説を書く方法でもある。考えて調べて。独りで過ごして、きみがすべてをコントロール、コントロール、そう、コントロール!するステキな世界をつくる。電話は鳴りっぱなし。メールは積み上がってく。自分のモノガタリ世界のなかで過ごすんだ、破壊するときまで。そうして他の人と過ごすためにもどってくる。

もしきみのモノガタリ世界がじゅうぶん売れたら、ブックツアーにいける。インタビューされる。ほんとうに人といっしょにいれる。たくさんの人。人、人、ヒトに病んなるまで。脱走する夢に餓えて、逃げたくなる・・・

また違うステキなモノガタリ世界へ。

で、またはじまる。独り。いっしょ。独り。いっしょ。

たぶん、これを読んでるならこの円環がわかるはず。本を読むのは集団活動じゃない。映画とかライブにいくのとは違う。スペクトルの孤独の端なんだ。

この本の中のモノガタリすべては「他の人といっしょにいる」についてだ。ぼくが他の人といっしょにいる。あるいはひとびとがいっしょにいる。

(中略)

これぜんぶノンフィクションのハナシ・エッセイで、小説のあい間に書いたんだ。ぼく自身の円環はこうだ:事実。フィクション。事実。フィクション。

書くことでヒクことのひとつは「独りだ」だ。まさに「書く」部分。孤独な屋根裏のとこ。大方の想像ぢゃ、そこが作家とジャーナリストの違い。ジャーナリスト・新聞記者はいつも急いでて、目を皿にして、人と会って、事実を掘りおこしてる。モノガタリを料理してる。ジャーナリストは人に囲まれて書いてて、いつも〆 切だ。混んでて急かされて。刺激的かつ楽しい。

ジャーナリストは書いて、きみを大きな世界につなげる。パイプだ。

でも作家、作家は違う。フィクションを書く人は誰でも-人は想像する-孤独だと。フィクションはきみをいま1人の人間の声にしかつなげない、そう思えるからかもしれない。読書はひとりですることだから、かもしれない。それは「過去」で、ぼくたちを他の人から隔てるように思われる。

ジャーナリストはモノガタリを取材する。作家はモノガタリを想像する。

笑えるのは、小説家がこの単一の孤独な声をつくるためにどれだけ多くの時間を他の人と過ごさないといけないか、知ったら驚くから。この隔離されてるかのような世界。

ぼくのどの小説も“フィクション”とは呼びにくい。

ぼくが書くほとんどの理由は、「書くこと」がぼくとほかの人を週に一回いっしょにしてくれたから。木曜の晩に、出版された作家-トム・スパンバウアー-に教えられるワークショップで、彼の台所机を囲んで。当時ぼくの交遊は手近さにもとづいてて:隣人か同僚か。その人たちを知ってるのはただマア、毎日隣に座るハメになってるからで。

ぼくの知ってるいちばんオモチロイ人、イナ・ゲバルトは同僚を“空気家族”って呼んでる。

手近の友達の問題は、引っ越しちゃうこと。辞めるか馘になること。

書くワークショップってのに出会うまでは、情熱をわかつ友なんて知らなかった。書くこと。映画。音楽。理想を分けあった人もいた。パーティー(みんな)で出かける冒険、それがあれば、きみが大切にする曖昧で漠然とした芸を大切にする人と一緒にいられるんだ。こおゆう友情は仕事とか立ち退きに左右されない。 書いても一円にもならない時代に毎木曜のくっちゃべりは――ぼくが書き続ける唯一の動機だった。トム、スージー、モニカ、スティーブン、ビル、コリー、 リック。ぼくたちは闘い、讃え合った。それで十分だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
実際はもっと長いんで、あんま一度につめこむのもナンだから、つ・づ・く

2010/04/05

車内妄想

投稿者 Chijun   4/05/2010 0 コメント

 午前8時21分発、埼玉から東京方面へ向かう上り列車に乗ると、Kは本を取り出し、アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。眼下には、眠る人のうなだれる頭が三つ並ぶ。左右には、横目に吊革を握る人の袖口から覗く白い腕首が見える。電車は混雑していたが、声を出すものはいない。Kの耳には耳鳴りだけが響く。目的地に着くまでに、電車は7つの駅に停車する。

――1年浪人、1年留年。大学を卒業したのが、24歳。誕生日は4月3日だから、1ヶ月経たないうちに25歳。それから2年。この2年で、自分は何をしたか? 作家志望のフリーター君、君の仕事一覧をプリント・アウトしてみたまえ。たいした時間もかからずに、ほとんど真っ白のA4用紙が吐き出されることだろう。……

 Kはズボンのポケットの上をなぞって触感で探り、アイポッドの再生ボタンにあたりをつけて圧力をかける。少しの間を置いて馴染みのない聖歌が女声合唱のア・カペラで歌われるのに続き、皺枯れた、だが軽みのある男声の、英語の朗読が流れ出す。Kは手にした翻訳書の該当部分を追っていく。

 Kを乗せた電車が2つ目の駅に停車する。雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認すると、アイポッドから流れ出る朗読はそのままに、Kは本から目を外す。

――よし、今日はあのじいさんにしよう。……雪崩れ込む乗客の中に一人、ビッコをひきずりながら腰を曲げ、獣のように頭を低め、猛然と人波を掻き分け突き進み、何としても吊革を占拠しようとする老人が居りました。両隣の人を押し退けるようにして自分の場所を確保すると、スッと腰を伸ばしてギュッと吊革を握り締めました。してみると身長は意外にも高く、170センチを超え、体格も急に立派に映りました。体重は70……72キロ。頭はてっぺんまで禿げ上がり、――頭頂部は赤ん坊の肌のようにスベスベで―― 後頭部には、悔い多き人生への未練を切々と訴えるようなうぶげたちがまばらに生えています。目は穏やかさを湛えながらもキリッと引き締まり、周囲の人々に見られているのを過剰に意識するかのように、ぎごちないほど真直ぐ前の一点を見つめています。スッと伸びた外国人風の高い鼻の下のフサフサと豊かな口髭。年は? ……70歳。20歳の時に父親を自殺で亡くし、翌年奥さんになる女性と出会いました。……

 電車は3つ目の駅に停車し、Kはふたたび、雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認する。4つ目の駅にある共学高校への通学生徒数が、この駅でピークに達する。Kはポケットをなぞってアイポッドを停止し、わきかえる女子生徒たちを楽しむ。本は手に持ったまま、老人に視線を戻す。溢れ返る学生に、老人はソワソワしているようだ。電車が出発する。

――おじいさんはその翌年には結婚し、そのまた翌年の桜まいちるなか、可愛らしい男の子が誕生しました。二年後の冬、今度は女の子が誕生しますが、年明け間もなく死んでしまいます。希望に溢れたはずの赤ん坊の人生は、たった11日間で終わってしまいました。埋葬のとき、母親は毛糸でチョッキを編んでやりました。おじいさんとおばあさんの間に静かな、しかし永続的な緊張感が生れたのはそれ以来のことです。ホラ、おじいさんの思い詰めたようなあの眼差しは、悲しみに満ちているようではありませんか。ジッと見ていると時々若い女子学生の方にチラッと目をやるでしょう? あれはきっと、失った女の子の娘盛りを、17歳の花盛りの娘たちに思い描いているのです。……

 4つ目の駅で学生たちがゾロゾロ降りて行くと、確かに老人の眼は悲しみに翳ったようだった。幾分余裕のできた車内、老人の反対側に制服姿の美しい女子学生が残った。女子学生は窓から遠くを見る。車内にさしこむキラメク朝の陽射しが、波打つ黒髪にのって揺らめく。分けた髪のなかに覗く褐色の横顔は、――キュッと結んだ薄い唇は女王様気取り、でも丸い鼻にはあどけなさが残っている――ちいさいあごでスッとまとまり、細く長いくびがつづく。柔らかい髪がやさしくつつむように、くびにまとわりついている。手を半ばおおうまで伸ばした紺のセーラー服からチョコッとはみ出た小さな手は、ドア脇のスチール棒を軽く握る。女子学生は上衣からスカートへと一本の曲線のようになだらかに続き、丈を詰めたスカートがふっくらしたももとももの間に陰を添え、その直下の膝がイヤホンから流れ出るのであろう音楽に合わせ、小気味よいリズムでたてに揺れている。Kはアイポッドのボタンをまさぐり、男声の朗読を流したままふたたび老人に視線を戻す。老人は自分とは反対側斜め後方にいる女子学生を、窓の反射を利用して、相手に気付かれぬまま盗み見る。電車は5つ目の駅に向って出発する。

――おじいさんは毎朝起きると一番にトイレに行き、ズボンを下ろし、裸の膝をむき出しにします。便座にどっかりと腰を下ろして深い溜息を吐き出し、亡き娘のことを思い浮かべるのです。亡き娘を、17歳の若く美しい姿で。街中の人混みをキビキビと直線的に歩く後姿、まるで女王様のように誇らしげに、尻を左右に躍らせて。でも前に回り込んで女王様の顔を覗けば、強く結んだ小さな唇をつけたその顔には、幼い頃から変わらない、あどけない鼻が残っているのです。小さいときからずっと傍で成長を見届けてきたおじいさんは、そのことをようく知っているのです。そして知っていることに自信を持っているのです。立派に育ったあのオシリだって……。あいつは本当にいい子で、反抗期もなかった。末っ子だから可愛がられかたをよく心得ている。クリクリのオメメで表情いっぱいニッコリ笑顔を浮かべる。そうしてその眼を逸らさずにジッと見つめてくる。すると大人の方が照れて、こっちから先に眼を逸らしてしまう。フンッ! おじいさんは便座に腰掛けたまま、木戸に手を伸ばし、手を上下に動かして、さらさらとした木の触感を楽しみます。年頃の娘の肌を思いながら。きっとこんなのに違いない。でも触って確かめるわけにはいかない。そんなことしたら嫌われてしまう。下水道を這いずり回る鼠のように。――やっぱりあなたも……。一定の距離を保ち、その美を讃美する視線を送る限りにおいて、あいつは拝謁するものにクリクリの笑顔を授け与えるのだ。……ちっ、スケベじじいが!

 老人は窓に映る女子学生をじっと見つめ、ズボンのポケットの奥の奥にまで手を突っ込み、眼をキラキラと輝かせ、キョロキョロしている。電車は5つ目の駅を過ぎて6つ目の駅に向かう。この駅間が長く、15分を要する道のりである。Kはふと便意に気づく。排泄を日に3から4度少しずつ分けてする習慣のあるKにとって、朝早い仕事を選ぶ際の大きな難点の一つだ。家で一度済ませても、職場につく前には二度目の便意に襲われる。
 女子学生は、スカートからあらわに覗く肉付きのいいフトモモでリズムをとる。

――タン、タン、タン、タン。コシ、コシ、コシ、コシ。タン、タン、タタタン。コシ、コシ、コシコシコシ。……恐らく32年前、老人は亡き娘を偲びながら、便所のなかでしたのだろう。32年前? ボットン便所だったろうか、祖父の家のあれのように。してみると、土間だったかもしれない。先ずは排泄を――アレも結局は排泄だが――済ませてから。季節は冬、冷たいコンクリートのように固い土、またぐらからのぞく光の届かぬ穴の底、永く深い暗闇、折り重なるように蓄積された、ひり出された人の垢。憎悪の様に激しく腹をつき上げる便意、頭は真空の白に近づき、死に接近するように頬はどんどん蒼褪めて、いつでも出せる、便器はすぐ下にある、それでもためらうように、腹がいたむ! 嘲笑って銀蝿が踊る、眉毛にとまる、悪臭が鼻から頭頂を貫く。流れる血が手の先、足の先までニオイを運び、悪臭と――この部屋の空気と、全身とが一体になる。穴の底には鼠が巣食っているのだろうか、それとも鼠の死屍が今まさに腐りつつあるのか、地下水が滲みだして暗く湿った穴の底、バキューム・カーに吸い余された世々の垢が少しずつ積もり、父の、祖父の、曽祖父の垢が薄く堅固な層となって一枚一枚つみ重なったもの。ここで、曽祖父は弟を殺した後に一息つき祖父は腕をまくって戦争の銃痕を確かめ父は自殺する直前に、この便所で……。この穴の底には、土俗的な、血族的な、逃れられない無限がある。奔流の音を立てて水が、陶器の肌を洗い流すこともない。おうちに帰るまでこらえ切れず、うんこしないとくちからもどすわよ、先生の脅迫に怯えた憐れなこどもとて、逃れられないのだ。そう、傲岸不遜に涙で訴える我がままなこどもにとってここは、懲罰部屋でもあった。この個室には、時間を越えて、恥辱と憎悪が集中している、この一点に――。ボットン便所の薄い壁一枚隔てた西側の部屋では、祖母が、今まさに死につつある祖母が、二度と起き上がることができず蒲団にからだを侵食されつつある祖母が、幽かな、規則的な呼吸音をたてていたのだ。そんなトイレで、おじいさんは、(電車は6つ目の駅を過ぎる。最後の駅は近い。)――ボットン便所の底にフンを落とすといそいそとふりかえり冷たいつちの上にむきだしの膝をつき尻にこびりついたくそはそのままに先ずはやさしく下からなでて形がととのったら手をまるめ次第につよくはやくはげしく父をも赦す女の慈しみの幻想に抱かれて
 老人はうなだれる。

 7つ目の駅に着くなり、Kは電車を飛び降り、人ごみを掻き分け、トイレに駆け込んだ。イヤホンからは、章の終わりにもう一度、聖歌が流れていた。

 女声ア・カペラで。

《処女マリアよ
そは罪人の鎖を解き
盲人に光を与え
われらの悪を清め、……》

 しだいに、よわく……。

2010/03/31

ブランコ

投稿者 じん   3/31/2010 0 コメント
 アルバイトへ向かう多摩都市モノレールが住宅街の上を通り過ぎていく。何の変哲もない、少しさびれた住宅街。その一角に、不思議な公園がある。家と家の間の空地のような空間。それでも看板が歩道に面して建っているので、一応名前のついた公園なのだろう。一面の芝生の真ん中に一台のブランコがある。
 公園のブランコと言えば、小さいものでも大抵横並びに二つは鎖でぶらさげられた板があって、友だち同士二人並んでぶらぶらやるものである。すれ違いざまに顔を見合わせたり、どこまで高く上がれるか競争したりする。そしてスウィングの勢いにまかせて飛び降りて、どこか別の面白いこと、砂場や滑り台、ジャングルジムへと駆け出していくものである。しかし、この公園のブランコにぶらさがっているのは一つだけ。

 そのブランコに、時折、一人の少女が揺れている。たった一人、一人用ブランコがあるだけの公園に、いつも同じ、小学校四年生ぐらいの女の子が、立ったまま、勢いよくブランコをこいでいる。

 寂しそうに座ってこいでいてくれたほうが良かった。そうすれば、何か悲しいことがあったのだろうか、もしかすると、学校でいじめられているのかもしれない、と心配することができる。座ってこいだブランコが大きく揺れることはないから、もしかしたらそこにブランコがあることに気づかず、ただの空き地と気にも留めずに通り過ぎてしまったかもしれない。彼女が元気に大きくブランコを飛ばしているから、僕はいつも彼女を見つけ、そして困惑してしまう。どうしていつも一人なのか。どうしていつも勢いよくブランコをこいでいるのか。どうして大好きな犬のぺロちゃんや、お友達のじゅんくんと駆け回っていないのか。どうしていつも晴れた芝生が緑色に輝いているのか。
 彼女はいつもブランコに乗っている。けれど、いつも彼女が公園にいるとは限らない。彼女がいなくても、公園はいつもそこにあるから、その公園は彼女が現れるときだけそこにある、異世界的公園なのではないかと心配したり、興奮したりする必要はない。それは何の変哲もない住宅街にある、ちょっとだけ不思議なただの公園である。僕はいつもその公園をモノレールの窓から見ている。
 公園の名前を確かめにモノレールを降りたことは、まだない。

2010/03/27

ファンと書いてアニマル浜口と読む

投稿者 福田快活   3/27/2010 0 コメント
ちょっと異色のエントリーを紹介。このエントリーでポエミストはファンを減らしたに違いない。今後が心配される。今回引用者の指摘は〔〕でくくりました。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ほんまむかつくわ。ほんッッまむかつくわ。
ほんまむかつくわ
こんなむかつくやつおれへん。
ヤ、わかってんねん。こんな「むかつく」とかポエムやない言葉おれかて使いたないねんけど、今日はガマンならんねん。ちょっと言わせてくれ。

ポエマージョンや。

なにもんか?て、そんなんおれかて知らへん。いきなしメール寄越してきよって、そんなんこっちかて期待するやんけ。初ファンメールやで。ほんまはじめてするエッチみたいな期待が胸をドキドキさせるやんけ、ヤ、もちろんおれはセックスとかそんなんむっちゃ一杯してるけど、やっぱベッドに並んで座ってる子と会話とぎれたマ!とかドッキドキするやんけ。

せやのにいっきなしコメントするんでもなし、メール寄越してきおってこれや↓

こんにちわ。いつも楽しく読ませてもらってます。ポエマージョンです。ポエミストRYOICHIさんのポエムはいつも人生の応援歌として三木道三『Lifetime Respect』とループで聞かせてもらってます。〔ポエミストは時々ポエムの朗読をアップしている〕なんか他人な気がしないんです。

ポエム愛。ポエミストさんはポエム愛にあふれてますよね。ポエムっていいよね、ぼくほんとうにそう思うんです。だって人生に意味をくれるのはポエムじゃないですか。つらいとき楽しいとき苦しいとき嬉しいときしあわせなとき……そういう「とき」に気づかせてくれるのはぼくの中でポエムが生まれたときです。一篇の真実が80年代のバブルみたいにふわっと生まれてはじける、その一瞬がポエムなんです。なんてポエミストさんに僭越なことを。しょせんぼくは比較級のポエマーですから(笑)失礼の段ありましたらお許し下さい。ポエミストさんの更新楽しみにしてます。
出羽出羽

ありえへんやろ?おれのブログ読んでるみんなならわかるやん?「ポエムっていいよね、ぼくほんとうにそう思うんです。」はパクリやん。おれのエントリー「ポエムってええよな。おれそお思うねん」〔ハイパーリンク削除〕のパクリやん。ポエムはな、個人の内面を素直にありのまま詠いあげるのが信条や、ポエミストはとうぜん、ポエマーでもパクリは御法度やで!ポエムと80年代のバブルとかほんま関係ないし、出羽出羽とか意味わからんし、なんかバカにされてる気ぃするし、なにがいちばん許されへんってこいつ男やん!おれが初めてのチューや思うてドッキドキ眼開けたらそこにおったんわ眼閉じて唇そぼめたアニマル浜口やった……アカンへこんできた。

もう寝るわ。ほんまもー男はメールとかせんといてや。頼むわ。お腹いたなってきた(T_T)女子はバンバン送ってくれてええからな。待ってるで(ハート)

こんなエントリーを読まされたポエマージョンの反応が気になるねー。ふたりの友情物語それはまた次回~~

2010/03/26

路地logyの日曜日

投稿者 サトウ   3/26/2010 0 コメント
 日曜の午後、東京の路地を半日歩き回るという奇妙な体験をした。最初はただ友人と昼食をとるのにいい飲食店を求めてぶらぶら歩き出しただけだったのだが、「ちょっとあっち行ってみるか」「もうちょい行ったらいい店あるかもしれないしな」などと衝動にまかせて進んでいくとなんだか楽しくなってきて(天気もよかったし)、そのままなんと半日(ちょっと都電にも乗ったけど)歩き通してしまった。大通りから生活感漂う細い路地に入っていくと、なんだか不思議な印象にとらわれて、どうにも足が止まらないのである。汗まみれだし、足の裏も痛い。しかし止まらない。もはや自分たちの意志を超えた何者かがわれわれの足を動かしているとしか思えない。都電の終点の三ノ輪橋付近で日が暮れたときには、二人とも「これでようやくやめる理由ができた」、と思わず安堵のため息を漏らしたほどである。高田馬場から歩き出したときには、まさか夕方三ノ輪橋駅にいようとは思いもしなかった。

 なにがこれほど私たちの心をとらえたのだろう。大通りから細い路地に入っていくときの、あの高揚感はなんだったのか。名付けて路地ロジー(Roji-logy)である(くだらないですね)。

 路地歩きは、私たちの日常的な行動様式から二つの意味でかけ離れている。一つは空間的な、もう一つは時間的な意味においてである。

1) 空間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な空間が、室内と街路との間にあるように、私的/公的の安定した境界を保っているのに対し、路地歩きにおいては、そのような空間の諸機能の間に引かれている境界線の揺らぎが起こる。車も通れないほどの細い路地に入り込むとき、定義上は公的な空間、すなわち「誰が歩いても許される道」であるはずの路地が、立ち入ることをためらわせるほどに私的な空気を横溢させていることがわかる。両脇に迫り来る家屋が否応無しに視界の大部分を占め、玄関先におかれた金魚の水槽の水面ではじける泡の音、門に立てかけられた杖、時代に取り残されたかのように古びて傾いた木造の家などの放つ濃厚な私的気配が、窓を閉め切った室内の空気のように、静かに淀んでいる。

2) 時間的な意味における日常からの逸脱

 日常的な時間が(どんな小さなものであれ)計画とその遂行の繰り返しによって成り立つとすれば、路地歩きはその正反対のものとして理解されるであろう。すなわち、進路の変更に次ぐ変更である。もっとも、変更されるべき進路があるのは日常的な時間から路地歩き的時間に移行する瞬間のみだ。その後は判断を可能な限り遅らせたまま歩き続け、分かれ道まで来たら直感にまかせて瞬時に道を選ぶ。路地そのものを味わうためには、路地がどこかへ向かうための一経路に堕してはならない。路地歩きは、前進することなしに成立しないのだが、同時に「どこか」を目指してはいけない、というジレンマを孕んでいる。

 以上の二点は緊密に絡み合っている。用事があって駅を目指して急いでしまえば、いくら空間的な味わいのある路地でも「ただの道」であるし、暇で目的なく歩いていても、そこが前述の「揺らぎ」ある空間でなければ駄目である。

 理論編は以上。次回(っていつだろう)は路地歩き実践編である。乞うご期待。

2010/03/21

電子書籍と紙の本(1)

投稿者 Chijun   3/21/2010 0 コメント

連載になるかどうか分からないけど,とりあえず(1)なんて付けてみた。

わたしはどちらかといえば本をそれなりに読んできた人間なのではないかと思うのだが,ルビ(ふりがな)に使われる仮名が,「ゃ」「っ」などの小さな文字を含め全て大きな文字である,ということに気づいたのは最近の話だ。実に恥ずかしい。(しかし,これ読んで気づいたひとも必ずいるはず・・・)

わたしはいま,「ゃ」「っ」と書いた。最初「ゃ」 「っ」と書いてみたのだが,二つのかぎかっこの間が離れすぎていてまぬけに見えたので,「 」を半角ものに直してみたのだ。「全角」(=1)や「半角」(=1/2)はパソコンをふつうに使っている人なら誰でも馴染み深いだろうが,これが本格的な組版(「印刷の一工程で、文字や図版などの要素を配置し、紙面を構成すること」by Wiki)になると,「三分」(=1/3)や「四分」(=1/4)のサイズなどまで調整することができる。こういうネタは広げればいくらでもあるのだが,要するに,本の紙面には,読者に意識されないような細かいところで,美しく,読みやすくするための知恵がいろいろと働かされているのだ。

「電子書籍」にまつわる話が,最近実に賑やかである。iPhone,Kindle,そして近日発売予定のiPadなど端末の充実が進むに連れ,これまで何度か頓挫してきた「電子書籍」が,どうも今回は本当に一般に浸透していきそうな勢いである。Amazonでは,誰でも簡単に,文章をデータとして登録することで自費出版が可能になる,という話もあるようだ。かくいうわたしも裁断機とドキュメントスキャナを購入し,棚を占領している本のうち,まずは文庫本から電子化作業をちくちくと進めている。裁断機でバスンとひと裁ち,スキャナでビュンビュン読み取るのに,一冊10分とかからない。きっとiPadも発売と同時に買うであろう。

これはある意味おかしな話で,出版社から読者の手元に届くまでにデータを紙に印刷したものを(元原稿が手書きのものもまだあるけど),また読者が手元でデータ化する,というこっけいな事態になっている。実際そう感じた人たちが,「著者→出版社→組版所→印刷所」という本を作るまでの流れの中で,人によって程度は異なるようだが,総じて「下流にいくほど不要である」という意見をあちこちに書いている。極論すれば,「パソコンがあってインターネットできれば,誰でも作家」ということになるだろうか。確かに,無名人わたしもここにこうやって,素人の手すさびのような文章を,不特定多数の読者の目に安易にさらすことをしている。

たとえば出版社(=編集者)が必要か否かという議論はおもに,「本の内容をブラッシュアップすること」に焦点がおかれているようだが,長い紙の本の歴史の中で培われた技術,たとえば上で簡単にだが述べたような,気づかれないところで読みやすくするような技術の蓄積についても,もう少し触れる人がいてもいいんじゃないかと思う次第です。
 

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