あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/03/08

新聞って怖い

投稿者 サトウ   3/08/2010 1 コメント
 おもしろいバイトをしている。一日中電子データ化された新聞記事を読み続けるバイトだ。たとえば「野口聡一とは誰ですか」などとあらかじめ与えられた質問にたいして、検索で出てきた記事が、答えとして適切かどうかを判定する。

 ここにはもちろん、普段はぜんぜん興味をもたないような事柄について詳しくなる、というおもしろさもあるのだが、もっとおもしろいのは、同じ題材を扱う大量の記事を読んでいくと、各々の記事が単体で伝えること以上のもの、すなわち読者をある方向に誘導する「新聞の意図」とでもいえそうなものを読み取れることだ。

 私は新聞をとっていないから、普段はラーメン屋とか喫茶店で暇つぶしに新聞をめくる程度である。そういうときは面白い記事もあれば面白くない記事もあって、「ああ、今日も世の中はこんな感じなのね」と思うだけで終わりだ。視界のほとんどは「いま」に占められて、残りの部分もせいぜい「続報」や「見通し」という形で前後数日分ぐらいがおぼろげに見えるだけだ。しかし、このバイトでは、たとえば「ハンセン病とはどんな病気ですか」という質問について、数年ぐらいの期間に出た200件ぐらいの記事を読んでいく。すると、この病気に関する新聞の報道は、その99%が「ハンセン病の元患者と政府との闘争」という物語を採用していることがわかる。病気の症状がどんなものか、具体的に伝える記事がまれにあっても、それはある特定のハンセン病の患者が、愚かな政治によっていかに虐げられたか、という個別の体験談で、「○○さんは視力を失った」とか「××さんはまゆ毛がなくなった」という程度の記述だ。もし今回のバイトで写真まで見る機会があれば(写真まではデータ化されていなかったのだ)、元ハンセン病患者の外見がどのようになっているか、写真によっては一目でわかるかもしれない。しかし、写真が伝えるものはむしろ文字よりも個別性の高い、一人一人の患者の情報(△△さんの外見はこうだが、□□さんの外見はこうだ)であり、よほど多数の写真を見ない限り一般的なハンセン病の症状を伝えるにはいたらない。ここに私たちは、明らかに意図的な書き落としを読み取ることができる。新聞は一般的なハンセン病の症状や外見を、決して詳述しない。「ハンセン病っていう病気だった人たちが政府ともめているみたいだけど、そもそもハンセン病ってなに?」という人にとって、このような記事は何の役にも立たない。たぶんwikipediaを見たら一発でわかるようなことが、新聞では一向にわからないというのは、ちょっと異様である。なぜこんなに大きな「穴」が空いているのだろうか。

 それはおそらく、症状や外見を記述することが、元患者の政府との闘争に良い影響を与えないからだ。元患者たちは、自分たちへの差別が撤廃されることを望んでいる。差別の撤廃とは、自分たちと他者との「差」が認識されず、一般の人から見たら「別」の人間だ、とみなされないようにすることだ。新聞は、もちろん社会的正義にのっとって、この差別撤廃の実現に向けて世論を動かそうとする。それは、社会的正義を声高に唱えるという「言語の過剰」だけでなく、ある種の情報を意図的に書き落とすような「言語の不足」によっても行なわれているのだ。 

 差別は言語の機能と深く関わっている。私たちは、言語によって混沌とした世界を区切り、秩序立てている一方、「正常な」自己と「異常な」他者とのあいだに境界線を設けることで、自分と異なる人々を不当に排斥してしまうこともある。新聞が症状や外見を書かないのは、記事上でハンセン病の具体的な症状や外見を記述することで、一般の人々が道ゆく人のなかから「あ、あの人はハンセン病だ」と認識できるようになってしまうと、差別の根源である認識上の境界線をかえって太くしてしまうからだ。

 ハンセン病の元患者は、もちろんいままで受けた不当な差別の代償を十分に受け取るべきだと思う。しかし、それとは別に、私は一見客観的に見える新聞記事の記述の意外な恣意性を目の当たりにして、扱う題材によっては世論を悪い方向に誘導することもできるのだと知って「ああ怖い」と思った。新聞をよく読む人にとっては当然のことなのかもしれないし、「メディアが客観的だとは限らない」という言い回しも実際よく聞くのだが、自分で体験したのは初めてだ。

2010/03/03

「インターネット 小説」

投稿者 Chijun   3/03/2010 0 コメント

ふうううううぅぅぅぅぅ~~~~~、っと。

「窒息しちゃうよ!窒息しちゃうよ!」 かわいらしいマスコット化した体中の細胞くんたちの悲鳴が聞こえてきそうなほどに、Kは大きくため息をついた。

こんなはずではなかったのに……。

ではどんなふうになるはずだったのか? 彼の計算によれば、原稿用紙十枚程度の短編であれば、二日あれば終わる(前回がそうだった)。十枚程度の短編にあって、最も重要なのは構想である。えもいわれぬ機転の利いたアイディアである。ひらめきである。書き始めさえすれば、二日で終わるのだ。ならば。執筆時間を残して締め切りのぎりぎり二日前までは、じっくり構想を練るのがよい。あとは、書き始めさえすれば……。
ところがどうしたというのだ? 締め切りまで一日を残して、Kの青ざめた顔色以上に、パソコンのディスプレイはまっしろではないか。つまり、こういうわけである。――残り二日になるまで構想する。これはある程度うまくいったといってよい。構想、すなわち、トイレのなか、風呂のなか、電車のなかで、なんとはなしに想い巡らせればそれでよいのだと思っていた。Kは自分に甘い男だった。

「インターネット空間=異界。」

「仮想現実をむしろ肯定的に。」

二、三行のメモだけを産み落としてはかなくも散った貧しい想像力に疑問を抱くこともないまま、――いまこそ第一段階は終わった。あとはパソコンに向かうだけである。書き始めさえすれば、……。

一日の猶予もない二日分の執筆期間。その第一日目が終了した時点で、Kは自分の誤算に気づいた。

確かに、行き方さえ間違えなければ、二日間で結末にたどりつける。しかしもし、一日目の最後に思わぬ袋小路につきあたり、その日一日の労働がまったく無駄になってしまったとしたら? 構想が、思ったようにはかたちにならぬことを思い知らされるハメに陥ったとしたら?

そうなってしまえば、その時点で即ゲーム・オーバーではないか。一日目の原稿をすべて破棄、二日目一日で書き上げるというのは、凡庸なKには至難の業である。しかもあたためすぎた構想は全て破綻し、Kにはなにも残されてはいないのだ。
あにはからんや。Kはゲーム・オーバー……しかけている。

「インターネット 小説」

やはり困った時は、ツールバーにましますグーグル様だのみである。グーグル様の検索という御手は、はたしてKを救うことができるだろうか?


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オンライン小説最新リンク集2005

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2008年7月23日 ... 中国では,インターネット小説というジャンルが確立しており,人気を博している。プロ作家ないしプロを目指す人も多く作品を公開しているので,日本のケータイ小説などよりはクオリティが高いと思われる。ただゲームを出すよりも, ...
www.4gamer.net/games/051/G005102/20080723057/ - 71k - キャッシュ - 関連ページ - メモをとる」


はいはい、やっぱりそうきたか。でもでもちがうんだよなあ。ぼくが求めてるのはこういうのじゃないんだよね~。リンクをクリックしたりはしないぞ、と。なんといってもおれには時間がないのだ。おれが欲しいのは、インターネットに書かれた小説、じゃなくて、インターネットをテーマにした小説なのだ。
なんとも自分勝手なKの言い分ではないか。Kの愚手にかかっては、さすがのグーグル様とて……。悪いのはもちろんグーグル様ではない。凡庸に凡庸を極めるKの検索のかけ方であることは、言うまでもない。――それはさておき……。Kは次の手段にすがることにした。

これでもないこれでもない……某巨大掲示板の一覧をさまよううつろなKの視線は、「創作文芸」の項を通り過ぎ、なぜか「ポエム、詩@2ch掲示板」のところで止まった。

「なにこれ。おもしろそうじゃん。」

ただそれだけの理由である。時間がないことはさておき、Kはたやすくリンクをクリックした。……と思いきや、Kの股間がそうはさせない。
なにやら股間がむずむず訴えてくるではないか。ポエムはさておき、愛しの彼女はエログ……いやいや、ブログを更新しただろうか?

――――――

「ふうううううぅぅぅぅぅ~~~~~、っと。さてと。執筆に戻ろうか。」

……ダッシュ一本で澄まし顔。なんと厚顔無恥な男。コトここにいたり、著者は神聖なる作家という職業を騙るこの男をのさばらせておくわけにはいかなくなった。Kの恥部を貼り付けよう。賢明なる読者諸氏の眼を汚すのは忍びないが。

http://amebro.jp/nakamura-miku/

なんともハレンチなやつである。執筆という神聖なる労働と並行し、この男はグラビア・アイドルの写メに興奮し、……これ以上は書くこともKに裁きを与えることもできない。せめてリンクを貼る程度が、わたくし著者にできる限界である。

現在時刻は4:30。……って、あれ? 日付変わっちゃった。締切りすぎてるじゃん。あ~あ。また原稿書けなかったお。とりあえず、もう少しネット見てから今日は寝よっかな。

とりあえず、ね。 

――――――
562 :名前はいらない:2008/11/01(土) 04:54:59 ID:Q6CTEF19 ⊇`揺れるイカ§

海水浴場にあふれる

街中にあふれる

地下鉄にもあふれる

イカれた自殺者ぞんびーず

潰れた頭ペッコペコ

歪んだ背骨ガッシャガシャ

飛び出た眼玉トゥモモローン

なんだかイカしてる

今、誰かが飛び降りて

今、誰かが切り裂いて

今、誰かの未来がチアノーゼ

イカんなぁ小島よしおは

誰が殺した

社会が殺した

親が友が夢が世界がお前が殺した

そりゃイカがなものか

いかっぽいあくたがわも

いかがわしいひとらーも

いかめざしたとなりのえろてぃっくろうにんせいも

みーんなみんな

イカいに他界で人間イカ


だが八宝菜のイカの香ばしさよ

563 名前:名前はいらない :2008/11/01(土) 05:13:37 ID:Q5/ywNIU 

        / /   |l /::/       \ \
.      ,イ   |    | |/:::::/   ,イ  ∧  l ヽ \
/   |    | |:::::/ ィ'"¨/ | /  V 、!  ヘ  ヽ
,′  |   l | / ,/ / .| /   ∨|ヽ ハ  ヘ   あ、ここって詩板なんだって~。
i    |   〈j::/ ,/ /   l/     Vヘ  |  ,∧  私も詩集とか読む事あるんだぁ。
| | !    ∨ /,>=ミ. /    ,r=く }|  l| ト、',  面白い詩とか、優しい詩とか、
| | l      V,勹::::ハ '      jr'ハ∨  ||| ヽ 色んな詩があって楽しいんだよ~。
l|八  ', :|   《{::ト :::ノ|      |{::リ }  /! ト、:|
| |∧ ヽ/∨ハ   V弋rリ     Vノ ∧/|| ',l!   詩を書ける人ってあこがれちゃうな☆
Ⅵ V { V::ヘ    ', ¨´      '  '' |  :|/ リ   私も物書きさんになってみたいよ~><
ヽ  V 廴.∨:::ヽ、 ヽ    ( フ   ,.ィ|  :|
∨ ト、.∨ト、\  ヽ 、 _ ..< |/八 ,' 
∨| \{ ̄ ̄\ \/j/}/ |  }/
ヽ|   |\:: :: :: >- \     /
,':: :: ::.// ̄ ̄\
/:: :: ::/ /         \





2010/02/26

拝啓 ジャイアン様

投稿者 じん   2/26/2010 0 コメント
拝啓 ジャイアン様

 突然の御手紙をお許しください。

 あなた様のリサイタル、時折テレビで拝見させていただいております。

 突然ですが、私を含め、自分をさらけ出すことを恐れ、失敗を恐れ、訪れるかどうか分からない“そのとき”を待ち続ける人が、とても多いと感じております。

 そんななか、あなたは行動することを恐れない。派手な衣装を身に纏い、客がいなければ強権、ときに恐拳を発動してでも集め、批判的な周囲の声よりも自分の心を信じる。そんなあなたは、誰よりも強い存在感を示しておられるように思います。

 正直に申し上げれば、あなたの曲も歌声も、私の好みには合わず、意味の無いことを知りながら、思わず耳をふさぎたくなることもございます。しかし、目は閉じず、しっかりとあなたの行動を、1つのあるべき姿として、焼きつけ、その姿に躊躇いがちな私の心を叱咤していただこうと思っております。

 近頃はお声が少し変わられた様で、あの雄々しく力強い歌声を聴くことができず、寂しくもありますが、ますますのご活躍をお祈りします。
敬具

2月26日
じん

2010/02/23

去年9月の歌舞伎……『松竹梅湯島掛額』

投稿者 福田快活   2/23/2010 0 コメント
松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)は福森久助の作だ。

福森久助はまあ、明和4(1767)年にうまれて文政元(1818)年に死んだ歌舞伎作者、『東海道四谷怪談』で有名な作者鶴屋南北のライバルだった人ととりあえず思っといて。

い まも作者名を冠して上演される江戸時代の作者がこの鶴屋南北と、時代はくだって幕末明治の河竹黙阿弥くらいだろう。黙阿弥は「明治になる前に近代だった」 芝居を書く人間でしょうじき好みぢゃない。南北はそれこそ、江戸の髄とでもいえるような芝居を書く、そのライバル福森は、これまでみたことがなかった。 ネームバリューは相対的に低い。

それでも今回(去年の9月。。。)の上演とあって楽しみ、南北とどう違うんだろどう似通ってるんだろ――という期待に駆られていた。

「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕にわかれる。
八百屋お七ものだ。八百屋お七ってのは「恋にはまり過ぎて男にあうため放火する」キャラだ。まちの八百屋の娘っていうより、ダイエーの社長令嬢、「男にあうため放火」ってのは男とあったのが火事のため避難した寺だったから、また火事が起これば会える、と思って放火する。

こ の『松竹梅湯島掛額』ではちょっと違うんだが、基本キャラはかわんないので割愛。。。んーやっぱ軽く説明――避難先吉祥院でお七が惚れた寺の小姓吉三郎、 実は歴とした武家、紛失した御家の重宝天国の短刀を捜しだしてお家再興を図る大事の身。(間があって)この短刀を見つけたお七、吉三郎に届けようとするも 暮れ六つ(6PM)を過ぎ、木戸は固く閉ざされている、木戸を開き吉三郎のお家再興を果たすため、お七は重罪をかえりみず火の見櫓の太鼓をたたく

「男にあうため放火」が「男のために禁を犯して太鼓をたたく」にアレンジされてる。このアレンジは歌舞伎の胆にかかわることだけど、今回は割愛。。。ほんとに

「吉祥院お土砂の場」は中村福助演じる美貌のお七を手に入れようと蒲冠者範頼(史実では源頼朝の弟のひと)が手先をよこしてくる。そいつを撃退するために中村 吉右衛門演じる紅長が、人をグニャグニャにする霊験あらたかなお土砂(まあ砂)で手先もグニャグニャ、寺の上人・小坊主、お七のお母さん、下女・友達かま わずグニャグニャにしまくる、お七だけはしない、お祭り芝居で、このムチャクチャぶりが福助か、なるほどと思ってた。

「火の見櫓の場」は全然違った。

さっきの「(間があって)」以降の筋なんだが、みて欲しい。上のグニャグニャ騒動とノリが違いすぎる。マジメなんだ。悲劇なんだ。

そして何より福助のお七が人形振り。
人形振りってのは黒子が後ろについて操ってる設定で、福助が人形みたいな動きをするんだ。
ポッピングと通うものがある

このお七が人形振りが信じられなかった。

八百屋お七=恋に狂った女=人形操り

観念的な整合性がとれすぎてるんだ。

恋に狂った女は人形である。凝縮された恋の激情は臨界点を超え虚無を爆発させる、黒子に操られる手足は機械的な直線を描き、眼はガラスのように見るものを吸い込む、まさにこの虚無こそが福助の演技の・・・なんたらかんたら

と言えちゃいそうな、いやこういうことはゆえるし、ハズレではない。

「すべてが恋」になったお七は実は「なにももってない」怖さのようなものは
舞台を見てれば感じるんだけど、そゆことは実際にもあるんだろけど

「これって福森久作?文化文政(19c初め)の発想?」

首を傾げる。
この整合性のとり方は近代の発想で、江戸ぢゃあねえな。これ福森ぢゃないんぢゃ?

て思いながらポテチかじってたら気になりすぎたので、買う積りのなかったプログラムを買ったらこうあった――

『松竹梅湯島願掛』は、文化6年(1809)3月、江戸森田座で初演した福森久助作『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「吉祥院の場」と、安永 2年(1773)4月、大坂北堀江座で人形浄瑠璃で初演され、歌舞伎でも人気のあった『伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)』の「火の見櫓の場」 を河竹黙阿弥が繋ぎ合わせて脚色し、安政3年(1856)11月、江戸市村座で初演しました。

福森を観に行って、黙阿弥は「明治になる前に近代だった」をあらためて確認した。安政3年は明治維新まで11年待たねばならない――でおわったらこの文章、整合性とれすぎてるので、
さいごに――バイバイキーン

※そもそも「火の見櫓の場」を入れるのが黙阿弥の発想でも、「狂ったお七は人形」が黙阿弥の発想かわかんないしね。これは黙阿弥の元の台帳で後日、確認しよう。黙阿弥が近代、ってか近代ってなに?ってこともあらためて

2010/02/19

ワンクリック狂気

投稿者 サトウ   2/19/2010 2 コメント
 グルジアのリュージュ選手、ノダル・クマリタシビリ(21)が、ヴァンクーヴァーオリンピック開会式直前の最後の公式練習で、コントロールを失ったソリから投げ出されて死亡した。21歳の若者が晴れ舞台を目前に不慮の事故で亡くなってしまう、ということだけで十分に悲劇的であるが、もっと衝撃的なのは、スタートしてから時速140キロ以上のスピードで鉄柱に激突、死亡に至るまでの一連の映像が、インターネットを介して全世界に配信されたことである(テレビではもちろん激突の寸前、クマリタシビリが空中に舞い上がったところまでしか映さなかったし、ネット上でもyoutubeでは誰かが配信するたびにIOCが即座に削除、また別の人がアップ、という恒例のいたちごっこを経て、ではあるが)。
 なんであんなところに柱があったんだ、とか、スピードを重視しすぎたコースが悪いんだとか、いろいろな批判はある(し、そういう事が起こってしまったからには構造的な欠陥を批判することは絶対に必要だと思う)が、しかし、私はなぜそんなにも彼の死が人を──不謹慎な言い方だということは承知で言わせてもらうが──魅惑するのか、そのことのほうが気になってしょうがない。
 実際わたしも暇にまかせて、何度も彼の〈死への滑走〉の映像を見てしまった。ソリはカーブの出口でコースの側壁にあたり、舞い上がった彼の体はカーブの外側にあった鉄柱に背中からぶつかる。報道によれば140キロ以上出ていたのに、まるで柱にぴたっとくっつくように、彼の体は静止する。彼の体は二度と動かない。
 他のどのメディアでもなく、映像という媒体に特有の説得力があるのだ。バルトが『明るい部屋』で書いたように、写真(この場合は動画だが)は、その被写体が「たしかに存在した」ことと同時に、彼が「もはや存在しないこと」まで証明してしまう。「写真、バルト、時間」(『〈明るい部屋〉の秘密』青弓社)で、長谷正人はこれを見事に説明している。原文は引用しないが、単語だけ入れ替えてほぼそのまま記述しよう(すみませんがどの単語を入れ替えているとかそういったことは明示しません)。

〈以下二段落は「ほぼ」引用〉
 私たちはまず、この動画を「過去」の衝突事故死という出来事を捉えた写真として見る。クマリタシビリというリュージュの選手がそのときカメラの前にいたのだ(「彼は─かつて─いた」)、と。ところがよく考えれば、これが撮影されたそのとき、クマリタシビリはまさにこれから死のうとしていたのだった。その意味では私たちは、この動画から、近い「未来」に起きようとしている衝突事故死という出来事を恐怖とともに読み取ってしまう。しかもさらにもう一度我に返って考えるならば、その未来に起きようとしている衝突事故死は、すでに「過去」のものとして終わってしまったのだ。つまり私たちは、過去にすでに起きたことを知っているはずの出来事を、これから未来に起きるかのように恐怖していることになる。
 いまこれから死のうとしているクマリタシビリを動画のなかに見るとき、私たちは衝突事故死という実際に起きてしまった未来だけでなく、もしかしたら彼が死ななかったかもしれない別の歴史的可能性をどこかで感じるのではないか。少なくともこの映像が撮影されはじめたときには、まだ何が未来に起こるのかわからなかったのだから(何事もなくゴールして夕方の開会式に出席できたかもしれないのだ)。この映像は、そのような複数の未来の潜在的可能性にさらされたままスタートするクマリタシビリの姿を見せてくれる。そしてそれを見ることによって、私たちは、結果的にはこのようにしかありえなかったいまここに至る継起的歴史の時間が、別の可能性に向かっていまここに開かれていくのを感じるではないか。それはいささか倒錯した時間的経験なのかもしれない。だがこの動画を見るという経験は確実にそうした狂気を孕んでいるというしかない。
〈「ほぼ」引用以上〉

 私たちが彼の死に魅惑されるのは、あの動画を見ることによってこのような「倒錯した時間経験」を体験するからなのだ。
 バルトが論述の対象とした写真と違う点は、クマリタシビリの死亡事故の動画は原理的には無限に、しかも一瞬にして全世界に増殖し得たということである。私たちはしかるべき検索語句を打ち込み、リンクをクリックするだけでこの「狂気」を、しかも、もし望むならば何度でも手軽に体験できてしまうのである。しかし、それは同時に、私たちは動画の再生ボタンをクリックするたびにクマリタシビリを何度も殺している、ということでもあるだろう。

2010/02/16

差出し不明宛名なし

投稿者 Chijun   2/16/2010 4 コメント

下から上に。いろんなものが流れていく。
ぼくは果てしなく落ちている。
虚空を果てしなく落ちている。
などというのは大ウソで、ただ単に、橋から飛び降りたにすぎない。
飛び降りるとき、注意して、そうっと、足の先からゆっくり踏み出したせいで、頭が上で足が下。気をつけの姿勢で落ちていく。なんてハメになってしまった。これは君の理論上整合性のある状況なのか?
橋の下には川がある。すべての橋の下に川があるとは限らないが――あるいは線路かもしれない――それはともかく、ぼくはどんどん川にむかって落ちている。
だから、下から上にいろんなものが流れていく。
たとえば愛しい妻と娘の笑顔とか。
たとえばセクシーな裸の天使たちが死にゆくぼくをやさしくつつんで舞い踊る姿とか。
なんてね。
ウソついてごめん。妄想でも幻想でもそんなもの見えてない。見えてないとしても、だ。今まさに死につつあるというのにまったくなんて安いんだろう、オレの想像力。
しかたない。ぼくはまだ十四才の中二なのだ。走馬灯を美しく飾れるだけの経験も積まず思い出のたくわえもないうちに、こんなことになってしまった。
それでもぼくは、最後の滑空を楽しむ今この時が、人生の絶頂だと思っている。たまらなく気持ちいい。
ぼくはずっとこの日のことを――人生最後の日のことを思いつづけていた。
思いつめていた。
夢見ていた。
きっと生まれ落ちたその日から。
いや、もっとずっとずっと前、母の胎内でプカプカ楽しんでいたころから。
父の精子として流れ込んだときから。
母の卵子として運命的な結合を待ちわびていたころから。
当該卵子への果てしない連鎖として母の初潮のあったその日から。
母の母の母の初潮のその日から。
宇宙の虚空をただよう……おっといけない、調子に乗りやすいのはぼくの悪いクセだ。
ぼくはいまも、この瞬間のために生まれてきたのだと信じて疑わない。できればイメージ通り頭から落ちたかったところだが、あまりわがままをいってもいけない。風を切って全身を投げだす感覚はわるくなかったし、風に切られて未知の終わりに向かって突っ込んでいく感じも悪くない。
ぼくは、ただ死の訪れるのを待ち呆けているだけの軟弱モノではない。公園の片隅に居を構える哲学者になるまえに一個の実践者として足を踏み出したし、それに、来るかどうかも分からないものを水平的に待っているだけでもなかった。水平歩行運動と垂直落下運動のあいだにはやはり座標軸を九十度回転させた以上の何かがあるはずだ。じっさい落ちているぼくが言うのだから、まちがいない。
ぼくの行く先には最後がある。
それを忘れることはできない。
……などとかっこうをつけてみても、どうもしっくりこないね。こんなシチュエーションなのだから、ウソはなしにしよう。そうだ、死の意味を悟るには、中二のぼくはどうも若すぎるのだ。
からだは大人、でもこころはこども。
そんなあやうい境を行き来するぼくたちは、ときとしてその行きつく先も知らないままに夢中になって終わってしまう。
オワタ!
では済まないところまでいってしまう。この多難な一時期を一部運良くやり過ごしたやつらだけが、何かになることができるのだろう。安定したX、つまり大人というモノに。
話をちょっとだけ元に戻そう。まあ大して脈絡もない話なので、断る必要もないかも知れない。流れるままに行けばいいんだろ?
彼女が××と言ったから、おれは落下しようと思ったんだ。『母の母の母の初潮のその日から』ってのは、もちろんウソだよウソ。色恋沙汰が死の理由になるのは、ぼくたちくらいのおとしごろには普遍的真理に見えてしまうわけで。
橋の上にソレと来たのがいつのことだったかよく覚えてはいないけれど、――ぼくがどれだけのあいだ落ち続けているか考えてもみてほしい――ソレはぼくのとなりで欄干に軽く手をのせ、とても悲しそうな目をしてうつむいていた。だからその瞳にはぼくではなく、流れる川が映っていた、のだろう。(じっさい人の瞳に映っているものなんて、そう簡単に識別できるものではない。まあ、ふたりのあいだにそれくらいの距離があったということは認めざるをえないけどね。)仮にそうだとして。
ソレの体全体が、その目にとりこんだ川の流れのように、ゆるやかに、ではなく、クラクラするほどまばゆい変化を見せていたんだ。ソレはぼくの母のようでもあり、おさない妹のようでもあり、あるいはかわいい天使のようでもあった。まるでぼくの欲望の鏡のようだった、というには、それでいてもっと強い実在感があったなあ。君だったら、それを『距離』と呼び換えるところかな? ぼくだったら、靴下のほつれとでもいいたいところだ。
橋の上の最後の逢瀬、とでも呼んでみようか。
ぼくが、「もうそろそろかえろうか」といおうとしたら、
ソレが先に、「もうそろそろかえろうか」といった。
そういってとつぜん泣き出したかと思ったら、ウオェッオェッと嗚咽を漏らしているのはぼくのほうだった。
生きているうちも死んでからも二度と会うことはない。
(ぼくは死後の世界を信じない)
そのことがわかったとたん、涙がとびだした。
悲しかったというよりは、怖かった。
体の底からふるえとともに、涙があふれる感じだ。
そんなぼくを目の当たりにしたことで、「もうそろそろかえろうか」、というのはなかったことになった。
だまったまますることもなく、ただふたりでいる時間をひきのばすためだけにそこにいた。
ザアアアッーーーと川の流れる音をぼくなりに区切って、それで三千六百回数えたとき、「そろそろいこうか」、といったのは、やはりぼくではなかった。
歩きだして気づいたことだが、ぼくはもう全身の力が抜けきってしまったようで、何が起きてるのかもよく分からず、半歩後ろをついていくだけだった。
するとぼくの手がとつぜんあたたかいものに包まれて、ぼくはまるで、母に引っ張られて泣く泣くおもちゃ売り場を後にしたときの気持ちを思い出したようで……あれはぼくの人生でいちばん美しい瞬間だった。
ぼくは落下を続ける今も忘れられないけれど、ソレはきっともう自分のしたことを覚えてはいないだろう。風の便りに、大好きなカレシを見つけたと聞いた。
さて、と。ところでおれはいつまで落ち続ければいいのかね? 親友たる君の予測では、君たちの世界ではぼくが落ちるのは一瞬のこと、ぼくの世界ではぼくは永遠に落ち続けねばならない、ということだった。異なる時間軸上に生きる以上、ぼくはもう君たちとは別世界の人間といってもいいのかもしれない。つまりぼくは、橋から飛び降りた瞬間、そしてのち川にドシンと落ちる瞬間、二度死ぬということになる。できれば君の理論完成に向けての材料として提供したいところだが、君と連絡を取ることはかなわない。君がもう少し早く、異世界間の通信機器を発明してくれていれば。
中絶。
途絶。
回復。
これも君の意識との関係の錯覚にすぎない。とすれば、ぼくは君たちの世界で一度でも誰かとつながることができたといえるだろうか?
そんなことは一度もなかった。
というのは、ひとりきりで落ちるぼくの、いっときの感傷に過ぎないのだろうか? どうせなら、もっと感傷を続けてみようか? ソレをみち連れにしたなら、ぼくたちはずっといっしょにふたりで落下できただろうか? 最後の逢瀬のときぼくは、二人で落ちるチャンスを無言のまましかしずっと狙っていたのではなかったか? ソレと一緒なら、ぼくはもっと水平的な落下をのんびり楽しめたのではないか? それはもう落下などと呼べる代物ではなくて、ただ単純に末長くお幸せに、ということではないか? 最高の人生じゃないか?


そうだ、ぼくは彼女を愛していた。


「真の芸術家というのはね、真の人生の観察者のことなんだ。仮に、なんとも憂鬱なトーンで連載をはじめてしまった小説家がいるとしよう。そうだな、たとえば女子高生が学校のクソまみれの便器に産み落とした赤ん坊を絞殺する、衝撃的な幕開けというわけさ。ところが、だ。彼は人生をつぶさに表現しようとする。そのために人間をますますよく見る。そうするうちに、やはり人間というのは驚異的な神秘以外のなにものでもない、という感動に撃たれるんだ。そうして気がつけば、子殺しの頻発するこの世界に向けて、生命賛歌を歌い上げている。彼こそ真の芸術家さ」
そうだね、君の言うとおりだった。
おちるおちる。もう目の前に。
川面が美しく暁を反射する。
そんな終わり方はぼくの望んだもんじゃない。

遺言。オレが中二だなんて、もちろんウソだよウソ。

2010/02/11

お風呂シンガーの皆様へ

投稿者 じん   2/11/2010 1 コメント
 私もその一人です。心は湯けむりとともに大きく広がり、いい気持ちで歌います。先日は、ジ・インプレッションズの名曲、ピープル・ゲット・レディを歌っておりました。ひとしきり歌った後、ふと、日本語で歌ってみようと思い立ちましたが、そもそも英詞もろくに覚えていませんので、さてどうしたものかと思いましたが、うろ覚えの英詞を、乱暴に、1番だけ翻訳した気分ででたらめに歌い、案外と気持ち良かったものですから、そのまま3番まで歌いあげました。

    あの汽車に乗って (People Get Ready)

    さあ行こうか ほらもう待ってる
    余計なこと考えずに
    大事なのは 踏み出せること
    胸張って 前を見て

    さあ行こうか あの汽車に乗って
    新しい色見つけに
    グレイの雲 肩に背負うような
    その部屋を抜け出そう

    さあ行こうか 手をつないで
    一緒なら 来れるかい
    ほらあそこに一つ光っているものが何か
    知りたいでしょ

 ジ・インプレッションズがこの歌を歌っていたのは、ちょうどアメリカで公民権運動が盛んであったころだと、テレビで見知っていたのですが、私は当然生まれておらず、また、幸いなことに、差別を受けたようなこともございませんので、彼らのような意気込みで歌えるはずもなく、今の私が歌ってみると、元の名曲とは似ても似つかないような代物になるわけですが、それでもこの私の日本語版も、大それたことではありますが、何か彼らの歌と通ずるところがあるのではないかと、そんなように感じられるのですから、不思議なものです。
 

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