お父さん、お母さん……。カカシは泣いていたようだった。ほっぺたがぱりぱりするのは、涙がかわいたあとだ。
気づくとカンナと二人しろくてせまい部屋にいて、出口もなくてどうしようもなくて、となりにすわりこんで、……いつのまにか眠ってしまったんだ。夢のなかでお父さんとお母さんに会ったような気もするけど、夢のなかみはなにもおぼえていない。
「お父さん、お母さん……」カカシは声に出してつぶやいてみる。
オトウサン、オカアサン、オトウサン、オカアサン、オトウサン、オカアサン……
オトーサン、オカーサン!!
突然こだまが大きくなって、カカシは心臓ごと飛び上がった。見ると目の前に知らない男の人が立っていたんだ。教科書で見たことのある白黒の写真の、「ジェントルマン」みたいなかっこうをしたおじさんが、にこにこ笑っている。
「わたしはね君のオトーサンではないよ、もちろんオカーサンでもない。強いていえばオトーサンにちかいということになるのだろうが、仮に、仮にだよ、わたしが君のオトーサンである可能性があるとしよう、しかしその程度の可能性ということで話をすすめるのなら、オカーサンの可能性もけっして捨てきれるものではない、そうじゃないかい? だってこんな時代だからね。見た目だけじゃ決めつけられないじゃないか! ……くふっ」
一息でそこまでまくしたてると、ジェントルマンはこらえきれないように口から息を小さくはきだし、こちらの反応をじっとうかがっていた。少年が目をまるくして口をひらいているだけなのが信じられない、といったようすだ。
「……たしかに君はいい子なのかも知れない、ひとの話は黙って最後まで聞く、まじめにそれを実行しているつもりなのだろうからね。ふむ。じっさい、りちぎなこどもというのはいるものだ。君もそうやって目立たないようにしてきたんだろ? でもね、今ここにはわたしと君の二人しかいないんだ。いいかい、ふたりっきり、ってやつだよ。だとしたら、かくれようとしたってむだじゃないか? わたしの目は、しっかり君をとらえている。すなおになって、おじさんとコミュニケーションしようじゃないか。笑いたいときは、大きな声を出して笑ってかまわないんだよ。それとも、大人の理想でぬりかためられたステレオタイプのこどもを演じるのは本意じゃないとでもいうのかい? おいおい、君ももう少し大人にならなきゃいかんな。さっきの女の子みたいに」
「カンナ!?」
となりを見ると、さっきまですわっていたはずのカンナがいない。
「ほらね、やればできるじゃないか。わたしはね、教育というものに関心をもっている。やれ、といったところで、こどもはなかなかそのとおりにしてはくれない。この場合でいえば、話してごらん、といってみたところで君はだんまりをきめこんだままだったろう。とくに君のようなはにかみ屋さんの場合にはね。この原則は、ひろく応用可能なものだ。勉強しなさい、といって勉強してくれるのなら、そんなに簡単なことはない。勉強したくない? そっかそっか。じゃあやめようか? ときにはそういってみることが有益なこともある。もちろん、その子の性格や個性におうじて臨機応変に対応しなけれなばらない。そしてこどもの個性というものは、こどもの数だけ無限にある。(だからこそ教育というものは底なしに興味深いものなんだ)ところが多くの大人は、こんなに簡単なことをしょっちゅう忘れてしまう。しかしそれも仕方ない。それが大人というもの、すなわち、大人の限界というものだからね」
ジェントルマンは最後にやさしくほほえむと、ドアのない部屋の、壁に向かって歩き出した。カカシはだいじなことを口に出せないまま、おじさんの大きな背中を見ていた。
――おねがい。ぼくをひとりにしないで……
カカシが心のなかでそういうと、ジェントルマンは壁に激突し、その場ですっころんでしまった。
「いい加減になさい! まったくなんて子だ。わたしにも都合があるんだ、しかし……まあいい。たしかにこのままかべをすり抜けられるほど、話は単純じゃない。それにしても、うーん。……なんて醜いこどもなんだろう。あの女の子とはおおちがいだ。……カンナはじつに美しい」
カカシはだいじなことを思い切ってたずねた。「カンナはどこにいるの?」
「きみのお父さんとお母さんは、ある意味どこにでもいるし、ある意味どこにもいない。みんなおなじ……君のカンナだって、おなじことさ。あせることはない。時間はたっぷりある。世界は終わってしまったんだ」
言い終わらぬうちにジェントルマンは、スイッチが切れたかのようにぷつりと消えてしまってね。カカシはほんとうにひとりぼっちになってしまったんだ。