あ、1本いいっすか?

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up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/01/26

《顔》

投稿者 じん   1/26/2010 0 コメント
 壁に空いた穴の向こう側から、すぐそばに座った客を見つめている垂れ目の《顔》。いやらしさはない。優しげな、どこか悲しそうな目で、そっと見守っているようですらある。視線の先の男は、自分が見られていることには気が付いていないようだ。
 ここはファーストフード店の喫煙室で、仕事を終えて疲れたサラリーマン、友人の悩みを大げさに同情しながら聞く中年女性、げらげらとはしゃぐ学生たちが、同じ空間にいながら、違う世界、違う時間を過ごしている。やがて手元のコーヒーやコーラ、フライドポテトなんかがなくなり、最後の一服を終えれば、またそれぞれの場所に帰っていくのだろう。そんななか、《顔》はずっと、同じ場所で、いつも同じ一つの席を、見続けている。その席に座った客のうち、いったい何人が《顔》に気がつくだろうか。今座っている男のように、視線にすら気がつかないのがほとんどだろう。それでも《顔》は見守っている。
 男がタバコの火を消した。さっきより少し表情が和らいで見えるのは、コーヒーとタバコのせいだけではないかもしれない。



2010/01/23

コラージュ@京都(去年のことだけど)

投稿者 福田快活   1/23/2010 0 コメント
木製の床は、音が脚からつたわってくる。とくに低音が。

まずはこれを開いて音
を再生して。再生する音源はどれでもいい。


20ほどのフロアで踊る客は少なめ、左に右に体をすべらせるステップ、流りなのかみな同じようなステップ、混に体同士をぶつからせることもなく銘が音と踊りを堪能している、のだろう。足につれて世につれ、ゆらす頭は朦朧と酩酊してくのは酒にか音にか攪拌された意識の粒はイザ、ビトごとに飛びだしてく交感、うねってってく瞬間


小さいハコだとありがちなのは閉鎖感。常連同士の、排除することで高まるナマカ(流行らなかったね(つд⊂))感、意識的積極的に排除を進めてるつもりはないんだが、人口の83%が顔見知りとなったときに83%の意識から抹殺される17%、は思うしかないだろう――ってドラマでも見ヨッ☆……あ゛見たいドラマがなかった・・・orzそんな2009年


ではそんなことなかった。もっと正確にいおうKYOTO JAZZ MEETINGぢゃそんなことはなかった。ちっさなハコで、フロア20にラウンジ20。常連もいればそうぢゃないのもいる。それぞれがそれぞれで好きに自分たちの時間を酒で音話でしんでる。ソファでいちゃついてるカップルはご愛嬌の定番。微笑を誘う。こうでなくっちゃ!踊りながら体を寄せあうカップルもおなじ


波にさらわれて潮まかせな夜の魚たち、ながれの源は一段たかい壇上、刈り込まれた髭、夜を熱帯にするサングラス、クビでヘッドホンおさえ、手は自働的にさまよい音がひいてはよせるわだつみに、あしたはないと浜千鳥、たつは都の唐錦、いろも綾によする光、となりの男がくずおれた。呑みすぎ踊りすぎ楽しすぎ


DJス上、沖野好洋は、兄沖野修也とKYOTO JAZZ MASSIVEをやってると言った方が通りがいいだろう。クラブジャズの定番(1)、と知った口たたくのはもう。。。でもクラブジャズてなに?都 会が夢でいられる音楽。都会ではオサレな男女がオサレなクラブでオサレな腰ふってオサレな時間に流されてゆく。もういまのニッポンぢゃ都会にユメなんかな いことはばれてしまってる。「都市の空気は人を自由に」なんかしない。でも都会に夢を感じることができる人はいる。もし少しでも感じられるなら、クラブジャズを聴いてみるのもいいかもしんない。


コラージュの客のありかたは見事にそういう意味でクラブジャズ的だった。都会が夢として存在してた。ちょっとその夜の客数は少なかったが、他人に干渉するこ となく(鬱陶しいナンパもないし)それぞれが自分の持ち分で楽しんでる。あの数時間だけ、コラージュの空気は「人を自由に」してた。そう思えば「コラージュ」って名前もふたむかし前のポップアートのステキさ、ニューヨーク的ステキさに繋がる。



(1)
もう、音のジャンル分けは「みんながわかったになれる用」に細分化されすぎて、かえって誰もわかれないアミダクジとしか思えないんだが、むかしTSUTAYAで沖野修也が「ラウンジ」となってたのは腑に落ちた。もうジャンル分けは音性じゃなくて雰囲気の問題でしかないんだ。あるいはジャンル分けはそもそも雰囲気の問題でしかなかった。

2010/01/21

ダダの詩を作ってみた

投稿者 サトウ   1/21/2010 0 コメント

ダダの詩をつくるために


 新聞を用意しろ

 ハサミを用意しろ

 つくろうとする詩の長さの記事を選べ

 記事を切りぬけ

 記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れろ

 袋をそっと揺り動かせ

 切りぬきをひとつずつとりだせ

 袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写しとれ

 きみにふさわしい詩ができあがる

 今やきみはまったく独創的で魅力的な感性をもった作家というわけだ

 まだ俗人には理解されていないが


(塚原史『ダダ・シュルレアリスムの時代』九〇頁 トリスタン・ツァラの詩)





 というわけでやってみました。使用テクストはドン・デリーロ『コズモポリス』(小説)、ニーチェ『この人を見よ』(哲学)、緒方弘一『今日はこれ食べたい!』(料理本)である。偶然開いたページをコピーし、これら三つのテクストから適当に数行ずつ切りとり、それをさらに文節ごとにばらばらにして混ぜ合わせ、ランダムに配列し直した。改行・行空けはとりあえず文字列が完成した後適当にやってみた。





  自分のきみは濡れている。

  しゃぶしゃぶ用一瞬どころかきみを座っている──7~8cm 来ない


  「硬くなりっこないわ。

  と彼女は言った。

  走者という感じる。

  その日を羽目に日にはな。

  生まれついてのを背負わされている。

  わけではない。シートベルトをしてきみは寂寥感や

  私は事実上、五時間もユダヤ教・キリスト教的な皮をむく

  麻痺させて

  タイプだよ」



  晴れ着に……過ぎ去った……とんでもない、きみのことを



  とんしゃぶであったか私は

  ジョギングのではということだが──すっかり痩せこけ、人々はジョギング

  誤った何者かが感じないって。

  どれくらい自分のような……こういう連中がたるんだ体を見つめる。

  六時間も!──(写真は一人分)



  三つ葉2束興奮してしまった



  許されないとわかっているという運命

  飢えに窶れた

  「お尻のあるし、タイプの歴史的研究にさえ、心理的にそこにこういうから解放される。

  までに、なくなった見つめて、大根1本と語っているあいだ、わかる。


  投げ出せ

  悲劇的な

  わかっている


  「それだって豚ロース肉芸術によって包まれて半分に切る起きているかことを材料/生まれついて進路を求めるようにほかはしていて、男が衰えていく、わけだから」


  その揚句、──本来の同じさ。生理学と言えば俺には自然科学との全面的に切り落とし、そんな強要される悟った、走るのを恐しい多くのにわかにきみがみるなら、使命のといういたのだ! 余りに時期もグルリと悲しい重荷を座っている抱えて決定し、電気が自分の然るべき医学と精神の芸術のような「帝国」来るすると、十年、私は切り、400g 飢餓感をはずよ」


  きみはことを。そのあいだ何も女だ。所業。

  きみが声に

  日が長さに

  自分のいまさら座ったという栄養摂取は

  阿片を

  きみは恥じた。椅子にもうところでうちに

  きみを無益で命ずる体臭がである。気紛れ境に、長さを


  私は何が4人分姿をこの病根を

  私の麻酔剤的はっきり陥って謙遜さを厚く

  私は

2010/01/17

母なる証明

投稿者 Chijun   1/17/2010 1 コメント

私立男子校で中学二年生に国語を教えている連れがある日、「ウ音便について学習します」と告げたところ、教室中から「ウォンビン!ウォンビン!」という叫び声が上がったそうだ。

中二男子もよく知っているウォン・ビンは、「韓流四天王」の一人として日本人にも親しみ深いが、2005年から兵役につくものの途中古傷が悪化して除隊され、そして今作「母なる証明」(ポン・ジュノ監督)が復帰第一作となった。

以下ネタバレ注意

復帰第一作にしてなかなか挑発的な役柄である。ウォン・ビン演じるトジュンは知的障害のせいで悪友からからかわれ、都合よく利用される毎日。そんなトジュンがある日、少女殺人容疑で逮捕される。トジュンの知的障害をいいことに、警察は不十分な状況証拠のみでトジュンに罪を負わせて早々に事件の決着を図ろうとし、必死に息子の冤罪を晴らそうとする貧しい母がなけなしの金を積んで頼んだ弁護士は、トジュンを精神病院送りにすることで手を打とう、と取り引きを持ちかけてくる始末。

トジュンの母は息子を溺愛している。迫害者たちから守るため、その分よけいに深く母は息子を愛している。息子の冤罪を晴らすため体を張って真相を自ら究明しようとする母親、その美しい母性愛に感情移入しつつ、観客はともに真犯人を追いかけてゆく、という一種の定型的な軌道に身を委ね、「なるほど、この映画はこの方向で観ればよいのか」と安心しつつ、一方で型にはまった物語を追いかけるときの退屈を覚え始める。

しかし、その退屈はどこか居心地の悪い退屈である。この母子の愛情はどこかおかしい。なにか行き過ぎている、という思いが、ときに観客の脳裏にちらつく。というのも、成人の肉体を持った息子トジュンは毎晩母に添い寝したり(母子二人きりの家庭である)、息子が立ちションをすれば母は脇で出尽くすまでじっと見ている、といった場面が、所々で挿入されるのである。「美しい母子愛物語」に観客が疑問を忘れて没入しかけた頃に、そういった場面が随所に散りばめられているのである。

どこか居心地の悪いそのような流れのなかで、観客が美しい「母子愛」に決定的に裏切られた、と感じるのは、拘留されているトジュンの口から、面会にやってきた母に対して、お前が昔僕を殺そうとしたことを僕は忘れていない、というシーン。トジュンが五歳のとき、子育てに苦しんだ母は心中未遂を図っていたのだ。息子にそのことを告げられた母は(息子は忘れたものと信じていた)、面会室で泣き叫び狂乱の体をさらす。

ここで観客は、過去の罪悪感ゆえに母の愛情は行き過ぎていたのか、と一つ納得をする。と同時に、トジュンを犯人に仕立てるために嘘をついていた人々のみならず、唯一真実と共にあり真実の追究者であると信じられた母までもが信ずるに値しない人物である、という場面を見せつけられ、この映画のなかでいったい誰を信じればいいのか、どこに自分の立脚点を定めればいいのか、という不安に落とし込まれる。

これについては、最初は「息子の冤罪を晴らす母 vs 疑わしき人々」という構図で観客は母に視点を同化させるよう仕組まれていた作品が、「観客 vs 母を含めて誰一人感情移入できない作中人物」という構図に広がりを見せた、ということができるだろう。後者に移行した時点で初めて、観客は自分が作中人物と対等な立場に立たされている、と気づく(と同時に、それまでは作品の外の安全な位置から、視点人物=母親という一人の人間の、全てを知った気になって安穏と鑑賞していた、ということに気付かされる)。これが、感情移入していた作中人物に裏切られるという経験の、鑑賞者にとっての重要性であろう。

息子の糾弾を受けてなお真相の探求を続ける母の前に、貧しい廃品回収業者の男が現れ、トジュンが少女を殺害する現場を自分は目撃していた、という。ここでも母は狂乱の体となり、この男をその住処ごと焼き殺すに至る。トジュンによる少女の殺害場面がこの男の口から語られる際、スクリーンに映し出されるのは真相を語る廃品回収業者の姿ではなく、廃品回収業者が見た(という)そのままの、トジュンによる少女の実にリアルな殺害場面の再現である(困惑するトジュンの身体動作などは、こちらの身体に直に訴えかけてくる)。

暗黙の信頼関係を結んでいた母親に裏切られた観客は、ここで第二の裏切りを経験した、と感じるであろう。知的発育が遅れ、そのせいで嘲笑され、殺人事件の犯人にまで仕立て上げられようとしていた純粋無垢な「犠牲者」トジュンが、じつはこの殺人事件の真犯人なのではないか、と。しかし観客が突きつけられる廃品回収業者の「真相」にも留保が必要である。というのは、この男は被害者である少女の「常連客」の一人であり(少女は売春行為を何人もの男性相手にしていた)、そうであればこそ警察にも通報しなかった。男が語る台詞と共に映し出された犯行現場の映像では、彼が銀のシートを敷いて、米を用意して待っている事実が同時に写されていた。

ここで母親の言動について振り返ると、彼女が狂乱の体を見せるシーンがいくつかあり、1つはトジュンが5歳の心中未遂を語るとき、もう1つは廃品回収業者を殺害するときである。2つに共通するのは、母親が自分の知らない息子と対面したときだといえよう。自分の大切な息子が、自分が信じるのとは違う姿で現れるとき、母は狂う。過去の過ちに目を伏せたく異常に溺愛するが故に、全てを理解していないと、一線を超えて変貌する。

無実の息子を救おうと懸命な母親に寄り添いながら(のみならず応援しながら)、疑わしき作中人物たちの間を観客はともにさまよい歩き、母性愛の裏返しである母親の妄信的狂気が高まっていくのと同時に、二度の大きな裏切りを通じて、わたしたち観客は(映画館のクッションの効いた席に座っていながらに)実に不安定な感覚のなかにあることに気づく。誰にも感情移入・視点同化できず、母親もトジュンもふくめて全員を疑い出す。この疑心が観客を母の狂気へと接続する、つまり誰が真犯人か分からないことによって、より母親の狂気が浮き上がり、観客をその狂気の感覚へと道連れにする。

ここまで考えると、この映画が実に綿密に仕組まれたものに思われてくるのである。トジュンが知的障害者であること、母親が暗い過去を持ちながら息子を溺愛していること、トジュンの友人が腹黒いこと、警察が無能なこと、殺人事件の真相がきわめて思わせぶりなかたちで示されるものの結局は明かされないこと、などなど、全てが監督の計画通りなのではないかと・・・。

狂気、という抽象的な概念が見事に印象づけられる、すごい映画なのではないかと思った次第です。ちなみにわたしはこの映画を観るまで、ウォン・ビンのことは何も知りませんでした。

2010/01/11

たいふういっか

投稿者 じん   1/11/2010 0 コメント
快晴!

何日も何日も雨が続き
近づいてきた台風の雲の重みに押しつぶされて
どんよりと下を向いていた人たちも

とうとうやってきた朝のニュースで
電車の遅れに愚痴をこぼしながら
ふるさとの家を心配していた人たちも

台風一家の仲間入り

せわしないはずの朝に漂う
いつもと違う穏やかな空気

朝日に照らされ光る町

うめもどきの赤い実と
カラス舞う青い空

しかめ面を捨て
いつもと違う世界に
和やかな微笑で歩く
くすぐったいような一体感

きれいな香りのする新しい風にのせて
喜びを分かち届けあう僕らは今
みんな台風の子

2010/01/08

ヒットマンズ・レクイエム

投稿者 福田快活   1/08/2010 0 コメント
(年末年始に観た映画についてでもひとつ。
ん?初詣?もちろんンなイベントはスルー、ずっと家にヒッキーさ☆)

ヒットマンズ・レクイエム

ダサいタイトル。クソ映画の気配。殺し屋なんだからかっこよく片手とか宙返りとかでパパンパンパン人殺しまくってりゃいいのを、そこに「侠の道」的な夾雑 物でもオリコン一位で、とめてくれるなマーロウ背中が泣いてるぜとでも言いたげなハードボイルドエッグな味付けになってんだろ。。『あるいは裏切りという名の犬』をさらにしょぼく、ゆで卵だと思ったら温泉卵ともいえない、ただの気持ち悪い半ナマ映画という予感がしてしょうがなかった。借りた。

よかった!!『モンティ・パイソン』を国営放送BBCがつくった国、イギリスのブラックユーモア(1)の栄光に恥じない良作だった。

主演はオスの臭いが100歩先からただようコリン・ファレル。出身地アイルランドの訛り(だとおれは思ってるが)丸出しで、生きてることそのものが不愉快 なイギリス人の殺し屋だ。マイアミ・バイスとかプライドアンドグローリーなんかよりよっぽど迫ってくるのは、表情がいいんだろう。顔面に蹴り入れられたパ グみたいな渋い顔で、見境なくあたりに咬みつきまくる。ひと仕事後のほとぼり冷ますためにベルギーのブルージュに滞在してるんだが、中世然とした古都風情、きれいではあるけど娯楽のない街ブルージュはこういう扱いだ。

Ken, I grew up in Dublin. I love Dublin. if i grew up in the farm and was retarded Bruges might impress me but i didn't... so IT DOSEN'T(ケン、おれはダブリンで育ったんだ。ダブリン大好きなんだ。おれがカッペでおまけにセイハク(2)だったらブルージュが面白いかもしんな いけど、おれは違う。。だからつまらん)

何万回とコリン・ファレルはこきおろす、ていうか映画のはじまりがこのセリフなんだけど――「Bruges is just an shit hall(ブルージュなんかただのクソツボだ)」。よくブルージュから抗議運動がおきなかったもんだ笑。

さんざんこき下ろして、映画のさいごではブルージュがきれいに映されている。多くは言わない言えないけど、クリスマス、幻想的な仮装行列、喜劇的な死といったアイテムが中世の石畳に溶けこんでなくなってゆく終幕は、イギリスの粋を思わせた。

セリフのいちいちに皮肉がきいてる。セリフのテンポもいい。脚本・監督のマーティン・マクドナーはイギリスの演劇界を代表する人間のよう。今回が長編映画は初とのこと。せひとも次回作は映画館で観たい。

なにしろ原題は『In Bruges』、『ヒットマンズ・レクイエム』とちがって格調あるぢゃないか(笑

(ぼうとうでアウトローな引きこもり気取ったけど、ほんとは初詣三つもいきました。。すみませんm(_ _)m
ご寛恕いただききまして、今年もよろしくお願いします。)

(1)"the boy with an ass for a face"このBBC番組を知ったときは感動すらおぼえた。障害者を抱えた家族の感動!愛の物語は日本でもある。実際とても大変なことだろう。なのに?だから?それを揶揄った障害=「顔がケツ」の子をもった家族の物語。。。

(2)retardedって言葉は知的障害者への差別用語でretardedをfuckなみに連呼してた『トロピック・サンダー』は抗議運動をひきおこしてた。

2010/01/05

明けましておめでとうございます

投稿者 サトウ   1/05/2010 1 コメント

 年末には新年の挨拶用にこんなものを書いていた。


明けましておめでとうございます。


 年末年始はいつものごとく実家に帰って何人かの友人知人に会い、忘年会だといっては飲んだくれ、新年会だといっては飲んだくれた。いつも年明けの授業の準備をしようと思って何冊かの本を持っていくのだが、それらの本はたいてい読まれずに、部屋の隅に転がったまま新年を迎える(今回もそうなった)。大晦日だけは(これもいつもどおり)実家でだらだらとテレビを眺めながら過ごした。とくに熱心に見ているわけではないのだが、居間に浮かれたテレビの音が流れていると年末だなあ、という気分になってくるから、まあいい。元日は親戚のうちにいって挨拶。さすがにもうお年玉はもらえないが、貧乏学生の身分を考慮してくれるのか、いくらか「お小遣い」をもらう(同じことか)。ありがたい。今年は四日には東京に戻らなければならなかったので、三日に始発で出発し、十一時間鈍行列車の過酷な旅の後帰京して、浮かれ騒ぎの余韻に浸っているところである。


 というのは全部嘘で、これを書いているのは12月26日である。しかし、年が明けて東京に戻ったころにはすべてが本当になっているだろうと思う。明日は朝五時の始発で東北へ向かう。そのあとちょっと友達と飲んで、翌日も友人とどこかへドライブへ行くことになっている。ボードリヤールの『象徴交換と死』をバッグに入れたが、おそらく今年も読みきれない。彼のいう、メディアイメージの氾濫によって現実に先立ってシミュラークルが形成され、現実のほうがそれを再生産しているというのならば、この年末年始のワンパターンな過ごし方ももはや起源をもたないハイパーリアルではないか(たぶんちがうけど)。


 と書きなぐった後に居酒屋に逃げこみ、帰省して狂乱の年末年始を過ごしたのち、更新日がやってきたわけだが(混乱したら申し訳ないのだが、このブログは即興で更新しているわけではないので、書き上がってから実際に記事がアップされる時点までのさまざまな「わたし」が介在しているのである)、果たして「シミュレーション」どおりの年末年始を過ごして(今度は本当に)東京に戻ってきた。


 とはいえもちろん、いつもと違うこともある。高校のクラス会がないかわりに部活の同窓会が開催されたり(みんな立派になっていた)、中学の飲み会が若干荒れたり、大晦日から元日にかけて大雪が降ったり、といった細部はしばらくの間「2009年から2010年の年末年始の記憶」として残るはずだ。このような細部が「今年限りの特別なこと」として認識されるのは、逆説的なことに毎年の年末年始の過ごし方が「似ている」からである。例えば「記号のAとワインの瓶の違いを説明しろ」と言われれば「えーっと、とにかくどう見ても違うじゃん。もしかしてお前バカ?」としか言いようがないが、メガネと水中メガネの違いであれば「目に装着する二つの透明なレンズ」という共通項を通して差異がはっきりと認識される(メガネが見当たらないときに「しかたがないから今日はいつもプールで使っている度入りゴーグルをかけて仕事に行こう」と判断できる方はそう多くないはずである)。


 というわけで(?)、本年も「もらいたばこ」をよろしくお願いいたします。

2010/01/02

最悪の就職.com

投稿者 Chijun   1/02/2010 0 コメント

二十六日前のこと。

日本橋にある呉服卸し会社の説明会に参加した日の午後、携帯電話から人材紹介会社「最高の就職どんと来い!」に問い合わせをした。

「そちらのサイトに登録させていただいておりますXXと申します」
「いつもお世話になっております」
「あ、いえ。実は三日前そちらでXX工業さんの会社研究会に参加させていただき、エントリーを希望させていただいたのですが、まだエントリーシートが送信されてきていないもので……」
(エントリーシートの〆切は翌日に迫っていた)
「それは大変申し訳ございません。ただ今担当の者に確認いたしますので」
「あ、すいません。よろしくお願いいたします」

「大変お待たせいたしました。説明会の翌日に送ってはいるようなのですが、すぐにもう一度再送させていただくということですので」
「あ、そうでしたか。どうもよろしくお願いいたします」

気分転換に高島屋でやっていたクリムトの絵の出展されている展覧会で午後の時間をつぶした。その間何度も受信トレイを確認したが、エントリーシートは来ていなかった。

ーーー


二十五日前のこと。

昼過ぎに埼玉の自宅から電話をかけた。呼び出し音一回分もかからずに若い女性の声で、

「ありがとうございます。「最高の就職どんと来い!」でございます」
「そちらのサイトに登録させていただいておりますXXと申します」
「いつもお世話になっております」
「四日前そちらでXX工業さんの会社研究会に参加させていただき、エントリーを希望させていただいたのですが、昨日の時点でもエントリーシートが送信されてきていなくて、それで昨日電話でお願いして、すぐに再送してくださるとのことだったのですが、あの、今日の正午〆切ですよね、それでもまだ送られてきていないんですけど」
「それは大変申し訳ございません。ただ今担当の者に確認いたしますので」

「大変お待たせいたしました。ただいま担当の者がセミナーの最中ですので、終わり次第送らせていただくとのことです」
「はい、わかりました」

ーーー


一週間と一日前のこと。

市ヶ谷にある某テナントビル5Fにて。

(わたし、インターフォンを鳴らす)

「あ、本日一時からのセミナーに予約しておりますXXと申します」
「かしこまりました。ただいま参ります」

(少し待つ)

「XXさまでいらっしゃいますか、どうぞこちらへ」
(待合室には南洋をイメージさせるたわわな植え木に柔らかくて深すぎるソファ、29才フリーターのわたしには似合わない)
「もう間もなく準備できますので、少々こちらでお待ちいただけますでしょうか」
「あ、ありがとうございます」
(わたし、行きかける女性受付係の背後に)
「あ、あの、ひとつおうかがいしてもよろしいでしょうか。XX工業さんのエントリーシートを提出させていただいて、お約束の十日を過ぎてるのですが、まだお返事の方をいただいておりませんので」
「お名前フルネームでうかがってもよろしいでしょうか」
「はい、XX XXと申します」
「XX......X◯さまでよろしいでしょうか」
「いえ、XX......です」
「X△様でございますね」
「……」
「ただ今担当のものをお呼びいたしますので、こちらで少々お待ちください」

(わたし、うなだれつつ深いソファに浅く腰掛けて待つ。本棚には「あとははい上がるだけ」「仕事力」などのタイトルが見える)

「え、と、こちら、どちら、」
(男の人の声が近づいてくる)
「そちらです」
(わたしのソファの脇にぴたりとひざまずいて)
「XX様でございますね、わたくし担当のものでございます。たいっへん申し訳ございません!」
(やや大仰ではあるが、体育会系のついていくのがしんどいノリというほどでもなく、慇懃無礼が鼻につくというほどでもない。つまり感じは悪くない)
「XX工業さんの方なのですが、予想以上のエントリーをいただいておりましてたいっへんお待たせしてしまっているのですが、本日の夕方には結果をお知らせできますので、もぅう少々お待ちいただけますでしょうか?」
「あ、いえいえ。そうですか。とんでもございません。ありがとうございます。よろしくおねがいいたします」

その日、それから一週間、待っても何の連絡もこなかった。

ーーー


昨日のこと。

XX工業に加えて、書類選考の結果が遅れている会社は三社に増えていた。昼過ぎに自室から電話。やはり呼び出し音一回分もかからずにいつもの女性の声で、

「ありがとうございます。「最高の就職どんと来い!」でございます」
「あ、もしもし、そちらに登録させて頂いているXXと申します」
「いつもお世話になっております」
「ええと、そちらに提出しているエントリーシートが現在三つあるのですが、お約束の十日を過ぎてもまだどれもお返事いただいてないのですが」
「XXさまでございますね、XX工業さんのエントリーシートでよろしかったでしょうか」
「ええ、それは一週間前にもお尋ねしたのですが、それと後二社、XXさんとXXコーポレーションさんも十日を過ぎてまだお返事いただいていないのですが、どのようになっておりますでしょうか」
「それは大変申し訳ございません、担当のものから折り返しお返事させていただきます」
「あ、それは今日中にご連絡いただけるのですか」
「はい、今日中には」
「あ、そうですか、ありがとうございます」

きっとかかってこないだろうと半ばあきらめていた電話は、電話受付時間の〆切である夕方五時直前になってもやはりかかってこないので、こちらからもう一度電話をかけた。今度は担当者がつかまって、

「大変お待たせしております!」
(先日の男だ)
「XXさまですね、まずXX工業さんでございますが、たったいまですね、ついさきほどようやく結果の方いただきまして、大変残念ではございますが、今回は見送らせていただくとのことでした」
「……」
「えっと、年齢の方がちょっと、ということで。それと後二社、XXさんとXXコーポレーションさんでございますが、担当の者に確認したところ、XXさまからのエントリーシートは頂いていないということなのですが」
「……え、っと、こちらには確かに送信履歴が残っているのですが」
「そうですか。ただこちらではどうしても確認がとれないということなんで」
「はあ…では、いますぐ再送しても間に合いますか?」
「そうですね。では担当の者から後ほどお電話させていただきますので」
「今日中にはご連絡いただけるのですか?」
「はい、今日中に折り返させていただきます」
「……失礼いたします」
「では、失礼いたします」

送信トレイを何度確認してもやはりエントリーシートは提出されていて、もちろんトラブルの可能性も否定はできないけど、他のひとたちとは何ら支障なく連絡できており、「最高の就職どんと来い!」とだけこうも連絡の行き違いが重なるというのはやはりおかしい気がするがしかし、それでもおかしいのは、そうだ、全て生き方から何から間違っているのは、29歳フリーターのわたしなんだ、という風に考えはねじれ、気がつくといつも自分を、人生を否定しているわたしがいる。

ーーー


今日の朝九時のこと。

わたしはこうして一連の経緯を綴っている。昨日来るはずだった電話はまだ来ていない。わたしは一晩中寝ないで待っていた。待っていたというのは語弊があるかもしれない。ただ携帯電話をすぐそばにおいてパソコンの前にすわったままぼーっとしていたら朝を迎えていた、というだけの話だ。やはりおかしくなっているのはわたし?

せめてわたしだけじゃなくて、わたしに似たくるい方をしたひとたちが、わたしのようにパソコンの前にぼーっとすわって、わたしの日記を読んでいてくれたらと思う。
 

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