あ、1本いいっすか?

Next Writer:Chijun

up-date: Sun, 18, Mar.


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2010/12/20

Like the norwegian wood

投稿者 じん   12/20/2010 1 コメント
作品の世界観に惚れ込んだ一読者が、その作品をモチーフにとったノルウェイの森的映像作品。

先日公開された劇場版『ノルウェイの森』を観てきました。

原作を何度か読んだことがあり、好きだという人ならこんな感想を持つのではないでしょうか。

「有名な作家の人気のある作品だから読んだことないけど見てみよう」と思ってる方には、正直言っておすすめしません。

この劇場版は原作で描かれているストーリーを描こうとしたものではないので、ある程度読み込んでいないと、ついていけません。原作にある要素をコラージュ的に貼り合わせて、原作で描かれる「事情が込み合っていて身動きがとれない状況」を2時間を通じて表現したものとしてとらえるのが良さそうです。

原作のファンはこの映画をきっかけに自分の好きな『ノルウェイの森』について語り合ってみると、鑑賞後の疲れがとれるかも知れません。たぶん監督もそれを望んでいるでしょう。あー疲れた。

ノルウェイの森のように暗く先が見えない。手探りで動き回った末にようやく開けたところに出たけれど、自分がどこにいるのかわからない。

「あなた今いったいどこにいるの?」

2010/12/13

曖昧なピンホールカメラ

投稿者 福田快活   12/13/2010 0 コメント
ピンホールカメラってご存じかしら?

レンズがなくって、小さな穴を通して集まった光を感光素材に焼き付けるだけ。それだけのシンプル、原始的なカメラ。ファインダーなんてないからカメラがとらえてる範囲なんて全然わかんないし、ぼくはふつーのデジタルじゃないカメラフィルムをつかってるんだけど、一枚撮るたびに自分でつまみを巻いてフィルムを先送りしないといけない。フィルムは現像にださないといけないから、出来上がるまでにまた間がある。とても不自由なんだけど、その不自由さはぼくをゆったりさせるし、できあがった写真の光はやわらかく、輪郭は曖昧で、きれい。デジタルだと色も光も形も、まあそれはぜんぶ光なんだけど、くっきりと、肉眼より明確に映しだすのがしょうじき居心地悪かったりする。不自然な。

デジタルは0と1で分断されてて、アナログは現実そのままののっぺり、音源とかだとそういう風にひとむかし前は言われたりしたけど、デジカメで撮った写真の異常なくっきり感とピンホールカメラの欠落感は、いっけんデジタルの方が地続きで、アナログ=ピンホールカメラの方が分断されてる印象をあたえておもしろい。でもそれでもデジカメの異常な鮮明さは、どれだけ緻密になっても残ってしまう0と1のあわいに由来するのかもしれない。ピンホールカメラが写しきれないものは沢山あるんだけど、やさしく、気持ちを落ち着かせるのは自然だから、かもしれない。そうすると自然ってなに?やさしいってなに?ってなってぼくにはそれの答えはないんだけど、気にはなって、撮ることで答えがみつかるとも思わないけど、ピンホールカメラで写真を撮り続けるんだと思う。曖昧な、はっきりしない写真を求めて。

2010/12/02

カンナとカカシ(7)

投稿者 Chijun   12/02/2010 0 コメント
ふたりが夢中になって話をしているので、カカシはそっとわきを通り抜けようとした、けれどそこで、たいへんなことに気づいた。うとうとしていたのととつぜんのさわぎのせいで、何回エレベーターにのったのかすっかり忘れてしまったんだ。このままでは楽園にもいけないし、カンナのところにも帰れない。
「やだーこの子泣きそうじゃーん」
「うそーちょっとかわいくなーい?」
「ぼくどこから来たの?」

「ぼくは……」とつぜんたずねられて、カカシはおねえさんたちにいっしょうけんめい答えた。カンナのためにも、恥ずかしがってちゃだめだ。「ぼくは……あんまりさむかったから、足がつめたくてじんじんするし、あたまはぼうっとしちゃって――気がついたらここにいたんです。ぴかぴかのかべにふたりでとじこめられちゃって――それで、カンナの手はとても小さくて、ぼくの手はここのせいで冷たくなっちゃって、目がさめたらひとりぼっち――そしたらおじさんが現れて、おじさんはカンナのことを知っていたんです。おじさんのつぎはやさしいお兄さんで、でも電話なんだけど――おかげで最初の部屋から抜け出せたんです。でもやっぱりぼくはひとりぼっちのままで……」お姉さんたちはうんうんうなずきながら、カカシのことをやさしく見つめてくれている。勇気づけられたカカシは「そしたらちっちゃなカンナに会えたんです! 今日はカンナの誕生日だから、ぼくは花を採りにいかなきゃいけない」

「まあ!」
「まあ!」

ふたりは声をそろえて、手を鳴らした。「ぼくはだいじな人のためにお誕生日プレゼントをとりにいくところなんだね、いいわ」といってうなずきあって「わたしたちが手伝ってあげるよ!」といってくれた。



「わたしたちがここにきたのはいつのことだったかしら……まあ、そんなのはもうどうでもいいことだけど」
ふたりが話しているわきで、カカシは廊下をあちらこちら見ていたんだけど、それはいままで見てきた廊下とすっかりおなじ、ドアがずっと一列にならぶだけの廊下で、何度エレベーターでのぼってもかわらない。
「……おねえさんたちの話きいてる? だめだなあ、女の子の話はちゃんときいてあげなきゃ。まあいいわ。とくべつに許してあげる。そんなにここがめずらしい? きみはここに来たばかり? どうしてここにやってきたの?」
もうひとりが、小声でささやく。「ねえ、この子さっきからぜんぜんしゃべらないじゃない。あたしつまんなーい」どちらがミカチンでどちらがアヤタンだったか、もうカカシには区別がつかなくなってしまった。
「……それ、なに?」そういうと、ひとりがカカシのポケットをゆびさした。ポケットに携帯電話が入っているのを、カカシはすっかり忘れていたんだ。もうひとりが、ポケットからちょこっと顔を出しているのをさっと奪った。「ふーん。ずいぶん大きいのつかってるんだね。でもね、むかしはもーっともーっと大きかったんだよ。携帯なんてできないくらいに。イヒヒヒヒ」

2010/11/22

ことばで世界を描くことについて (3)

投稿者 じん   11/22/2010 0 コメント
前回の更新から少し時間が経ってしまいました。簡単にこれまでの話を振り返っておきます。言語で世界を描くとき、日本語では他人を主人公にし、英語では自分を主人公にして世界を描くのだというのがここでの主題です。ひとはことばを使うことで、区別なく現実世界に満ちている原子に名前をつけ、頭の中に映る世界に秩序を与えていきます。その秩序の与え方が日本語と英語とでは、誰が主人公の物語を描くのか、その物語は誰の目を通して描かれるのかという点で異なっているのではないか、ということを考えていきます。

前回は手始めに日本語の自称詞は話し手が話し手自身のことを指して使っていることばではなく、相手が話し手をどのようにみているのかということを表現することばだということを、森有正の「汝の汝」という考え方を借りてお話ししました。今回以降はそれを文のレベルで見ていきたいと思います。

(1)     (二尉の質問「……てゆうか、何をやってる……」への返答)
部下1: 自分はちせさんにコーヒーをと思いまして……
小隊長(ちせ): あたし…自分はこっ、交換日記を……
部下2: 自分はちせちゃんの宿題を手伝って……

まず、前回の流れを汲んで、どんな自称詞が使われているかを見てみましょう。軍の上官の質問に2人の部下と新米小隊長が答える場面です。軍人としての会話であるため、「自分」と自称するのがふさわしい場面です。場にふさわしいことばづかいをするというのも相手を意識した行動です。相手は自分を軍人として扱っている。軍人は「自分」と自称する。だから自分は「自分」と自称するという意識が働きます。自分が普段「あたし」と自称する女の子であったとしても、自称詞が「汝の汝」を指す限り、ここでは「あたし」を使うことはできません。

「どんな時でも俺は『俺』という自称を貫くんだ!」という人もいるかもしれませんが、「汝の汝」のロジックでいえば、これは自己のアイデンティティを表現しているのではなく、相手が自分を『俺』的な人間(一般的には「強さ」「男らしさ」「荒々しさ」といった性質をもった人物になるでしょうか)とみるように相手の見方を誘導しているということになります。

中村桃子という言語学者がこのことを『らせんの素描』というゲイを描いたドキュメンタリー映画の1シーンを例に説明しています。ゲイ・パートナーである矢野(25歳)と隆司(23歳)が同棲する家に同居することになった呼人(20歳)が、矢野と関係を持ってしまいます。矢野は普段自称詞として「おれ」を用い、隆司は「隆司」を用いていますが、この3人の関係を良好なものへと修正するために、矢野と呼人の前で、隆司は「ママ」を自称詞として用います。隆司は自分を「ママ」と呼ぶことで、隆司と呼人が矢野をとりあう三角関係から、矢野を父親、隆司を母親、そして呼人を二人の息子として捉え直した家族関係へと3人の関係をつくりかえたのです。自分を「ママ」と呼ぶことで相手の見方を誘導し、新たな関係を構築した例です。

この「ママ」という自称を、「汝の汝」の構図で分析すれば、「呼人から見れば隆司は『ママ』である。だから隆司は『ママ』と自称する。」という構図ができあがります。自称詞が自分の事を直接指していることばとして考えるより、相手に見えている自分の姿を指していることばとして考えた方が、この3人の間に生まれた新しい関係は安定したものになります。これは小さい時に遊んだ「ままごと遊び」にそっくりです。「ご ごめん。お前はそんな子じゃなかった。疑ってすまんっ。父さんが悪かった。」と学校の友人に言えば、その瞬間に2人は親子になります。これも、自称詞が、相手が自分をどう見るかを表すことばだからです。

2010/11/15

思い出せない~~~

投稿者 福田快活   11/15/2010 0 コメント
いいアイディアが思い浮かんで「こいつぁいいや!こんなステキなアイディア忘れっこないぜ!メモ~~~~!?ンなんいらねえに決まってんだろ!」とほくそ笑むときがある。ヤ、ほくそ笑むどころか体中をファンファーレが鳴り響いて、ファンは狂喜乱舞、興奮した暴徒をおさえこむのに警備員は必死、くらいの興奮をひそかに噛みしめてるんだけど、熱狂した群衆がケロッとしずかに日常にもどるように、「あれ?さっき思いついたアレ。。。なんだっけ?」とさみしく木枯らしが吹くときもある。友蔵、心の俳句でも詠みたくなる。

よくアイディア関係の本だと、メモなんかとるな。忘れてしまうアイディアにいいもんなんかない。て書いてある。ウソだと思う。「あんなよかったじゃないか!アイディア本体は忘れたけど、あのファンファーレだけは覚えてるぞ!あの興奮!あの熱狂!」て猛り狂ったところで、砂をもう一回噛みしめるだけ。泣きたくなっちゃう。

忘れてしまったアイディアを悔いてもしょうがない。忘れてしまったものは酸っぱいブドウだと唾はいて、新しいのを思いつこう――「忘れたアイディアにいいもんなんかない」ていう発想はこういう処世術なんぢゃないか。アイディアを量産しなきゃいけない人間がいつまでも覆水のことをグチグチ思いかえしたって百害あって一利なし、だろう。だったら心機一転、頭を切り換えたほうが生産的にちがいない。そういう意味ではとても実践的な教訓だ。おれも見な
らおう。

ああ、それにしても今日何を書くつもりだったのか思い出せない~~~~(;へ;)

2010/11/11

カンナとカカシ(6)

投稿者 Chijun   11/11/2010 0 コメント
ずいぶん高いところにある。カカシは話を聞いているうちにおじけてしまいそうになったけれど、でも、高ければ高いだけカンナはよろこんでくれそうな気がした。それに、高いのにはちがいないけれど、七百三十歩ならそうとおくもない。
「カンナはね、楽園にいったことないの。おうちでまってないと怒られちゃうから。でもね、おじさんはとろけるような目で楽園のことをはなしてくれたわ。とても大きな池があって、おいしい木の実がなっていて、赤白黄色のお花がいっぱい咲いてるの。いーっぱい咲いてるのよ! すごいでしょ!?」まるで自分が見てきたように、小さなカンナは興奮していた。



ろうかを右側にまっすぐあるいて、エレベーターにのる。……いちばん上の『30』を押して……ついたらまたまっすぐあるく。……そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……ついたらまたまっすぐあるく。……そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……いまいったい何階なんだろう? エレベーターがこんなぐあいじゃあ何階にいるのかもわからないし、何階に行けばいいのかもわからない。……ついたらまたまっすぐあるく。ヽヽここは何階まであるんだろう? 
そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……エレベーターはしずかにしずかに上がっていく。もうどこにもつかないんじゃないか、そう不安になったころにようやくゆっくり止まる。ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、……おなじことを何度も何度もくりかえしているうちに、カカシはついうとうとしてしまった。そこへとつぜん、

 もーしもーし、
と空から声がふってきて、見上げると灰色のをした女子高生が携帯電話片手に話していたんだ。いつのまにエレベーターに乗り合わせたのだろう?
「そーそー。ガンダム好きとかいいだすから、いやんなってわかれちゃった♪ きゅうにオタクになるとか、まじきいてないんですけどー、って感じ。うんそーそー、いまつくとこだよ!」
エレベーターのドアがひらくと、そこにもう一人ひらひらのスカートをはいた女子高生がまちかまえていて、
「ミカチンひさしぶりっ!」と目をほそめてむかえた。
エレベーターに乗っていたはずの女子高生は、「アヤタンひさしぶりっ!」とそとにいた女子高生に飛びついている。
「やだーひさしぶりー、しんじらんなーい」
「え、なんで、すごくない? イヒヒヒヒ」
「え、え? イヒヒヒヒ。イヒヒヒヒ」
「なにー。どうして? イヒヒヒヒ」
おでことおでこをくっつけてだきあうふたりは、鏡をくっつけたみたいにそっくりだった。こしまでながれおちる髪、まっしろいワイシャツのむなもとのくろいリボン、折れてしまいそうにほそいうで、すらりとのびた脚さきの、くろいストッキングとくろいクツ。もうひとりの目がひらいたとき、その瞳も灰色だった。そうしてふたりは「イヒヒヒヒ」だけで会話をしていたんだ。

2010/11/02

口癖がうつるとき

投稿者 じん   11/02/2010 0 コメント
相手の口癖がうつるのは、たくさん聞いて「考え方が刷り込まれる」のではなく、相手が自分の話を理解しやすくするため。相手の世界、相手の言葉へ自分の気持ちを翻訳することであり、時枝誠記の「場面への融和」である。

職場の先輩の口癖は「めんどくさい」。コストパフォーマンスへの意識が高い先輩なので、必ずしも後ろ向きな口癖ではないのだけれど、後ろ向きな見た目をしたことばって出来るだけ使いたくはないな、と当初思っていた。ところが最近どうもこの先輩の口癖が最近うつってきたようだ。

「口癖がうつる」というのは、長く一緒にいる人と考え方が似てくることを指して使うことが多いけれど、実際にはどうだろう。コミュニケーションの道具としてのことばにまつわる現象として「口癖がうつる」ことについて考えているうちに、時枝誠記の「場面への融和」にたどり着いた。

「場面への融和」とは、相手の考え方に沿った表現をすることで相手の理解を促すこと。小さな子供に赤ちゃん言葉を使ったり、論理的な考えな人に対して情に訴えるのでなく理屈で説得したりするような場合がそれだ。

「口癖がうつる」というのもまさにこの「場面への融和」で、長く一緒にいれば相手がどのような時にどのようなことを考えてその口癖を使うのかが見えてくる。先輩の「めんどくさい」の場合は、額面通り面倒でやりたくないという感情の表現であると同時に、やろうとしていることのコストパフォーマンスが悪く、もしかしたら別のやり方が考えられるのではないか、さらにはやらない方がいいことなのではないかという考えの表れである。先輩がそういう事柄に対して「めんどくさい」を使うのであれば、「効率が悪いのではないでしょうか?」というよりも「少し面倒かもしれませんね」といった方が、はるかに伝わりやすく、話が早い。

さらに、同じことばづかいをする、というのは同じコミュニティに属していることを表現する手段でもある。相手が自分を仲間だと感じてくれれば、相手に自分の考えを理解させやすくなるのは言うまでもない。

つまり、「口癖がうつる」という現象は、相手と考え方が似てきた結果として起こるというよりも、相手と同じ考え方をしているのだと明示することで、実際には考え方が異なっていたとしても、自分の考えを理解してもらうという、コミュニケーションをとるうえでの戦略として現れてくるものなのだ。

2010/10/27

じいさんとコンビニ

投稿者 福田快活   10/27/2010 0 コメント
おじいちゃんがいた。杖に体重かけてプルプル震えながら、その小刻みなビートがロックなじいさん、見かけたのはコンビニのレジ。ampm。どうも言い合いをしてるんじゃないか、と気づいた瞬間、耳のボリュームがじいさんのやり取りに焦点されて、ノイズが遠ざかってく。「なんかおもくろいことであるんじゃないか」の期待に、胸がワクワク、体をレジの近くへとずらしてく。おじいちゃんはカレーと線香のまじった臭いがした。ククレカレーだ。
「塩こんぶはないのか?」「さきほどから言ってますとおり、そこにあるものだけでして」応答する店員は名札に「ガナシュ」何人だろ?顔立ちから察するには西南アジアっぽい。大変だな、外国にきてヘンなじいさんの応対か。「これは塩こんぶじゃない!てなんどいえばわかるんだ。おまえは何を考えてるんだ?そもそもお前は日本人なのか?ちょっと日焼けしすぎじゃないか」「いえ違います。でもそれはまったく関係ない思います」「日本人にしか塩こんぶはわからん。日本人をだせ、日本人。ここは日本だ!おまえは日焼けしすぎだ」「ですから、しおこぶはありません。申し訳ありません」「おまえじゃ話にならん。店長だせ!店長!」「てんちょうは私です。申し訳ありません」「おまえが店長!なにをいっとるんだ。店長は日本人じゃないといけないんだ。店長が日本人じゃないと日本は日本じゃない!おまえは日本人か?」ここが正念場だ。ガナシュの覚悟が全身からつたわる。間違ってないぜ、心でエールする。「はい、日本人です。。。。あ、沖縄出身です」あ、なんとか逃げたな。と思ったそのとき、杖を両手でトン!と体の正面についたじいさんは「そうか。ならよろしい。しっかり職務に励むように!しかしお前は日焼けしすぎだ」と、店内に不可思議な弛緩を残して立ち去った。おれとガナシュは顔を見合わせた。聞くと毎度の常連で、しかもその店舗の土地所有者らしい。「ほんとうの店長」にそう紹介された、らしいから本当だろう。よく顔を出しては、似たような珍問答をくりかえし、それも手を変え品をかえ、今日は塩こんぶだったが、この前はビーフストロガノフ、その前は美空ひばり、なんでもありの世界の住人。会話とも呼べない会話を数分して去っていく。とくに迷惑がかかるのでもないからぼくはかまわない、とガナシュは言う。毎回同じことを聞くのであれば、世界が止まってループしてるんだ、とわかりやすいが、このじいさんは謎。じいさんの世界がどうなってるのかは誰にもわからない。

2010/10/19

カンナとカカシ(5)

投稿者 Chijun   10/19/2010 0 コメント
――こんなとき、女の子にはどうしてあげたらいいんだろう?
 なでながら、カカシはあれやこれやと考えたり、あっちこっちきょろきょろ見回したりしていた。
 この部屋もおなじだった。でんき電灯もないのに、ずいぶん明るい。かべはいちめん真っ白で、ぴかぴか光っているみたい。ただまんなかで、ちいさなカンナがうずくまっているだけ。ここには……ここにも、なにもない。ドアも……ドアがない!? 入ってきたはずのドアが、すっかり消えてなくなっている。
「おててがおるすになってるよ?」
 気づくと、カンナが顔を上げてカカシをじっと見つめている。カカシはおにいさんなのに、まるであわててしまってね。
「ドアが……ドアがないんだ! さっきまでそこにあったのに。じゃなきゃぼくがここにいるわけないじゃないか!?」
「ドア? カカシはなーんにも知らないんだね」カンナはぴょんっと立ち上がって、スカートをぱたぱたした。「いいわ、カンナが教えてあげる!」
 そういうとちいさなカンナはカカシの手をぎゅっとにぎり、かべにむかって走りだした。
――あぶない!
 カカシの頭を、すっころんだジェントルマンの姿がよぎる。白いかべがどんどん迫って来て、カカシの目はまっしろでいっぱいになる。思わず目を閉じたけど、それでもカンナは止まらなくて、どうやら今はかべのなかにいるみたいだ。



 目をあけると、さっきのろうかにもどっていた。カカシはためしにじぶんの両手を閉じたり開いたりしてみたけど、なんともない。
「ほらね。だからいったでしょ!」カンナはほこらしげに笑っている。「カンナえらい?」
「ああ、とってもおりこうさんだね」
「じゃあ、ごほうびちょうだい!」
……なにが欲しいの?」

「楽園のおいしい木の実が食べたいの」

……わかった。いっしょに採りにいってあげるよ」
「それはできないわ」
「え?」
「カンナはね、じぶんのお部屋でおるすばんしてなきゃいけないの。ひとりぼっちだけど、いいこにしてるの」
「じゃあ……」カカシはここにきたばかりでちょっと不安だったけど、勇気を出していった。今日はカンナの誕生日でもあるのだから。「場所を教えてもらえるかな?」カンナはいったい何歳になったのだろう? じぶんの半分くらいに見える。
「いいわ。ろうかを右側にまっすぐあるいて、エレベーターにのるの。いちばん上の『30』を押して、ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、ついたらまたまっすぐあるく。そしてまたエレベーターにのる。いちばん上の『30』を押して、ついたらまたまっすぐあるく。これを三十三回くりかえすの。そうして最後は、『13』を押すのよ。カカシがあるく道のりは、合計で七百三十歩だわ」

2010/10/09

ことばで世界を描くことについて (2)

投稿者 じん   10/09/2010 1 コメント
日本語の主人公は他人、英語の主人公は自分という考え方をするようになったそもそものはじまりは、日本語の「わたしは」「ぼくは」と、英語の”I”が本当に同じ意味なのかどうかという疑問を持ったことにあります。その疑問に応えてくれそうな考え方が、森有正の「汝の汝」という考え方でした。

「日本人」においては、「汝」に対立するのは「我」ではないということ、対立するものも亦相手にとっての「汝」なのだ、ということである。…親子の場合をとってみると、親を「汝」として取ると、子が「我」であるのは自明のことのように思われる。しかしそれはそうではない。子は自分の中に存在の根拠を持つ「我」ではなく、当面「汝」である親の「汝」として自分を経験しているのである。

極端に言うと、相手がいて初めて自分が存在するという考え方です。他人に認識されなければ自分は存在しない。自分というのは常に他人に見られている。私が持っているTシャツに描いてある言葉を借りるなら、”What is the human being if we exist alone on the Earh?”です。

私は日本語の「わたし」に代表されることば(自称詞)はこの「汝の汝」を示しているのだと考えます。相手から見える自分、つまり相手が自分に対して抱いている(と思われる)人物像を「わたし」は示しているのではないかということです。

手始めに、自称詞の使い分けについて考えてみましょう。自称詞はたくさんありますが、大きく3つのグループに分けられます。「わたし / ぼく」、「先生 / 父さん」、「さっちゃん / さちこ」の3つです。

「先生 / 父さん」は、生徒が「先生」と、子供が「父さん」と呼ぶから、「さっちゃん」は小さいから、ではなく、パパやママが「さっちゃん」と呼ぶから、自分をそう呼ぶのだと考えれば、「汝の汝」はあながち間違いではない気もしてきます。

最後に残った「わたし / ぼく」系はどうでしょう。「私」「僕」など本来の意味は自称詞で用いられるときは薄れて意識されません。用いられる場面を考えてみる方がよさそうです。かたい場所ではこれ、くだけた場面ではこれ、と制約がある気がしませんか。また「ぼく」は優等生っぽく見える。もっと強そうでカッコよく見られたいから「おれ」を使うという人もいるかもしれません。他の2つのグループとは意味の出所が異なりますが、その場にふさわしい人間として見られるためには適切なことばづかいが必要になるという点では、これも相手からどう見えるかを反映した結果と考えられます。

自分をどう呼ぶかという問題も、実は自分より相手の存在のほうが重要で、相手の存在を考慮しなければ自分をどう呼ぶかを決めることができないのです。

次回ももう少し日本語で自分を呼ぶことについて考えます。今回は単語レベルでしたが、次回は文レベルのお話になる予定です。

2010/10/02

「リアル」ってなに?

投稿者 福田快活   10/02/2010 0 コメント
フリーター、風俗嬢、タクシーの運ちゃん、出会いカフェの子、読モ、イベサー代表、みんな『闇金ウシジマくん』の登場人物、奴隷くん(債務者)たちだ。ってネットで検索したら『ウシジマくん』ドラマになんのか!?どれどれ。。。んー、どーでーもいいな。はい、続き→まあ、さっきゆったような肩書きをもつ人がいる。彼らの底では「自分の居場所が欲しい」とか「自信が欲しい」、「誰も賴りにならないからお金が欲しい」というとても素直でせつない欲望がとぐろ巻いてる。『ウシジマくん』はリアルだ!ていわれる。格差、郊外化する社会の若者の現実を描いてる、ていわれる。プロレタリア文学的な、社会の現実をえぐる、的な賞賛の仕方。うん、それは間違ってない。でもマスメディアで『ウシジマくん』をとりあげる人は若者でもないし、郊外に住んでないし、格差社会で苦しんでもいない人の方が多いだろう。「リアル」ってあんた、しってんの?自分の生活とちがうとこをなんで「リアル」っていえるの?でも、そう感じる――若者のリアルだ、て。それはキャラクターのかかえてる思い、悩みが「素直でせつない」誰でもが、胸に抱いたことのある欲望、だから。その欲望が「リアル」だから、『ウシジマくん』には「リアル」を感じる。。ひいては『ウシジマくん』の描く、町田・大宮的都市の描写、格差・郊外にも「リアル」感が増す。町田・大宮的都市とは無関係に生活してて、闇金のお世話になってことのないおれも「リアル」だと感じる。苦しい生活、債鬼に追われる生活こそが「リアル」だ!お金持ってて左内輪でのほほん、ちやほやは「リアル」じゃない!という話ではない。もちろん人はそういう苦しさこそが「リアル!」て思いがちではあるんだけど。

2010/09/27

カンナとカカシ(4)

投稿者 Chijun   9/27/2010 0 コメント
 女の子は泣きやんで、きょとんとした顔でじっとこちらを見つめている。
「お兄さんはほんとのほんとはお姉さんなの?」カカシよりも、ずっとおちついた声だった。
 女の子の顔は、カンナにそっくりだった。でも、カンナよりはずっと幼くて、そう、まるでカンナの時計をまきもどしたような顔だった。
……カンナ?」
 女の子は首をふった。「あたしはね、じぶんのお名前しらないの。『カンナ』ってお兄さんの好きなひと? すてきなお名前ね。きーめた、あたしもそれにする!」
……君は、どうして泣いて……
 カカシが言い終わるまえに、女の子はくびをかしげた。
「なんで『カンナ』ってよばないの?」
 カカシはなんだか恥ずかしい気がしたけれど、女の子がほんとうに不思議そうな顔をしているので、「カンナちゃんはどうしてあんなに泣いてたの?」と、あらためて聞きなおした。
「カンナね、お誕生日なのにひとりぼっちなの」



 十二歳の誕生日。



「そっか。じつはぼくも誕生日だったんだ。昨日だったかもしれないし、一昨日かもしれない。それはよくわからなくなっちゃったんだけどね」
「じゃあいっしょだね」
 元気にそういうと、ちいさなカンナはにっこり笑った。



 恥ずかしがり屋のカカシだけど、ちいさなカンナのまえではどんどん声が出てきた。
「あんまりさむかったから、足がつめたくてじんじんするし、あたまはぼうっとしちゃって――気がついたらここにいたんだ。ぴかぴかのかべにふたりでとじこめられて――それで、それでね、カンナの手はとても小さくて、ぼくの手はここのせいで冷たくなってしまって――そうそう、そこはでんき電灯もないのにずいぶん明るい部屋で――目がさめたらひとりぼっち――そしたらおじさんが現れて(いつから部屋にいたんだろう?)、おじさんはカンナのことを知っていた。おじさんのつぎはやさしいお兄さんで、でも電話なんだけど――おかげで最初の部屋を抜け出せたんだ」
 ききたいことはたくさんあった。ここはいったいどこなのか? カンナはどこへ行ってしまったのか? おじさんはだれ? おにいさんはだれ? ぼくは……ぼくは、いったいどうすればいい?
 が、あせっていっぺんに話しすぎたせいで、女の子の頭のなかではいろいろなことばがかけめぐり、からまってしまったようだ。それに、なにかたいせつなことを説明し忘れてしまった気もする。
……カカシはとってもさびしいんだね」
 それだけいうと女の子はまたうつむいてしまった。こどものあつかいはどうもむずかしい、そう思ったとき、カカシはすこしだけ大人になった気がしたんだ。
 カカシはちいさなカンナの頭にそっと手をおいて、ゆっくりとなでてあげた。それでもカンナは顔を上げようとしないので、こんきよく、ずっとずっと、カカシはなでつづけた。

2010/09/14

ことばで世界を描くことについて

投稿者 じん   9/14/2010 1 コメント
 ことばの話がしたくなりました。日本語で語られる物語の主人公と、英語で語られる物語の主人公の話です。

 でもその話をする前に、頭に入れておいて欲しいことがあります。それはことばは世界を描くための道具だということです。

 以前「つぶつぶ」というお話で書きましたが、世界とは、原子というつぶつぶをほとんどすきまなく敷き詰めたものです。そのつぶつぶをいくつか選んで、選んだつぶつぶに「ねこ」という名前を付けて呼ぶことにします。名前を付ける前はなんだかよく分からなかった世界が、「ねこ」とそれ以外に分かれて見えるようになります。これをキャンパスに描くとすれば、真ん中に「ねこ」がひとつ、他のところは真っ白のまま。「ねこ」とそれ以外の世界が生まれます。これがことばで世界を描くと言うことです。ちなみにこの世界は頭の中だけにある世界です。ちょうど夢みたいなものです。映画が好きな人は夢ではなく「MATRIX」と読んでもかまいません。物理学のような「科学」の世界が現実の世界だとすれば、目が覚めたときに自分も世界もただのつぶつぶになってしまいます。

「ねこ」だけではつまらないので、いろんなものに名前を付けます。「ひと」とか「りんご」とか。「ねこ」が他のつぶつぶをゆっくり押し分けていく様子を「あるく」、速く押し分けていく様子を「はしる」と名付けることも出来ます。

さて、話を進めて、これから私がしようとしている話の結論。私が考えるに、日本語の物語の主人公は、他人です。書き手は登場しません。読者は書き手の目を通して世界を眺めることになります。一方、英語の物語の主人公は書き手である「私」です。読者は物語には登場しない何者かの目を通して、主人公の生活を眺めます。

日本語と英語をこんな風に見てみることで、二つの言語の世界の描き方、その言語を使って考える人のものの考え方が見えてくるんじゃないかと思っています。

例えば、日本語が主観的、英語が論理的な言語だとえる理由。英文和訳で英語の"I"をいちいち「僕は」とか「私は」とか訳していると日本語っぽくも英語っぽくもない不思議な文章になる理由。

これから書こうとしているのは、大学の卒業論文で挑戦して撃沈した、日本語と英語の世界です。時枝誠記、鈴木孝夫、森有正、本多啓の書いた本と私の経験をごった煮にした世界です。負けっぱなしでは悔しいので、もうちょっとがんばってみることにします。

2010/09/09

ここは戦場?

投稿者 福田快活   9/09/2010 0 コメント
歩道に中年のおっちゃんが倒れている。うつぶせに、手が不自然に下腹部で折りたたまれて。ていうのも意識があれば倒れるときに手は反射的に地面をつかむよう胸のあたりで、そう腕立てをするように突き出されるもんなのに、チンコつかんでんのか?下腹部に下敷きに。首のした辺りからすこし黒い、赤い血が流れつづけてる。「池」ていってもいいくらい。排水溝めがけてる。

ここは新宿。

帰ってネットで調べても、なにも報道されてない。

2010/09/04

カンナとカカシ(3)

投稿者 Chijun   9/04/2010 0 コメント



 それからどれだけ時間がたったのか、カカシにはわからなかった。なんせ時計も太陽も、朝も夜もないのだから。部屋は変わらず光っているばかり。カカシはまた泣き出しそうになる。と、ポケットのなかでふるえるものがある。そうだ、ケータイだ。すっかり忘れていた。
 携帯電話をとりだすと、見たことのない番号からかかってきている。知らんぷりをきめこんでポケットにふたたびしまおうとしたとき、とつぜん電話がしゃべりだした。
「こちらこども電話相談室です。なにかお悩みごとですか? あせらずゆっくりしゃべってくださいね」
 これじゃあまるでカカシから電話したみたいだ。
「部屋から出られない? かしこまりました。ただいま電話を代わります」
 電話から、なつかしい音楽が聞こえてくる。タンタタタンタタタン、タタタタタタタ……毎日放課後に流れていた、そう、「パッヘルベルのカノン」だ。音楽の先生が教えてくれた。
「はじめまして。こまっているんだね」
 電話口から聞こえるのはやさしい男の人の声で、こんどはカカシもしぜんにたずねられた。
「カンナはどこ?」
「知らないおじさんに声をかけられてもついていかなかったんだね。えらい、よくできた。君はかしこいこどもだ。自分にもっと自信を持っていいんだよ。安心なさい、君はぼくらにまもられているんだから。こどもたちをまもるのが、ぼくら大人の仕事なんだ」
「カンナは……どこ?」カカシはもういちど部屋を見回すが、やはりだれもいない。
「かわいそうに。君は君のことを君だとおもいこんでしまっているようだが、かんちがいしてはいけない。今、スイッチをきりかえてあげるよ」
 かちっ、という音が受話器のむこうでしたかと思うと、カカシはとつぜんいなくなってしまった、というのも、自分のすがたが見えなくなってしまったんだ。
「ああ、ごめんごめん。まちがえて消しちゃったよ。こんどはだいじょうぶ。そらっ」
 かちっ。
 自分の手が見える。よかった、足も見える。でも……ここは? こんどカカシの目に入ったのは、ずっと続くながい廊下とかべにそってきれいに並ぶたくさんのドアだった。右を見ても左を見ても、同じ風景。廊下はゆるやかに曲がっていき、その先になにがあるのかは見通せない。どちらにすすむべきか、カカシは迷った。



 カカシは左を選んだ。



 歩いても歩いてもやっぱり廊下はゆるやかに曲がっていて、両側には同じドアがずうっとならんでいる。もしも廊下が完全な円をえがいているとしたら?
――そしたらどこまで行っても同じこと。どこか別の場所へ抜けるためには、……ドアを開けなければならない?
 カカシは壁しかない、最初の部屋を思い出した。もしまたとじこめられてしまったら……
――でも、ドアがついているということは、部屋の内側にもドアがついているということ。それなら部屋に入っても、もう一度ここにもどってくることができる。そんなのはあたりまえのこと。ふつうに考えればそうなる、けど……。でも、なかにはだれか人がいて、かってに開けたら怒られるかもしれない。それに、できれば知らない人にはあいたくない。



 それでもカンナにはあいたい。カンナはここにはいない。カンナのきれいな顔をもういちど見るためには、このままここにいてはだめだ。
 カカシは勇気をだしてノブに手をかける。
 ところが、鍵がかかっているのだろうか、ドアはちっともうごかない。「あれ?」 となりのドアも試してみる。ところがやっぱりうごかない。「あれ? あれ?」 カカシは次々に試していったけど、ドアはいっこうに開かない。こんこんとたたいてみても、廊下に響くのはノックの音だけ。やけになって次から次へドアにとびかかる。「なんでぼくだけいつもひとりぼっち……!!」
 無我夢中のうちに思わず開けてしまった最後のドアの奥で、ちいさな女の子が泣いていた。しゃがんでうつむいている、その顔をのぞくことはできそうにない。カカシはどうしていいかわからない。どうしていいかわからないけれど、とりあえず泣き止んでもらわなきゃならない。なにもできないでいるカカシをよそに、その泣き声はどんどん大きくなっていくのだ。こんなところだれかに見られたら、自分が女の子を泣かしているとかんちがいされてしまう。
……どうしたの? ……なにかあったの?」
 女の子はかたくなにうつむいていやいやをする。
 カカシはふとジェントルマンの話を思い出した。〈やれ、といったところで、こどもはなかなかそのとおりにしてはくれない。……自分よりも幼い女の子をまえにして、カカシはおじさんの気持ちが少しだけわかった気がした。なにかお話をしてあげなきゃ……
「ぼくはね、君のオニーサンじゃないよ。もちろんオネーサンでもない。しいていえば……オニーサンじゃなくてオネーサン? だって見た目だけで決めつけちゃだめじゃないか!!
 ちょっとみじかくなっちゃったし、なにかまちがっているような気もするけど、自分なりにくふうできた自信はあった。小さな子は、いっぺんにたくさん話しても理解できないだろうから。それに、最後はおおきな声ではっきりいえた。
 女の子は泣きやんで、きょとんとした顔でじっとこちらを見つめている。

2010/08/27

エンドオブザデイ

投稿者 じん   8/27/2010 0 コメント
終りにしたくない日がある。
特別楽しかったわけでもないのに、終わらせるのがもったいないような夜がある。

家に帰るなんてもったいない。
どこでもない場所の景色にとけこんで、ひんやりした空気を感じていたい。
気が付くと終点まで来ていた。

「少し町をふらふらしよう。」

そんな風にして15分ほど歩いて、たどり着いたのは結局駅の出口の横。
大きなビルの、植え込みを囲むブロック。そこがぴったりに思えた。

人影はまばら。

音楽を聴くでもない、本を読むでもない。ただぼぉっと座っている。

周りには同じように行き先を見失ったように動かない人がいる。
男が一人。女が一人。
仲間に出会ったようで、妙に嬉しい。

「なんだかおかしな夜だよ。分かるんだろ、お前も。」

しばらくすると男と女が楽しげに話し始めた。
顔見知りだったのだろうか。それとも通じ合う何かがあったのだろうか。

裏切り者、と心のなかで呟く。

2010/08/22

投稿者 福田快活   8/22/2010 0 コメント
夏がおわる。

空気は湿気だけをふくみ、太陽からそそぐ熱はもうたいしたことないから、夜は涼しい。ヤ、正確には暑くない。高い湿度はいっこうさがらず、むしろあがってる気さえするほど、気中の蒸気が膚にからみつく。膜みたい。

うほ、もう涼しくなんだな、の秋への期待がそのまま夏のおわりを自覚させるーーやりのこした、みすごした夏はないだろか?海にはいったか?チチとかケツとかおがんだか?かき氷はたべたか?花火は?浴衣?ン?数歩あしをまえに投げただけで、シャツが背中にへばりついてくる?ほ、こりゃやったわ。毎日やったわ。外と中の温度がちがいすぎて、電車ン中、ビルン中で奥歯ガチガチ鳴らしたわ。

ひとが夏を満喫してよがしてまいが、夏は秋に衣替える。蟬はステージを去り、こおろぎはチューニングする。これは感傷?だったら、秋はもうはじまってる。

いち、に、さーん、shit!!

2010/08/16

カンナとカカシ(2)

投稿者 Chijun   8/16/2010 0 コメント
 お父さん、お母さん……。カカシは泣いていたようだった。ほっぺたがぱりぱりするのは、涙がかわいたあとだ。
 気づくとカンナと二人しろくてせまい部屋にいて、出口もなくてどうしようもなくて、となりにすわりこんで、……いつのまにか眠ってしまったんだ。夢のなかでお父さんとお母さんに会ったような気もするけど、夢のなかみはなにもおぼえていない。
「お父さん、お母さん……」カカシは声に出してつぶやいてみる。
 オトウサン、オカアサン、オトウサン、オカアサン、オトウサン、オカアサン……

 オトーサン、オカーサン!!
 突然こだまが大きくなって、カカシは心臓ごと飛び上がった。見ると目の前に知らない男の人が立っていたんだ。教科書で見たことのある白黒の写真の、「ジェントルマン」みたいなかっこうをしたおじさんが、にこにこ笑っている。
「わたしはね君のオトーサンではないよ、もちろんオカーサンでもない。強いていえばオトーサンにちかいということになるのだろうが、仮に、仮にだよ、わたしが君のオトーサンである可能性があるとしよう、しかしその程度の可能性ということで話をすすめるのなら、オカーサンの可能性もけっして捨てきれるものではない、そうじゃないかい? だってこんな時代だからね。見た目だけじゃ決めつけられないじゃないか! ……くふっ」
 一息でそこまでまくしたてると、ジェントルマンはこらえきれないように口から息を小さくはきだし、こちらの反応をじっとうかがっていた。少年が目をまるくして口をひらいているだけなのが信じられない、といったようすだ。
……たしかに君はいい子なのかも知れない、ひとの話は黙って最後まで聞く、まじめにそれを実行しているつもりなのだろうからね。ふむ。じっさい、りちぎなこどもというのはいるものだ。君もそうやって目立たないようにしてきたんだろ? でもね、今ここにはわたしと君の二人しかいないんだ。いいかい、ふたりっきり、ってやつだよ。だとしたら、かくれようとしたってむだじゃないか? わたしの目は、しっかり君をとらえている。すなおになって、おじさんとコミュニケーションしようじゃないか。笑いたいときは、大きな声を出して笑ってかまわないんだよ。それとも、大人の理想でぬりかためられたステレオタイプのこどもを演じるのは本意じゃないとでもいうのかい? おいおい、君ももう少し大人にならなきゃいかんな。さっきの女の子みたいに」
「カンナ!?
 となりを見ると、さっきまですわっていたはずのカンナがいない。
「ほらね、やればできるじゃないか。わたしはね、教育というものに関心をもっている。やれ、といったところで、こどもはなかなかそのとおりにしてはくれない。この場合でいえば、話してごらん、といってみたところで君はだんまりをきめこんだままだったろう。とくに君のようなはにかみ屋さんの場合にはね。この原則は、ひろく応用可能なものだ。勉強しなさい、といって勉強してくれるのなら、そんなに簡単なことはない。勉強したくない? そっかそっか。じゃあやめようか? ときにはそういってみることが有益なこともある。もちろん、その子の性格や個性におうじて臨機応変に対応しなけれなばらない。そしてこどもの個性というものは、こどもの数だけ無限にある。(だからこそ教育というものは底なしに興味深いものなんだ)ところが多くの大人は、こんなに簡単なことをしょっちゅう忘れてしまう。しかしそれも仕方ない。それが大人というもの、すなわち、大人の限界というものだからね」
 ジェントルマンは最後にやさしくほほえむと、ドアのない部屋の、壁に向かって歩き出した。カカシはだいじなことを口に出せないまま、おじさんの大きな背中を見ていた。
――おねがい。ぼくをひとりにしないで……
 カカシが心のなかでそういうと、ジェントルマンは壁に激突し、その場ですっころんでしまった。
「いい加減になさい! まったくなんて子だ。わたしにも都合があるんだ、しかし……まあいい。たしかにこのままかべをすり抜けられるほど、話は単純じゃない。それにしても、うーん。……なんて醜いこどもなんだろう。あの女の子とはおおちがいだ。……カンナはじつに美しい」
 カカシはだいじなことを思い切ってたずねた。「カンナはどこにいるの?」
「きみのお父さんとお母さんは、ある意味どこにでもいるし、ある意味どこにもいない。みんなおなじ……君のカンナだって、おなじことさ。あせることはない。時間はたっぷりある。世界は終わってしまったんだ
 言い終わらぬうちにジェントルマンは、スイッチが切れたかのようにぷつりと消えてしまってね。カカシはほんとうにひとりぼっちになってしまったんだ。

2010/08/10

車掌の仕事

投稿者 じん   8/10/2010 2 コメント
車掌の仕事

「進行方向右手に、花火をご覧いただけるかと思います」

 電車が中河原をすぎた頃、突然、車掌はそんなアナウンスをした。瞬間、2人組のいかついお兄さんが、子供のようにはしゃいで、座席の上に膝立ちで、すげーっ、特等席だ!っと叫ぶ。眠りこけていたおじさんが、何事かと後ろの窓を振り返る。

 タイミングを見計らっていたかのような大玉の花火に、僕もしばしみとれる。

 新宿のホームへ降りるときに、平日の夜に花火で遅延とは迷惑な、と悪態をついていたのだが、車掌の粋な計らいと、車内の光景に、目を細めた。

2010/08/04

投稿者 福田快活   8/04/2010 0 コメント
高度な工業にむすびつく煙と排気ガス、悪臭を放つ汚水がよどむ道ばた、食べかすが浮いてる。人の雲脂とか獣の毛とか土埃、太古から変わらないものが浮いている。

あ、あそこで立ちションしてるやつもいる。横でデジタルサイネージが話しかける。

そういう文明と原始のミクスチュアが近未来ディストピアの魅力だとしたら(人間なんてどこな高度な文明になっても地べた這いずり回ってンだぜ!という叫びでもある)、それが近未来ならぬ現在にあるんだ!ってのが工業地帯の魅力だろう。

写真は堺泉北臨海工業地帯

ブラック・レイン』で異彩をはなってたキリンプラザから数十分。

2010/07/31

カンナとカカシ (1)

投稿者 Chijun   7/31/2010 0 コメント
「にんげんのかなしみのそこがみてみたい」
少女はそういうと、少年の右手にピストルをのせた。女の子の名前はカンナ、男の子の名前はカカシといった。
カカシはカンナのことが大好きだった。「ぼくはカンナに選ばれたとくべつなこどもなんだ」いつも自分にそういいきかせていた。「ぼくは……ぼくは……」いっしょうけんめい、なんどもなんどもいいながら、お父さんとお母さんのいる部屋へ、冷たく長い廊下をはだしで歩いた。とっても寒い日のことでね、足のうらはじんじんして何も感じない、だんだん頭もぼうっとしてくる。

ぼくはカンナに選ばれたとくべつなこどもなんだ。

気づくと、目の前にはかたくなったお父さんとお母さんがいた。眠っているみたいにも見えるけど、目はぱっちりとひらいていてね。カカシは左のポケットから携帯電話をとりだして、お父さんとお母さんのすがたをカメラで撮った。
それは、カカシ十二才の誕生日のこと。
窓からひとすじさしこんでいた光がとつぜんぐんぐんつよくなる、これはたまらない、と目を閉じようとした、そのとき、

カカシのあたまのなかで、なにかがパチンとつぶれる音がした。

光がおおきな手のようなかたちになってカカシをつつみこもうとしているのが、最後に見えた。



目をあけるとそこはまっしろ。なんてきれいなんだろう――床のうえに大の字になったカカシが最初に目にしたのは、光みたいにぴかぴかなかべだった。
――ぼくは夢を見ているのかな。それともさっきのが夢だったのかな?
「もしも、りょうほう夢だとしたら?」
とつぜんどこからかそんな声が聞こえた気がした。でもね、カカシはちっともおどろきはしなかった。とおく、ずっとずっととおくから響いてくるようなやさしい声で、なんだかとってもきもちいい。

ガサッ!
今度はすぐちかくで大きな音がして、カカシは飛び上がった。するとカンナがかわいいお尻をつきだして、猫みたいに部屋中を嗅ぎまわっている。
「カンナ、ぼくは……
カカシの声なんてまるで耳に入らないみたいに、カンナはあっちこっちかけまわっていた。
「カンナ?」
「ここ! ここはどこなのよ!」
ココ! ココハドコナノヨ! ココ! ココハドコナノヨ! ココ! ココハ……
大きな声が部屋中に響いてこだまして、なんどもなんども耳に返ってくる。それは女の子ひとりぶんの声だけではなくて、まるでぐるりととりかこむ壁までもが、うったえかけてくるみたいだ。
カンナにいわれて、カカシは肝心なことに思い至った。
――ここはいったいどこなんだろう?

そこはしろい天井としろい壁にかこまれた角のないまあるい部屋で、なにひとつ物もおかれていなかったんだ。ドアもついていないので、どうやったら出られるのかも分からない。それでもカカシはちょっぴりうれしかった。探索のほうは早々とあきらめて、部屋のまんなかでひざをかかえてがっくりしているカンナと二人きり、このままずっといっしょにいられたらいい、そう思ったんだ。
カカシはそっとカンナの手を握った。
「て」顔を上げてカンナがいう。
……え?」
「手。つめたいね」
それだけつぶやくと、ふたたびカンナはうつむいてしまった。
……でんきもないのにどうしてこんなに明るいのかな?」
どぎまぎしながらカカシは話を変えようとしたけど、反応はない。しかたなくとなりにこしを下ろし、じぶんも体育ずわりして顔をかくした。

2010/07/22

SNSは人間関係を”小さな町”に変えたか

投稿者 じん   7/22/2010 0 コメント
※更新が大幅に遅れたこと、お詫び申し上げます。内容、更新頻度とも充実できるよう努力いたしますので、今後ともよろしくお願いします。

COURRiER Japon8月号でSNS特集が組まれ、「SNSが人間関係を”小さな町”に変えた」とあった。ソーシャル・ネットワーキング・サービスによって、昔の知人や、パーティで一度会っただけといったような、「遠い知人」とのつながりが、遠いまま、しかし常に意識されるようになったことをさして言った言葉である。「遠い知人」の存在感がSNSによって強くなるというのは実感を持ってうなずける。が、それが「小さな町」、つまり良くも悪くも衆人環視の状況を生みだすまでには至っていないだろう。

私もmixiを利用しており、現在マイミクは60人近く。そのうち一度も会ったことがない人物が6人、小中学校の同級生や以前組んでいたバンドのメンバーなどここ数年合っていなかったり、一度しか会ったことがない人が20人ほど。マイミクのほぼ半数が「遠い知人」である。

いちいち説明する必要もないだろうが、彼らとの交流は主に互いの日記の閲覧とコメントという形で行われる。「今日見た映画が面白かった」「女優の○○がかわいい」などといった日記に対して「俺も好き」「いーなー」などの合いの手を返して終わることがほとんどである。内容としてはちょうど、教室の休み時間で交わされる雑談のようなものだが、休み時間の雑談で得られるような一体感は得られていない。

一体感は「小さな町」には欠かせない要素だろう。お互いどこで何をやっている人間かを把握したうえで、害のない程度のお付き合いをする。井戸端会議で人の噂話をしあい、閉塞的でぬるま湯のような居心地の良いコミュニティをつくりだす。

mixiが完全招待制でスタートした当初、私は、万人に開かれたネット世界に、ムラ社会を持ち込んでどうするのか、と小馬鹿にしていたのだが、周囲の友人はみなあっという間にその社会に取り込まれ、自分も始めなくてはいけないような気がしはじめ、とうとうアカウントを作ってしまった。このときには、間違いなく「小さな町」の一体感が働いていた。が、これはネットの中の話ではなく、あくまで友人同士というリアルなコミュニティ内での一体感である。

一度中に入ってしまうとどうか。マイミクが書いた日々の日記は、リアルで付き合いのある友人との交換日記ではなく、昼ドラのように消費されているように思う。視聴者はその場で短い感想を書き残して行くが、その感想が交換され、共有され、一体感を持って発展していくようなことはまずない。書き捨てられるか、日記を書いた側が、1つ1つバラバラのまま、コメントを返して終わりである。娯楽として消費されるのみで、全体をつなぐような行動にでるユーザーはまずいない。

2000万を超える(RBBTODAY)人間が集まり、数十人とマイミクになるひともざら。まったくの赤の他人だらけの「顔の見えないネット社会」とは違うのだから、日記を消費するだけでなく、もっとオフラインへ発展させられるはずだと思うのだが、なかなかそううまくことは運ばないようだ。その要因の一つに、ネットでのコミュニケーションが完全なターンテイキング制(重ならず、相手が話し終わるのを待って順番に話す)であり、共感をたかめるのに重要なオーバーラップが難しいのが原因かもしれない。このあたりをもう少し深めつつ、次回は「もっと面白い使い方」を考えていきたい。

2010/07/16

成毛眞とamazonの7人の小人たち

投稿者 福田快活   7/16/2010 0 コメント
成毛眞は読書・書評の世界ではそうとう影響力あるんぢゃないかと思った。次第はこうだ――成毛眞『大人げない大人になれ!』を読む。最終章が「大人げなさを取り戻すための本棚」=推薦本リスト&コメントになってる。いくつか気になった本をamazonで検索する。たとえば『僕がワイナリーをつくった理由』を検索する。ページ中央に「この商品を買った人はこんな商品も買っています」が表示される。ここにパッと列挙されたのが成毛眞の推薦本だってのも驚いた。「ずいぶん購買欲あおってるな」と。欲、ていうか実際にみんな買ってるわけだが(笑)

まあ、でもここまではそんなに驚かない。成毛氏の推薦する本はどれもおもしろそうだし、そりゃ買うわ、と。ちうかおれもその1人だし、と。びっくらこいたのはこれ。見て欲しい。生化学者キャリー・マリスの自伝ていうか「おれエッセイ」なんだが、「マリス博士の奇想天外な人生」で検索して「積みすぎた箱舟」とか「社員をサーフィンに行かせよう」とか「ダチョウ力」とか「ご冗談でしょう、ファインマンさん」「僕がワイナリーを作った理由」「モーセと一神教」「コンテナ物語」が〈『マリス博士の奇想天外な人生』を検索した結果〉表示されてる。どれも著者・タイトル・内容・レビューをみるだけでは何の関連もない。『大人げない大人になれ!』て成毛氏がすすめてた以外の関連性はしょうじき発見でけんやろ。

これってamazonの図書検索マスクデータに成毛眞推薦本タグとでもゆうのが含まれてて、だから『マリス博士の~』タイトルを検索しただけで成毛眞を通じて関連性がうまれた他の本が表示される仕組みになってるんだろう。タイトルとかで検索してときどき、「なんやこれ!?なんの関係もないやんけ」て思うもんが表示されるのはこういう仕組みだったのかと納得。今日日の検索というか、検索機能の向上につとめるamazonの執念すごいね~~。世界の知をデジタルに組織化する、ていうグーグル的な攻殻機動隊的な未来・現在にまた一歩足踏み入れた実感。個人的に興味あるのは成毛眞推薦本タグがあったとして、どうやってそれを設定してるのか。人が設定してるんだろうか、それともロボット型で設定してるんだろか。人ならインタビューしてみたいし(相当本好きの人たちでしょう)、ロボット型なら仕組みをしりたい。誰か知ってたら教えてください。

成毛氏の本はいいのでおすすめ。ちなみにおれは(「大人げない」の「ゲ」と成毛眞の「ゲ」に関係はあるんだろか。。。。)読みながらずっと気になってた。

2010/07/11

iPadとiPhone4

投稿者 Chijun   7/11/2010 0 コメント
iPadを購入して約一ヵ月半,iPhone4を購入して約二週間が過ぎました。
どちらも極めて便利なのですが,個人的にはiPadの方がお気に入りかな?スペック的にはiPhone4の方が処理速度は速いはずなのだけど,筐体の小ささ故の熱対策のため,機能的な制限がかけられているらしく,体感速度としてはiPadの方が思いのままに動いてくれる感じ。
RSSやTwitter,メール,インターネットなど,どちらも情報収集のためのデバイス(つまり「読む」ためのデバイス)として使うことが多いのだが,ディスプレイの大きさゆえに,読むスピードもIPadの方が断然速くなります。iPhoneで30分かかる作業が,iPadでは15分で終わる,といったところか。
しかし連日こういったデバイスをちくちくいじくりまわしていると,「情報化社会」「情報の洪水」「インターネットの図書館化」といった単語が頭の中をよぎることがままあるのですが,情報との付き合い方というのは,よく考えないとどんどん難しくなってきていますね。実感としてはもはや「情報のカオス」に近く,大量の情報に簡単にアクセスできるようになった反面,情報の収集が自己目的化するというか,そもそも「情弱」にならないために気になる情報を全てチェックしようとすると,「可処分時間」すべて使っても足りないくらいになってきました。
情報を吸収する一分子と化すのみならず,優れた情報の発信者になるためにはどうすればいいのか。言葉にしてしまうと陳腐ですが,吸収した情報を頭の中で整理し再発信する自分なりのやり方を考えつつも日々は恐ろしいスピードで過ぎていきます。
情報というものについて,またその付き合い方,みなさんはどのように考えていますか?

2010/06/30

ウェッサイトーキョーで踊る

投稿者 じん   6/30/2010 0 コメント
 6月26日(土)、八王子駅前のダイニングカフェ/バー、MILLALCOで行われたDJイベント”dish vol.02”に参加。このイベント、19:00オープン-23:30クローズで夜に弱くてクラブに遊びに行くのを断念しているようなクラブ音楽好きには嬉しいイベントである。
 八王子といえば、ガラの悪い不良の街というイメージを持っている人も多いだろう。実際、八王子の有名クラブ「ZONE」なんかは、ガチガチのウェッサイ系HIP HOPメインで、かなり怖いらしい(dish主催者さん談)。地下に降りていく階段だけでも十分にいかつい雰囲気で筆者には敷居が高い。では、”dish”はどうかといえば、オサレなJAZZ系メイン、ソファーでゆったり酒を飲むもよし、フロアで汗を流すもよしという、「カフェとクラブの融合」を図った「クラブ初心者にもやさしい」イベントとなっている。
 筆者が参加したvol.02では、ゲストのR&Bボーカルユニット”newness”がのどを壊しライブをキャンセルしたことも影響して、チャージなし、MILLALCOの通常営業+DJといったスタイル。そのため、フロアは特に設けられず、イベントスタッフとその周辺の数人がDJブースの前のちょっとした空きスペースで体を揺らしているような状況で、踊るつもりで行った筆者ははじめ肩透かしを食らったのだが、MILLALCOのひき肉チャーハンとジャーク、そしてテキーラ!も手伝って、一人カウンターで体を揺らすだけでもかなり楽しめた。”Remember The Time”で始まったMJタイムは、WOWOWの特集をみのがした筆者には非常に嬉しかった。そんな姿が目立ったのか、イベントスタッフも気さくに声をかけてくれた。また、突然の”Happy Birthday To You”(スカ風アレンジ)でお客さんの誕生日を祝うサプライズなんかは、まさにダイニングカフェならではの演出。
 今回は出演者のキャンセルなど通常とは違った部分もあり、「カフェとクラブの融合」を謳うにはクラブ要素が少なかったけれど、その片鱗は感じられるイベントだった。なにより、八王子という「ウェッサイ」開催で、しかも終電前に帰れるというレアなイベント、今後に期待したい。

2010/06/26

博奕がしたくて生姜がない

投稿者 福田快活   6/26/2010 0 コメント
思えば中学・高校生私は博奕が大好きだった。といってももちろん阿佐田哲也みたいに、玄人(バイニン)の世界に単身身を潜らせるハイティーン、妖怪変化・魑魅魍魎・鵺・ひょっとこ・ぬらりひょんなしわの数だけ年季のいった玄人に揉まれ、叩かれ、斬りつけて頭角を現してく、通り名は「坊や哲」なんて凄まじいハナシぢゃあない。教室の隅とかど真ん中で昼休み、十分休憩、放課後(そういや授業中もあった。学級崩壊)に友達と打つだけ。ベルが鳴るのをいまかいまかと、鳴おわる前に心とカラダ弾かれたメンツがひとつ机に集まる。「やるか」。チンチロリン、おいちょかぶ、ポーカー、麻雀。だいたいがこんなとこだった。イヤ、大富豪でも賭けた。とりあえず何でも賭けたい年頃だった。ハイティーン。そんな「年頃」があるのか知らないけど、友達とバス停で待ってて次くるのが男か女か。そんな賭けもした。漫画みたいに「来たのはおかま」なんてうまくオチはつかない。

いちばん好きだったのはチンチロリン。サイコロを三つ振って、その目を競うだけ。詳しくはこれでもみてくれ。アゝ、一読郷愁が薫る……「アラシ」「シゴロ」「ヒフミ」。教室の、木の臭いが甦ってくる。机の香りだ。。。。あ、ごめん。イッちゃってた☆メンゴ、メンゴ。

なんで好きだったか?金が動くから。迅速に、おおきく。張りを大きくして、乾坤一擲・捲土重来をねらう。それが当たろうが外れようが、両手に賽を鳴らして、丼に投じるまでの連続したいくつもの一瞬間は、絶対的な緊張と期待と恐怖と希望に満ち満ちて、全身の細胞を感じとれる、ふつふつと「生」が漲るこの充実感、アゝ何テ言エバイインダロウ!書いてるいまも心臓の鼓動が速くなってきた!それで当たって勝ったときにゃあ、もう……!

森巣博はこう言う

わたしはハウスがバストするように祈った。/神の存在など微塵も信じていないのだが、それでもこの時は祈った。/人はカシノで夢を見る。人はカシノで祈る。/そう。夢を見ること、祈ること。この(多分)人間だけが持つ特権を、集中し凝縮して行使できる場として、わたしはカシノを好むのである。

あるいはこうも言う

勝利すれば、感情などが入り込む余地のない、まっさらな快楽が得られる。大賭金での勝利が連続すれば、まっさらな快楽は、いつの間にか光り輝く全能感に変化する。そこには、懼れも怯えも、存在しなかった。すべてが可能だ。行く手を阻むものなどなにもない。不思議と未来が見透かせた。次のカードが読める。なぜなら、自分は神に変身していたのだから。


祈りたくて、夢が見たくて、果てには全能感を体験してしまったから、人は博奕を打つ。おれは高校までの仲間内のしょぼい博奕をやり切って、もういいやと思った。向いてないことがわかった。おれはカモになるだけだ。そもそも全能感体験するほどデキナイし、ただ祈りたくてやるやつに、「墜ちながら夢をみる」以外の結末が残ってるはずもない。全能感を体験しながら、淫することなく、それこそ言語道断の自己管理能力で自己を律しながら博奕を打ち続けるのがプロ。おれはそういう博奕を打たなかった。麻雀でも派手な、人を魅せる打ち方が好きだった。それを完遂する☆のもとにぼくは生まれてない。

て悟ったつもりだったのが、森巣博『越境者たち』を読むとカシノにいきたくなるから困ったもんだ。

こちらにある通りで、森巣博の蘊蓄といったら怒られるか、社会の裏話、いわゆる思想的なところも面白い。もちろんモノガタリの部分になるヒロシ、マイキー、ウルフのハナシもおもしろい。カシノに淫すること、そこにある祈り、夢、全能感、それこそが「生」だ!生きてるってことだ!リア充だ!リア充になりたけりゃ、カノジョとかつくる前にマカオにいけ!でもその「生きてる」人間は境を越えてしまった人間でもある。生存し続けたけりゃ、もどってくる手段を講じないといけない。じゃなきゃ淫してドン。おしまい。そんなカシノ疑似体験ができる。博奕、カシノに興味はあるけど、身を持ち崩すのがこわい人はおすすめ。とりあえず『越境者たち』を一読、疑似体験でお茶にごしてください。おれみたいにかえって熱が昂じるかもしれないけど(^^)/

2010/06/21

対談のおもしろさ 〜高橋源一郎と東浩紀〜

投稿者 Chijun   6/21/2010 0 コメント
6/12日青山ブックセンターにて,高橋源一郎と東浩紀の対談を聞いた。ニコ生の中継も入っていたので,それを通じて見た人もいるかも知れない。開始直後ニコ生の視聴者数を気にした東浩紀がスタッフに聞いたところ,二千数百人といっていた気がする。チケット代を払って会場まで来た人たちと,無料でインターネットを通じて聞く人たちの公平を心配した高橋源一郎は,来場者全員に,サイン入りの書き下ろし文章を用意してくれていた。

以前いくつかの対談がつまらなかったとこのブログに書いたことがあったが,二人ともおちゃらけつつ軽いノリで入った前半,ほとんど高橋源一郎一人が喋っていた中盤と続くにつれ,「ああ,今回も今までと同じで,あまり面白くないのかなあ」と飽き始めていたのだけど,ずっと興味あるのかないのか分からないような感じて高橋源一郎の話をほとんど頷きもせずに聞いていた東浩紀が,高橋源一郎の粘り強い語りかけよって,わずかに頷いたり,ぽつりぽつりと喋り出すようになり,徐々に相手の伝えんとする熱意に巻き込まれ,ついには大きな声といつもの早口でまくしたてるような調子にまでなったのだった。

わたしは,納得できないことには安易に頷かない(それは無関心と紙一重の,対談としては危険な態度であろう)というシンプルだが簡単ではない姿勢を貫いていた東浩紀が,高橋源一郎の「ぼくのはなしていることはめのまえにいるあなたにかならずつたわるはずだ」という素朴といってもよい語りかけをゆっくりと理解し出し,触発され,新たにその場で生まれた考えをだんだん勢いに乗って今度は相手に返したのだ,と,ステージ上での一連の過程を理解した。

要するに,わたしは理想的な「対談」を経験したのだ,ということを書きたかったわけです。

2010/06/12

やりたいのはその程度のこと―大学5年生の声明文

投稿者 じん   6/12/2010 0 コメント
 このテスト期間をうまく乗り切れば、5年間通った大学を卒業してシャカイに出て、カイシャでハタラいてカネをカセいでメシをクウ。キュウジツにはバンドやったりスキナコトをする。今あるのは自分にあったやりたい好きな仕事をして充実した日々を過ごしたい、みたいなことじゃなくて、知らないところで知らない生活をしてみたいって欲求。それが2年前の夏初めての一人旅行でカナダに行ったこととか、去年の夏一人で初めて屋久島に行ったこととか、近くの自然公園でプチ山登りをすることと同じように見えてる。知らないものの中に知ってるものを見つけたり、知ってるものが違って見えたり、そういうのをやってみたいだけ。
 甘いとか何とか、大人とか、まじめな若者は思うのかもしれないけど、自分が見たこと聞いたことでしか物事はかれないんだから、どーでもいいのね。社会科見学気分で一つ、知らないところを覗いてみたい。それだけ。
 社会科見学って、興味ないものをただぼーっと見ててもめんどくさいだけで、何が楽しいって、いい壁新聞作るためのネタ探し。そのために真剣に見たり聞いたり、ちょっとお仕事体験してみたりするのがいいんだよ。で、自信満々で、どーよ、オレの壁新聞、いいだろ、よく見てんだろ、深いだろって廊下に貼るの。
 それで実際周りにもてはやされたり、他の奴がやたらほめられたりすんの。で、壁新聞なら、意地張ってればいいんだろうけど、シャカイってのはそーじゃないって、そういうことになってるよね。ここんトコが問題。まあ、ダメならダメで、遊び方考えるしかないよね。学校と同じで、簡単にやめるわけにはいかないだろうしさ。

2010/06/07

続・「ロシア構成主義のまなざし」と「かっこいい」

投稿者 福田快活   6/07/2010 0 コメント
ちょっとバタバタしてて、今回は手短に「対象が男子そのものだとなんで男女の「かっこいい」に反目がうまれるの」についてだけ書きます。「申し訳ありません」だけど、よろしくお願いしますm(_ _)mさてこの、なんで反目が生まれるかだけど、「かっこいい」=「オトコだね~」って考えると見通しがよくなる。男子にとっての「オトコ」と女子にとっての「オトコ」がちがうからだね。

男子にとって「オトコ」は男である自分自身と切り離しては考えられない。頭のどっかで「オトコ」と自分が地続きなのを意識してる、てかそれは切り離したくてもできない。たとえば健さん(←9/12の記事)的な黙してかたらず、ただ己が勤めを果たし、ひとり寂しげな背中が去っていく、だけの「オトコ」があったとして、そうなりたい「憧れ」とか「オトコだ!」と思う「ときめき」とかなくっても、世間一般ではそういうのも「オトコ」として称揚されてて、「オトコ」の一員であるおれもそうあれ、という無言の要請にさらされている。それが男子にとっての「オトコ」であり「かっこいい」だ。「憧れ」「ときめき」のところは個々人の趣味志向に関わるけど、世間一般で「オトコ」とされてるものと絶えず闘っている、そうしてはじめて男子の「かっこいい」はつくられる。もちろん女子にそんな要請はない。女子にとっての「オトコ」はいいと思う異性に過ぎない。女子本人と関係がない、という点で男子の「ジョシ=かわいい」と同じ。

自分がどうあるのか、どうありたいか、どうあるべきかと関わってくる男子の「かっこいい」と趣味志向としてある女子の「かっこいい」では「かっこいい」と思えるためのメカニズムが全然ちがうから、自ずとかわってくる。あえてとーっても単純に言っちゃうと男子はより雰囲気・風格みたいなものに力点をおいて「かっこいい」を感じるし、女子はより造型に力点をおいて「かっこいい」を感じる。自分と関係ないんだから、外見重視で「かっこいい」を判断するのは当然だね。男子の「かわいい」なんか外見以外なーーんにも見てないし(笑

2010/06/03

iPad購入!~電子の本と紙の本(3)

投稿者 Chijun   6/03/2010 1 コメント
iPad購入しました!
という報告はネット界隈あちこちで見かけるけど,わたしもその一人です。
優れたデバイスとは何か?
などと言ってしまうと大げさですが,わたしが大切にしたいのは,「身体の延長」であるかのように,ほとんど無意識のうちに,自在に操れるということ。
その点,たとえば紙の本というのは実に優れた「デバイス」です。ほとんど重さも意識させないし,折り曲げたり,たわめたり,柔軟にかたちを変えることもできる。それにパソコンなどに特有の,読み込みによる遅延もない。
それに対して,いわゆるデジタル・デバイスはどうか? デスクトップ・パソコンはもちろんのこと,ノートパソコンでも,重いし,固くてかたち変わらないし,眼との距離感は遠いし,あまり褒められたものではありません。わたしはiPhoneも使っていますが,画面の小ささや,読み込みによる遅延にはずっと不満を感じ続けている。
そこで,iPadの登場です。iBooksをはじめ様々な電子書籍ビューアが早くも手に入るようになっており,レイアウトの美しさ,読みやすさへの配慮,コンテンツの充実など,しのぎを削っています。しかもすべての動作において,読み込みは極めて早い。あとわたしが特にプッシュしたいのは,「眼との距離感の近さ」です。インターネットで文章を読むときに,パソコンの固定位置というのがどうしても遠く感じられません? 自由に手に持って位置を変え, たとえば本を読むように自在に,自分の身体の延長を扱うようにして,コンテンツを楽しめる。それがわたしの理想の「デバイス」です。
iPadが登場し,そんなわたしの理想へとまた一歩近づいたように思います。ただ,これけっこう重いんですよね…。もちろんこれだけの高機能でパソコンなんかに比べたらずっと軽いのですが,紙の本と比べてしまうとちょっとがっかり。
紙の本が長い年月をかけて熟成された「デバイス」へと成長したように,デジタル・デバイスもゆくゆくは,今よりずっと大きな自由を手に入れていてくれたら,と思います。
みなさんの理想の「デバイス」は,どんなデバイスですか?

2010/05/26

つぶつぶ

投稿者 じん   5/26/2010 2 コメント
 少し前に流行った脳科学の文庫本。本棚の奥から引っ張り出して、少しだけ読み進めていたら、体が溶けていくような感覚に陥った。人間の心はニューロンの発火だ。生命活動は化学現象で、肉体は原子の寄せ集めだ。そんなことを考えているうちに、自分と自分以外の境界線があいまいなもので、自分の存在が自然現象の一つのように思えた。鼻の穴で、冷たい空気の流れとして、原子と原子の交流を感じる。

 自分が自分だと思っているつぶつぶの塊が、別のもう少し緩やかなつぶつぶの集まりをかき分けながら歩いていく。向こうからまた別のつぶつぶの塊がやってきて、少し離れた所から、緩やかなつぶつぶを震わせ、その振動が僕のつぶつぶを震わせる。僕もまたつぶつぶを震わせて、あいだのつぶつぶ同士震えを伝え合って、やがて相手を震わせる。繰り返すうち、僕のつぶつぶの震えはだんだんと激しくなる。震えて、震えて、やがて、弾け飛ぶ。

 弾けたつぶつぶの震えは、さらに周囲のつぶつぶを震わせて、共鳴し、次々とつぶつぶの塊を弾けさせる。

 弾けたつぶつぶはお互いぶつかり合いながら、ピンボールのように駆け回り、やがてまた寄り集まって、いくつかの塊と、そのあいだを埋めるゆるやかな集まりとなる。弾けて飛び回る前とは少し違う組み合わせで、似たような形の塊になる。こうしてつぶつぶの塊である僕らは、あらゆるものと少しずつつぶつぶを交換していく。

 休日の午後、たまの読書の合間、そんな実のないことを考えていた。

2010/05/22

「ロシア構成主義のまなざし」と「かっこいい」

投稿者 福田快活   5/22/2010 0 コメント
フランツ・フェルディナンド「Do you want to」のCM、あれはソニーウォークマンだった気がする、に出遭ったのはいつだっけ?ネットでみてっとどうも2006年くさい。ていうのもシングル発表が2005年、収録アルバムは2006年。聞いてすごいいい!ダンスビートきいててロックでダサかっこいい!思ってすぐ、アルバム買った気がする。だから2006年の推測なんだけど、そんな枝葉はさておき、この先になにがあんのか?てアルバムジャケットに使われてたデザイン。女の子がインディアンみたいに呼ばってるあれ。あれはロシア構成主義を代表するロトチェンコのこれを下に敷いてる。

でタイトルにある「ロシア構成主義のまなざし」展のはなしになる。ロシア構成主義(て打ち続けるのも長いので次から製造業の工場風省略形で「RK(Rosia Kouseisyugi)」)は、ひとこと、「ダンシ」(男子)だった。地球がほんとは楕円なように、「神がつくりたもうたこの世界は美しく単純な数式で表せるはず」と聞いても「そげな信仰は共有できまへんな」としか思えないように、純粋な円とか直線はほとんどないこの世を幾何学的な、整形された円と直線に集約してしまう大胆さはちょっとひく。その「大胆」は「乱暴」でもあって、ダンシ的あるいはファシズム的な、明快さを好む「乱暴なぶったぎり」だ。ナチスのポスターとか思い出してほしい。でもナチスはそこまででもないけど、RKはあきらかに「かっこいい」。ぢゃあ「かっこいい」は「ダンシ」で、「かっこいい」は「ファシズム」なんか?「かっこいい」についてあまり考えてるひと見たことないんだけど、思い出すのは宮沢章夫くらいで、やっぱりこの人はすごいなって思ったんだけど、こういう空気的な概念をもとから共有してない人につたえるのはとてもむずかしい。宮沢章夫の「かっこいい」も正直よくわかんなかった。hip、60年代?ジャズがいけてたイメージなんだけど英語の「いけてる」に相当するhipを、小説一冊読み終わってはじめて宮沢章夫がわかった気がする、ってのはほんとそうだと思う。hipはいまもよくわかんないけど、ケツと関係あるんだろな、ってのはわかるww オトナに関係する、って感じかな。

話はもどって「かっこいい」だ。誰もがRKをみて「かっこいい」と思うとは限らない。おれが思った、てことはおれの「かっこいい」に過ぎないかも。だからこっから考えるのはおれの「かっこいい」について。補足しとくとおれは80年代前半生まれニッポン男子。あえて「80年代前半生まれニッポン男子のかっこいい」について考える、と言い訳しとこう。

「かっこいい」が「ダンシ」なのは自明だ。「かわいい」が「ジョシ」なように、ジェンダーを浮かび上がらせる志向っていえるかもしんない。「かっこいい!かっこいい!!」叫んでる女子はあんまいない。対象が男の子の場合は別だけど(彼、チョーかっこいい!)。別にほかのもの、そうね車とか電車とかバイクとかみて「かっこいい!」叫んでる女子は思い浮かべにくいけど、叫んでる男子は容易に想像できる(実際いるかいないかは別として)。気にしたいのは女子が「対象が男の子」だったら「かっこいい!」て叫びまくれる、てとこで、これはなんだろう?女子がじぶんにとって魅力的な男=かっこいい、て考えると「かっこいい」=「オトコだね~」て考えられる。女子がいいと思う「オトコ」と男子がいいと思う「オトコ」に当然ちがいはあるから、女子の「かっこいい」と男子の「かっこいい」にも違いがある。

でも身の回りで男の子対象いがいで「かっこいい!」て叫ぶ女の子を思い出すと、男の子いがいが対象のときの「かっこいい!」は男子の「かっこいい!」と違いがない。そしてそうした子は女性誌がきらいで男性誌が好き☆って子でもあった。対象が「オトコそのもの」、つまり女子からみて対象にそもそも「オトコ」が充填されて明視できるときだけ女子の「かっこいい」は自立する、てこと。対象のオトコ性が自明ぢゃない場合、車でも電車でもバイクでも、女子と男子の「かっこいい」に違いはない。

これはけっこうおもしろくって、なんで対象が男の子のときだけ男女の「かっこいい」に合意が得にくいの?てのは女子対象の「かわいい」にもあてはまる。合コンで「かわいい子連れてきたから!」っていわれて、現地とか駅前で「おいおい、あの集団ぢゃねえよなー(-_-)」ておそるおそる接近してみると、沈黙以外に術がないのは、幹事の子が自分より「かわいい」が下の子しか連れてこない女子だったから、とか審美眼が狂ってる子だから、では「説明がつかない!!」って経験は男子なら誰でもあるはず。あとで問いつめてみて、その子に何のわるびれもなく「え?かわいくないの?かわいくない?なんで?なんで?」とむしろ「あたしショック(>_<)」な視線に、すべてを諦める修行僧の境地に達したこともあるはず。でもおなじく女子いがい、が対象だったら、男女の「かわいい」が反目することはあんまりない。男子の無関心、理解できない、はあるけど。これは「かっこいい」も同断だね。

この問題はちょっと後にまわしてとりあえず話まとめると「かっこいい」=「オトコだね~」で、男女が感じる「かっこいい」に反目はない(対象が男子そのものの場合は別。)。ただ男子の方が関心の傾斜は高いので、女子の不理解はある。「オトコであること」を通してモノ・コトを受け止めるかしないかの違い、であり、男子の感覚からすると世界は「オトコ=かっこいい」で充填されてるけど、女子は「ジョシ=かわいい」で充填されてるってとこかな☆

長くなったので続きは次回。ばいばいき~ん^(ノ◎皿◎)^ノ

対象が男子そのものだとなんで男女の「かっこいい」に反目がうまれるの
RKについてもうすこしちゃんと
フランツ・フェルディナンドとRKの違い
RKからみる「かっこいい」について
あたりを詳しくやりま。羊頭狗肉にならないよに

2010/05/19

二つの対談~保坂和志と佐々木中,大江健三郎と中村文則~

投稿者 Chijun   5/19/2010 2 コメント
最近立て続けに,文筆家同士の対談を二件ばかり聞いてきた。
一つ目は,五月九日,青山ブックセンター本店での,保坂和志と佐々木中の対談。二つ目は,五月十六日,講談社での,大江健三郎と中村文則との対談。
前者は佐々木中という,ベテラン作家保坂和志が一押ししている若手評論家の対談で,後者は大江健三郎賞の授賞式であった。奇しくも両者ともに「ベテランー若手」というペアだったが,共通点はそれだけではなかった。ステージ上に二人並んではいるのだが,どうも話が噛み合っているように見えない。単純に発話量の点でいっても,一人が九割方しゃべり倒すという,およそ対談とは呼びがたいものであった,と思う。ちなみに,前者では若い佐々木中が,後者では,ベテランの大江健三郎が大半の時間しゃべっていた。
別に内容を批判するのではない。ただ「対談」という以上は,そこは独演会のステージでもなければ,くだを巻くための居酒屋でもないのだから,なんというか,二人の間で,「建設的な発展のある話」を聞かせてもらえなければ,どうも損した気分なのである。別に「激しい衝突」でも構わない。とにかく「ふたり」いなければ生じないような何かを期待したい。こっちは身銭切って時間をつくって聞きに行ってるのだから。
「対談」というのもある種のライブなわけで,うまくいくときもあれば,しらけるときもあるのでしょう。本をひとり自室で読んでいるだけでは得られない何かを一時きらめかせてくれるような,名対談はどこかに落ちてないかしら。
あっ。そうそう。来月は最近「「悪」と戦う」を出版した高橋源一郎と,昨日「クォンタム・ファミリーズ」で三島賞を受賞した東浩紀の対談を,再び青山ブックセンターに聞きに行ってきます。いいライブに立ち会えることを祈ります。

2010/05/13

あんず

投稿者 じん   5/13/2010 0 コメント
 高尾山帰りで寝過ごした各停の、終着駅が高幡不動。呼ばれたかな?と思いつつ、数年振りに珈琲はうすあんず村に足をのばし、マイルドブレンドとちょび助でひと休み。
 「やっぱりいいお店だな」なんて珈琲飲んでると、2人の女の子が、斜め向かいの席に入ってきた。何気なく追う僕の目と、隣の席にカバンを置こうと横を向いた彼女の目がぴたり。
 3つ星つけていたお店に星を1つ上乗せして、珈琲をお代わりしました。その日の夕焼けがピンク色に染まったのは出来すぎでしょう。


2010/05/10

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)3

投稿者 福田快活   5/10/2010 0 コメント
さて、このパラニクのシリーズも最終回。『インビジブル・モンスターズ』を書くためにダイヤルQ2して、色んなひとの変態話を収集してたってとこまでが前回。変態話はまた「真実」の物語でもあった。そして世界は物語る人々で出来てる、とか。

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4冊目の本『チョーク』の下調べするあいだ、セックス中毒者のおしゃべりセラピーに週2回、6ヶ月間参加した。水曜と金曜の夜。

多くの意味でこの雑談会は、ぼくが参加してた木曜夜の作家ワークショップとあんま違わなかった。どっちの集まりもただ「自分の物語する人たち」だった。セックス中毒者はひょっとしたら技巧にあんま関心がなかったかもしんない、でも数多の風呂場セックス・売春婦の物語して、観客からいい反応をひきだす腕はもってた。多くの人はもう何年も集会で語ってきたもんだから、耳をかたむけると、そこには素晴らしい独白が在った。抜群の役者が彼―彼女自身を演じてる。1人芝居のモノローグから本能が感じられるんだ――ゆっくりと明かされる重要な情報、創られてゆく劇的緊張、ヤマ場を組みあげて、聴衆を完全に巻き込む本能。

『チョーク』のときはボランティアとしてアルツハイマー患者とも同席した。ぼくの役割はただ患者がみんなクローゼットん中の箱にしまってる古い写真について聞くだけで、彼らの記憶を試し、刺激しようとしてた。看護スタッフには時間のない仕事だった。この仕事も、「物語を語ることについて」だ。日がな日がな同じ写真をみるんだけど、患者がちがう物語をするうち、『チョーク』の脇筋が出来あがっていった。ある日だと、美しい胸も露わな女性は彼らの妻だった。つぎの日、彼女は海軍に勤めるあいだメキシコで出会った女だった。その次はむかしの同僚だった。ぼくが打ちのめされたのは・・・「彼女が誰か説明するためには、話を創るほかないんだ」ってこと。もし忘れちまってても、絶対に認めなかった。穴だらけのウマク騙られる物語はいつだって、「そんな女憶えてない」って認めるよりましだ。

ダイヤルQ2、病気支援グループ、12段階グループ、これらの場所はぜんぶどうやったら効果的に物語を伝えられるか、まなぶ学校だ。声に出して。人前で。ただアイデアを探すんじゃなくて、どう演じるか。

ぼくらは物語に寄っかかって人生を生きてる。アイリッシュであること黒人であること。ぎっしり働くこと、ヘロイン打つこと。男であること女であること。ぼくたちの物語を支える証拠さがして人生をすごしてる。作家やってると、ただそういう人間のありかたが分かるんだ。キャラクターを創るたび、そのキャラクターとして世界をながめる、そのリアリティーをたったひとつの本当のリアリティーにする細部を探す。

事件を法廷で争う弁護士のように、読者に自分のキャラクターの世界観の真摯さを受けとめてもらいたくて、代弁者になる。読者を、彼ら自身の人生から休憩させたげたいんだ。彼ら自身の物語から休ませたげたい。

ぼくはこうやってキャラクターを創る――どうもぼくはキャラクターひとりひとりに、世界の見方を制限する教育や技術をあげたがるみたいで:清掃人は落とさなきゃいけない汚れの繰り返しとして世界を見る。ファッションモデルは社会の注目を競うライバルの繰り返しとして世界を見る。落第医学生は末期病の予兆かもしれない黒子と引きつり以外、なんにも見ない。

ちょうどぼくが書きはじめた同じ時期に友達と毎週恒例の「ゲーム・ナイト」ってのを始めた。毎日曜午後、集まってパーティー・ゲームをするんだ、ジェスチャーゲームとか。一向にゲームをはじめない夜もある。ぼくたちが欲しかったのは口実と、時には仕組みだけ、一緒にいられるように。書き物でいき詰まってたら――どうしたら新しいテーマを作り上げれるか?――あとで「みんな種まき」って呼ぶようになるコトをした。会話のトピックを場に投げ出して、こっちから短いおもしろ話をしたりして、他の人に自分のを話すよう刺激する。

『サバイバー』を書いてて、ぼくがトピック;掃除のコツを持ち出す、するとみんな何時間も教えてくれる。『チョーク』のときは暗号化された警備放送。『ダイアリー』のときはぼくが作った家の壁の中に見つけた;置いてったものの話をした。両手一杯のぼくの話を聞いて、友達も話してくれた。お客たちもしてくれた。夕方になれば、もう本にするに十分だった。

こうすると、孤独な営為「書く」も人のまわりにいる口実になる。順ぐりに人が物語にガソリンくれる。

独り。一緒。事実。フィクション。これは環だ。
喜劇。悲劇。光。闇。たがいを定義する。
効くよ。ただ、どっか一つ所に停滞しなけりゃ。

2010/05/07

電子の本と紙の本(2)

投稿者 Chijun   5/07/2010 1 コメント
(2)と銘打っておきながら,(1)とはタイトル変えました。(1)は「電子書籍と紙の本」でしたが,今回は「電子の本と紙の本」としてみました。
「名付け」というのは面白いもので,新しい,それまでにないものや概念が出てきたときに,それに合わせて造語するという方法もありますが,いずれにせよ,既存の,ありあわせの言葉を使ったり,組み合わせたりして,何とか名前をつけようとがんばるわけです。
そしてがんばった結果,ときにおかしなことになりますよね。「電子書籍」というとひとまとまりの名詞として違和感が見えにくいですが,「電子の本」というと「あれ?」となりません?そう,今流行の(そしてこれからますます流行るであろう)「電子書籍」って,形もないし,「ページ」ったってデータ上で擬似的に作られたインターフェースに過ぎないし,書籍=本じゃないんじゃない?…と,立ち止まって考え込んでしまいます。
そして同時に,わくわくするわけですね。未知の部分が多いゆえに,いったいどうなるんだろう,なにはともあれいいものになってほしいな,と大いに期待を寄せるのです。
電子書籍(書いていていちいちもどかしいです)の話題が盛んになる前,九十年代後半からゼロ年代前半にかけては,「本離れ」がずいぶん口やかましく騒がれたものです。実際文字通りの意味でいえばみんな「本」を離れつつあるのでしょうが,「本離れ」という問題意識の主眼が「ある一定のまとまりをもった文章を読まないのはいかん」ということだとすれば,実はそんな心配は杞憂に過ぎないといえるのではないでしょうか。というのも,「ある一定のまとまりをもった文章」は日々大量に生産され消費されているからです。ネット上で。この私の文章とておなじこと。こうなってくると,「本離れ」との戦いというのは,一体何ものと戦っているということになるのでしょうか?ひょっとして相手のいない一人相撲?
しかしあまり楽観的になって「電子書籍万歳!」とだけいっているのもあまり芸がありませんね。「書く」が「打つ」に変わり(これはもう一昔前の話ですが),「紙」が「電子」に変わる。手段や媒体が変われば,中身も変わらずにはいられません。ワープロの使用とともに読点の多い文章が増えたとか,ブログ・携帯小説・メールの流行とともに一文が短くなり,改行が多用されるようになったとか。ひとつの文がうねってねじれてどこにたどり着くかも分からぬままじっと息を詰めてもだえて考え込んで追っかけてようやく句点にたどり着いてほっとする,そんな重厚感のある文章になかなかネット上では出会えないなあ…と思っていたら,どうも最近はそうでもなくなってきてません?新聞や雑誌,あるいは硬派な書籍に劣らないような鋭い論考をブログ上で発表されている方がどんどん目につくようになり,ますます「本離れ」との戦いが,ドン・キホーテ的な滑稽さ(悲壮さ?)を帯びてきているようにも思われます。
果たして「本」はこれからどう変質していくのでしょうか。見たこともない発見に驚き呆れ,なおかつ感動をもたらしてくれる,そんな文章との出会いを楽しみにしています。

2010/05/01

チャック・パラニク(チャック・パラニューク) 2

投稿者 福田快活   5/01/2010 0 コメント
nobutovskiの更新が遅れまして、すみませんm(_ _)m 4/28更新と予告したのですが、5/1になりまして、、、今後このような手抜かりのないよう、急度叱り申しつけておきますれば、何卒、何卒、御見物衆のかわらぬご贔屓ご引き立て、願いたてまつりまするう~~~m(_ _)m

さて前回はどこまで訳したんだっけ?――そう、パラニクが書くのは「書くこと」で他のひとと一緒にいれた=つながれたから、てとこまでだったね。パラニクに言わせれば『ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」』で、こっからは具体的に『ファイト・クラブ』はじめ彼の小説のはなしがはじまる――

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ファイト・クラブ』の成功について、ぼくのお気に入りの説は、人と人がいっしょにすごす枠組みを提示したから、なんだ。人は新しい繋がりかたを知りたがってる。『キルトに綴る愛』とか『ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密』とか『ジョイ・ラック・クラブ』のような本をみてよ。こうした本はぜんぶ枠組みを提示してる―キルトをつくったり、麻雀したり―そうしたら人が一緒にいれて、自分たちの物語をわかちあえる。こうした本はぜんぶ、共通の活動あって結わえられたいくつもの短い物語なんだ。もちろん全部女の物語。男の社交の新しいモデルってのはあんまり見かけない。そうだね、スポーツ、納屋の棟上げ。それくらいだね。

で、いまファイト・クラブがある。良かれ悪しかれ。

『ファ イト・クラブ』を書き始める前、ぼくは慈善ホスピスでボランティアしてた。ぼくの仕事は診療予約や支援グループのミーティングへ車で人を送ること。そこではてきとうにみんな座って、そう教会の地下室とか、病状くらべたりニューエイジ体操したりして過ごしてる。そうしたミーティングはぼくに居心地悪かった。どんだけ隠れようとしてもみんなぼくも同じ病気もってんだろと穿つんだ。ただ見守ってるだけ、ホスピスにもどって責任を果たそうとしてるだけの観光客、って穏便に言える方法なんてありゃしない。だからぼくは、焦点のあわない自分の人生を慰めようと重病者の支援グループに出没する男の物語を自分のなかでつくりあげていった。

多くの意味でこうしたとこ-支援グループ、12段階回復グループ、デモリション・ダービー-はむかし宗教が果たしてた役割を果たすようになってる。そのころぼくたちは教会にいって自分の最悪な面、ぼくたちの罪、を曝してきた。じぶんの物語を伝えるため。許されるため。贖われ、共同体にふたたび受いれてもらうため。この儀式はぼくたちが人と繋がるための方便で、不安が、ぼくたちを人間性からあまりに遠ざけてしまって自分が失われてしまう、まえに解消させる方法でもあった。

こうしたとこでぼくは誠実な物語を見つけた。支援グループで。教会で。どこだろうともう失うものがないとこ、そこで人はもっとも真実に近づいてた。

『インビジブル・モンスターズ』を書いてる間、ぼくはダイヤルQ2に電話して、ひとにとびっきりのエグい話をきかせてよ、てせがんでた。電話してこう言えばいいんだ:「やあ、みんな元気?アツイ兄弟姉妹近親相姦のはなし探してるんだ。おまえの聞かせてよ!」とか「あんたのいっちゃんエグくて不潔な女装・男装ファンタジー聞かせてよ!」そうすりゃもう、何時間ものメモさ。そこにあるのは音だけだから、猥褻ラジオショーみたいなもん。お粗末な役者もいれば、胸張り裂かれることもある。

ある電話で男ノコが話したのが、「てめえの親を児童虐待と育児放棄で訴えるぞ!」て脅されたんで警官とセックスさせられたことだった。警官はその男子に淋病をプレゼントして、彼が助けようとした両親は・・・彼を追い出して浮浪児にした。自分の物語をしながら、おわり近くで彼は泣きだした。もしあれがウソなら、最高の演技だった。小っちゃなマンツー劇場。もしそれが物語なら、それでもすばらしい物語だった。

もちろん本の中でつかったさ。

世界は物語る人々でできてる。株式市場をみてみなよ。ファッションでもいい。どんな長編物語、小説も短い物語の組み合わせだ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

さて次は「3」で最後だ。ずいぶん長い、分載?になっちまったけど、最終回も「みんな観てくれよな!」って台詞でバイバイキーン^(ノ◎皿◎)^ノ 

The Brief Wondrous Life of Oscar Wao(前編)

投稿者 サトウ   5/01/2010 3 コメント
 授業で読んでいる本がおもしろい。ドミニカ系アメリカ人のJunot Diaz という人の書いたThe Brief Wondrous Life of Oscar Waoという作品である。まだ半分しか読んでいないのだが、なんとなく感想を書いてしまうのである。
 主人公はタイトルにあるとおり、オスカーOscarという、ニュージャージーで暮らすドミニカ系の移民二世。デブでSFオタク、週末にはヤオハンで日本のオタクカルチャーにどっぷり浸かる。人生で最高にモテたのは7歳のころ、という、ちょっと哀れな男の子の生活が作品の主軸をなしているようなのだが…。
 これがなんだか変な作品なのである。まずは大量に混入されるスペイン語。わたしはスペイン語を習ったことがないので全然わからない。ただし、なんとなく「ここはののしり言葉かな」とか「これはおじさんとかおばさんとか、とにかく親戚を表す単語だろう」ぐらいの推測はつくので、内容を完全に見失ったりはしないところがすごい。
 また、この作品はいくつかの章にわかれているのだが、章によって話者が次々と変わり、人称も変わる。一章ではオスカーの悲惨な生活が三人称でおもしろおかしく(雰囲気は森見登美彦と似ているかもしれない)描かれるが、二章になると突然二人称の文がすこし挟まれ、直後にオスカーの姉ローラLolaの一人称の語りがおかれている。このローラの語りは母親とのかなりハードな確執が描かれていて、一章とはがらりと変わって切迫している。ちょっとThe Catcher in the Ryeのホールデンを思い出した。
 半分読んだ段階で、この本のもつ一番の特異性は、実は「語り手」の存在にあるのだ、と気づいた。それは三章に現れる。全体的には三人称の語りによって、オスカーの母ベリシアBeliciaのドミニカでの十代からアメリカに移住するまでの経緯が描かれるのだが、なぜかところどころに「わたし」が乱入してくるのである。三人称の語りを他の人称と比較した場合、どちらかといえば中立的で俯瞰的な視点を読者に提供するもの、すなわち読者に出来事を伝達する、透明度の高いメディアといえるだろう。しかしここでは、たとえばベリシアが十代の頃働いていたレストランの客と話している場面で、語り手は「いまでも私は車に乗っているとときどきその男を見かける」などと、あまり関係のないような自分の体験をつい言ってしまう。それから、やたらに注が多い、というのもこの本の特徴なのだが、ここでも謎の「わたし」が自分の体験や感想、詳細なドミニカの歴史、そしてなぜか創作過程(「じつはここに出てきた○○という地名は草稿の段階では××にする予定だった」など)を明らかにしてしまったりする。こうした三人称の語りのなかでは違和感を与えるような一人称の発話が挿入されることによって、しだいに語りが抽象的な「視点」としてよりは、生身の身体をもった誰かの「声」として存在しているように思えてくるのだ。

 語り手はいったい誰なのだろう、と思いながら読み進める。そうでなくても、どんどん先へ進みたくなる小説である。ついでにいうと、スペイン語だけでなく日本語もときどき出てくるのだ。アメリカの小説にkatana、kaijuなど、日本語がたくさん出てくるのはなんだか不思議だ。otakunessという言葉が出てきたときは笑ってしまった。

 全部読んだら改めて書こうと思う。

2010/04/25

「報われない想い」by 愛子

投稿者 せんちゃん   4/25/2010 0 コメント
人は何の為に生まれてきたのか。

これは人間にとって永遠のテーマであり、統一された明快な答えは無い。

個々が人生を歩んでいく過程で見つけていくものだからだ。

感情の多様な色を知りながら答えを探していく。

その過程で人の優しさに触れ、その存在を肯定したくて、まっすぐでひたむきな感情を向ける姿は純粋で美しい。

けれど本来、人は孤独な生き物だ。

生まれてくるとき、死んでいくとき、いつ何時もその行動を自身のものとして感じられる人は本人しか居ない。

どんなに感情移入したとしても完全理解は存在しない。

それを知りながらも自分の想いを相手に理解して欲しいと願う。

認めて欲しくて精一杯伝えようとする。

誰でも無意識に行っていることだ。

私が人身事故などのニュースを見て「切ない」という感情を抱く理由はそこにある。

ニュースを耳にした私は、まず自分の大切な人たちのことが脳裏に浮かぶ。

そして、普段の楽しい会話、笑顔、温もりが生々しく思い起こされ、その人たちの計り知れない闇を少しでも取り除けているのか不安になる。

人の為に出来る事の幅の狭さのようなものを感じてしまう。

おそらくみんな分かっていることだ。

全ての人が自分を理解してくれる訳ではないし、好意を抱かれる訳でもない。

少数でも自分の居場所を創ってくれる人が居ればいい。

それすら居ないと感じた場合、人に向けられていたエネルギーがマイナスに作用する。


その報われない想いが存在することが切ないと感じるのだろう。

人にはそれぞれ個性がある。

自分にはないものを持っている人に魅かれ、あらゆる化学変化が起こる。

世界はその化学変化によって構築され、新しい時代が始まるきっかけにもなる。

けれどその個性が時には仇となり、外に追いやられる人が居るのも事実だ。

その悲しき矛盾の下で、人は多種多様な生き様を晒していく。

すべての人の傍に暖かく見守ってくれる存在が一人でも居ることを儚くも願う。

ヘンタクロース

投稿者 Chijun   4/25/2010 0 コメント
「クリスマスというものを馬鹿にしてはいけません。これは、子供たちが何歳でサンタクロースの存在を否定するに至るかを棒グラフにしてまとめたものです。確かに近頃の子供たちは幼くしてサンタクロースの存在を否定する傾向にありますが、だからこそ逆に、今我々の信念と努力が試される時なのです。自らの聖なる職務に自覚と責任を持ち、皆さんの役目を全うしてください」

そういって教師が教室を去ると、3–B組は一気に乱れました。女子生徒たちは男子生徒たちの見ている前でサンタクロース・コスチュームを器用に脱ぎだし、下着を見せる一暇も与えぬ間にハラジュクで買った他校の(あるいは実在などせぬ学校の)カワイイ制服に着替えています。
「カラオケ行こカラオケ」
「今日は私がM歌うんだからね。絶対先に歌っちゃだめだよ」
「それよりさーケーキ食べたくね?」
「え、カラオケ? 俺らも一緒に行くー」
「えマジ? ちょマジ? おれ『いつかのメリークリスマス』歌いてえ」
「ったく、縁起でもねえなあ。テンション下がるからやめてくれよ」
「だいじょぶだって。あれはサンタさんじゃなくて旦那が嫁にプレゼント買ってそれで二人幸せよ、って歌なんだから。俺たちより旦那のがいい!って思ってもらえりゃ、そっちの方が好都合じゃね?」
「おいヘンタ、たまにはお前も来いよ」
「やめとけって。よりにもよって24日に、そいつがついて来るわけねえだろうよ」

そういって男子生徒が見下ろした先に、背を小さく丸めて机にしがみついたままの男が居ました。皆にヘンタクロース、ヘンタクロースと蔑まれるこの男はしかし、サンタクロース育成学校たるこの学び舎で、その精神を最も尊敬されてしかるべき男のはずだったのです。というのも彼は、生徒だけではない、教師も含めて誰一人己が職務の聖性など信じるもののなくなったこの学校で、ただ一人世界中の子供たちのサンタクロースを求める清心を信じ続けているものなのです。

教室が静まって数刻の後だれもいなくなったのを脇目に確認してからようやく、男はゆっくりと動き出しました。誰も気づいてくれるものはありませんでしたが、昨晩自らアイロンをかけてきたサンタクロース・コスチュームを型通り身にまとった男は、教室の後ろの方にあるロッカーからプレゼントの詰まった白袋を取り出し、いざ教室を出ようとしたところでつまずいてこけてしまいました。しかし学校には、彼の不様を嘲笑するものすら残っては居ませんでした。

何度も落第してようやく手に入れた運転免許が制服の内ポケットに入っているのを確認すると、ヘンタは「レッド・ノーズ」と名付けられたトナカイの鹿房にやって来て、自分の足ほどの太さのある縄でトナカイと橇とをきつくしばりました。
「やあ、レッド・ノーズ。調子はどうだい? ただの練習じゃない、今日は本番なんだ。きっとうまくやってくれよ」
「・・・・・・」
「君は落ちこぼれなんかじゃないぞレッド・ノーズ。そのぴかぴかの鼻は暗い夜道でよく光るからな」
そのときトナカイが厳しい視線を投げて来た気がして、ヘンタは慌てて橇に飛び乗り、勢いよく鞭を降って叫びました。
「ハイドー!」

広い宙にひとりぼっちになるとヘンタはがぜん元気が出てきました。勢いよくトナカイに鞭をふるってはハイドーハイドーと高く声を上げます。しかし怠惰な友人たちに仕事を押し付けられているヘンタには、夢中に気持ちよくなっている暇などありません。どんどん白袋のプレゼントを配って回らなければならないのです。ヘンタは灯りを頼りに狙いの家を定めるとトナカイを急降下させ、よしいくぞ、と思ったところで急ブレーキをかけました。というのもその家は鉄筋コンクリートでぐるりと囲まれた丈夫な家で、ヘンタの入る隙などなかったのです。しかも窓から覗いてみたところ子供たちは既に親からプレゼントを手渡されていて、満面の笑みを浮かべているではありませんか。一家の幸福の邪魔をしてはいけない、そう思ったヘンタは、手早く次の家を探すことにしました。
二番目の家は一軒家でしたが頼みの煙突もなく、さてどこから入ったものだろうかとヘンタは家のぐるりを物色しだしました。最近ではサンタクロースを泥棒と間違えてしまうおっちょこちょいな警察も少なくありません。ようじんようじん、そうつぶやきながら家を回っていたヘンタの目に入って来たのは、お財布から一万円を抜き取って子供に差し出すお母さんの笑顔でした。それを受け取る子供もまた、顔には満面の笑みを浮かべていたのでした。

「こんなことじゃだめだこんなことじゃだめだこんな・・・・・・」
そうつぶやくうちに、トナカイを走らすヘンタの目からは知らず涙があふれ出ていました。町の人たちにまぎれて今ごろはカラオケ・ボックスで陽気に歌い踊っているであろう友人たちが言っていたように、やはり、もうサンタクロースを待っている子供など居ないのでしょうか。しょせんヘンタはただの変わり者で、彼の信念など独りよがりにすぎないのでしょうか。もう誰もサンタクロースを・・・・・・
「ヘンタ、早く指示をくれ。さっさと次の家に行こうじゃないか」
レッド・ノーズが声をかけてくれるなど滅多にないことなので、ヘンタは一瞬どこから声が出ているのかとびっくりしてしまいましたが、しゃべっているのはやはりレッド・ノーズです。
「別にお前のことが好きなわけじゃないが、お前のやっていることは間違っていないと思う」
レッド・ノーズはまっすぐ前を向いたままそういうと、いつでも出発できるぞと言わんばかりに、夜目に美しく赤々と輝くハナから熱い息を吹き出します。
「そうだ、ぼくはまちがってない」
ヘンタはもう一度自分の神聖な職務を心静かに確かめたように強いまなざしを取り戻して、レッド・ノーズの尻を叩きました。

三番目の家に近づくにつれ、屋根からにょっきりと空に向かって突き出している物体が、ヘンタの目に入りました。
「あれは!」
ヘンタは興奮を抑えきれません、そう、それは今はあまり目にすることも出来ない、昔ながらの煙突ではありませんか。ヘンタは煙突のぎりぎり真上までトナカイを走らせると、見事な垂直を描いて落ちるように煙突の中へ突っ込んでいきました。ところがその煙突の長いこと長いこと。真っ暗な一本道をどれだけ進んでも、いっこうに煙突を抜けられそうな気配がありません。暗い、冷たい、じめじめした煙突の中でヘンタは恐怖に駆られて何度も引き返したいと思いましたが、折り返せるだけの道幅の余裕もなければ、トナカイにも全くその気はないようで、今は乗り手の気持ちなど全く無視してずんずん下っていく勢いです。

ようやくトンネルを抜けるとそこは雪一面の野原で、少し離れたところにぽつぽつと建つ家には驚くことに、すべて煙突がひょっこりとついているではありませんか。まるでおとぎ話に出てきそうな幻想風景に見とれているうちにヘンタは橇を止めることもすっかり忘れて、そのまま雪の中に墜落してっ込んでしまいました。それからどれほど時が経ったでしょうか、ヘンタがようやく顔を上げるとびっくり、周りを大勢の人たちが取り囲んでいます。橇を失ったヘンタはすっかりいつもの臆病風に吹かれて、背を丸めて雪に顔を埋めてしまいました。

「イヨッホーイヨッホー」
男の声が高く上がると、それに続いて
「ソーレイヨッホーイヨッホー」「ソーレイヨッホーイヨッホー」「ソーレイヨッホーイヨッホー」
と人々が大合唱のように大きく声を揃えて歌い出しました。ヘンタはいよいよおびえて雪に穴を掘らんばかりの思いでしたが、よくよく聞いてみると人々の声はとても陽気で、どうやらヘンタを歓迎している。それどころか待ちに待っていたといわんばかりのようにも聞こえます。ヘンタにはわからない言葉でしゃべっていたものの、どうやらそうにちがいない、とヘンタには信じられたのでした。幼い頃から蔑まれ続けて来たヘンタなのに、大勢の人々が彼の到来を祝福しているのです。このままではいけないと思ってヘンタも勇気を出して顔を上げ、にっこり笑おうと努力してみたのですが、つり上がった唇の先はプルプル震えてしまうし、目元には変な力が入ってしまうしで、どうにも奇妙な笑顔が出来上がってしまいました。
そこへたくさんの村人の中から豊かなひげを蓄えた男が近づいてきて、突然ヘンタの前にひれ伏して顔をどすんと雪の中に突っ込み、ヘンタの前に両手を差し出します。何のことやら分からずにヘンタの引きつった顔はさらに引きつり、すっかりかたまってしまいましたが、慌てて気づいたかのように
「メリークリトリス!」
と声を限りに叫ぶと、雪に突っ込んだ時も必死につかんで離さなかった袋の中から、プレゼントを取り出そうとしました。ところが、袋の中はまるで空っぽで、ヘンタがグルグル手を引っ掻き回しても、何も出てきやしません。ヘンタの顔はいよいよおかしく引きつって、ついには笑い顔だか泣き顔だか分からないほどになってしまいました。村人たちの中数人首を傾げ出すものが居て、近くの人と何やらこそこそ話をはじめだすものも出てきました。そして次の瞬間には最初男がやったのと同じように、諸人こぞって顔をどすんと雪に突っ込み、ヘンタに向かって手を差し出してきました。
「クリ、クリ、クリクリ、ギャーーー!!」
と叫ぶとヘンタはとうとうその場に倒れ込み、目をクルクル回して気を失ってしまいました。

———

どうもヘンタが学校に出てこない、登校拒否? しかしあのヘンタが? 不器用でも熱心に人一倍の努力だけは惜しまなかったあのヘンタが? やっぱりあのとき無理してでもカラオケにつれてった方がよかったかな?
そんな噂が生徒たちのなかでもてはやされたのもつかの間のこと、いつも通りの自堕落な時間がサンタクロース育成学校にすぐに流れ出しました。ヘンタのことを思い出すものなど、もう誰一人ありません。






2010/04/18

人身事故 by愛子(ゲストライター)

投稿者 せんちゃん   4/18/2010 0 コメント
自殺による人身事故のニュース。

これに対しての世間の表面的な反応は常に否定的なおかつ攻撃的だ。

「人に迷惑をかけるな」、「死にたいのなら一人で死んでくれ」。

自分と関わっている人ならば感情移入もしやすいが、大半が全く関係の無い人によって引き起こされるのだからそれもそうだ。

一切面識が無い他人に、どうして自分の人生の貴重な時間の一部を乱されなければならないのか、そう思うのも無理は無い。

けれど、私は最近この類のニュースを見る度、人間の儚さをみてしまう。

その儚さというのは人の命が消え行く様ではなくて、死の手段として「多くの人を巻き込む」という選択をしたところにある。

それこそ、命を絶つ方法はごまんとある訳で、なぜ最期に知りもしない他人とかかわりを持ちたいと望んだのか。

電車への飛び込みだけではない。

かつて世間を賑わした秋葉原の事件の犯人も多くの「関係ない人」を道連れにしようとしていた。

どんな形でもいいから人と関わりたくて、相手にされたくて、そんな想いが届かずに負の方向へ倒れ込んでしまうのか。

様々な事件をニュースで知ると、いつもその人たちの切なる想いが私の中をよぎる。

人との関わりを絶たれてしまった誰かが誰かに一方的な感情を寄せる。

独りが嫌で、どんな状況でも誰かとの居場所を求めて人の想いは彷徨い、渦巻いている光景がどうしても頭に浮かんでしまう。

尽きない感情の矛先は誰に向けられるか分からない。

2010/04/15

親しい間柄での丁寧語使用について

投稿者 じん   4/15/2010 0 コメント
 友人同士であるH、D、K、S、計4名の会話について、言語の対人関係の確立や維持・調節にかかわる働き(ポライトネス)の観点からの会話分析を試みる。全員23歳で、全員男性である。4人はコーラスグループとして活動しており、これから分析するのは、練習中、ある曲を歌い終わった直後に反省を行い、その後雑談に移行する場面である。Hはグループのリーダーである。

 各行左の番号はデータのライン番号を示す。その右の大文字アルファベットは発話者のIDである。(0)は前の発話との間にポーズがないことを示す。[ ]は[ ]とのオーバーラップを示す。[1 1]のように番号が示されたものは、同じ番号で示された部分とのオーバーラップを示す。(( ))は注記を示す。..はポーズを示す。直後に( )で示される場合があるが、これはポーズの秒数である。&は発話が途中で妨害され、次の&で再開したことを示す。

01 H: えーと、歌詞だね。
02 D: はい、そうです、完全に。
03 S: (0)そうですね。
04 D: (0)うん。
05 H: 音はこれ以上はすぐには多分 [1 よく、 1]
06 D: [1 まー 1]良くならない--
07 H: [2 良くならないと思うよね。 2]
08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
09 D: [3 まー、若干 3]俺、自分で問題ある所は[4 押してったよ。 4]
10 H: [4 俺も 4]"slide rule is for"を忘れた。
11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
12 H: ま、それは。
13 D: ま、K((愛称使用))、あのー、..「チョキン」で。
14 K: そだね、切るんだよ[ね?]
15 H: [うん。]
16 D: そうなんだよね。
17 H: ((歌う))"slide rule is for"
18 D: ..歌詞が出ないしー。
19 D: [下っていた部分は大体分かっている。]
20 K: [なんか、う、歌いづらいな。]
21 S: 歌いづらいよね、ちょっとー。
22 K: ...(9)ねー、ここさ、ハ、 大悟、ね、ハミングの方が良いの?
23 D: いや、「ウー」でいい[7 よ 7]。
24 K: [7 うー 7]って、い&
25 H: うん、[8 言っていい。 8]
26 K: &[8 言っていいの? 8]

 オーバーラップが非常に多く、おおむね非敬語での会話である。前の発話との間にポーズがない発話や、複数人で1文を構築する共同発話も見られ、協調的で共感の強い、親密な会話とみてよいだろう。オーバーラップ、非敬語、ポーズのない発話、共同発話は共感的配慮から相手との近接化を図るポジティブ・ポライトネスの表現である。Line 05-06、Line 24-25で見られる共同発話は、受け継ぐ側の発話がどちらもオーバーラップで始まっていて、強くポジティブ・ポライトネスが表現されている。

 その一方で、敬避的配慮から相手との遠隔化を図るネガティブ・ポライトネスの表現も見られる。Line 05では「良くならない」ことを指摘することに相手の「他者と一定の距離を保ちたい」という欲求を侵害するリスクを感じたために、曖昧な表現になったものと思われる。係助詞「は」が繰り返し使用されることで文の主題が曖昧になり、さらに「すぐには多分」という表現で言語的な距離も長くなっている。また、核となるべき「良くならない」は、Hの発話では言いさし表現となり、これは敬避的配慮をさらに進めた言及回避、ほのめかしのストラテジーである。

 冒頭部で丁寧語が見られるのが興味深い。丁寧語は聞き手をソト待遇するネガティブ・ポライトネスの表現であるとされる。これは話者の関係や、全体の発話の親密さにそぐわない表現である。丁寧語は、会話の後半、雑談に移ってからも見られる。

 @は笑い声を示す。発話が@で挟まれた場合は、笑いながらの発話である。

27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
28 S: [9 @@@@@ 9]
29 K: ((楽譜を見ながらの独り言))[10 そか 10]
30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
31 H: はまっちゃいました。
32 D: DVDありますよー。
33 S: あれ((DVDではなく、バンド自体を示す))やばいよ[11 ね 11]
34 H: [11 買いましたか。 11]
35 S: ライブ聴きたい、[12 ライブ。 12]
36 D: ((Line 34への反応))[12 え? 12]
37 H: DVD。
38 D: (0)俺、だってライブのときに買ったもん。
39 H: あ、そかそか[そか。]
40 D: [うん。]
41 S: 貸して? @@@
42 D: いいっすよ。
43 H: やっぱ”Feel It In The Air”((曲名))はやばいよね。[@@]
44 S: [あれ]やばいね。あれも、できたらやりたい。 @@@
45 H: @@ ま、あれは割とアカペラっぽいからね。
46 S: うん。((歌う))”I can feel it comin’ in the air tonight, oh no And Ive been waiting for this moment for all my life, oh Lord, oh no.”
47 H: うす、..行きますか、..もう一発。
48 K: ..もう1回行くー?
49 S: (0)OKー。
50 H: (0)もう一回だけ行っとこうか。
51 S: (0)あいあい。
52 H: (0)歌詞ね。
53 S: ..もう[多分]&
54 H: [歌詞。]
55 S: &大丈夫。
56 H: OK、行こうか。[13 “slide rule is for”。 13]
57 D: [13 ま、正直 13]&
58 K: これあるよー、[14 歌詞ー。 14]
59 D: [14 あの 14]一回目は[15 分かるん 15]だけどー、
60 K: [15 @ 15]みんな、はい。
61 D: うーん、けど[2巡目に入ると、「うーん、わからない」って]なるよね。
62 H: ((歌う))[“slide rule is for”]
63 K: ((歌詞の文字が小さいのを見て)) @この、@[@ 豆粒のような。@]
64 S: [2番目一回しか歌わないしね。]
65 H: @そうそうそう。@

 丁寧語及び丁寧な表現が現れているのは、Line 02、03、08、11の練習の反省部分、Line 27、31、32、34、42の雑談部分、そしてLine 47の練習再開を促す部分である。話者別にみると、Hが4回、D、Sが3回、Kが0回で、H、D、SとKの間には明らかな差ができた。発言権をとった回数はHが22回、Dが18回、Sが15回、Kが10回で、発言回数の差以上に、丁寧語の使用の差は大きいようだ。このデータを見る限りでは、Kは、親しい関係にある者同士の会話において丁寧語を使用するというストラテジーを持っていない。Kの発話は全て練習に絡むものであり、Line 27-46の雑談には参加していない。会話を雑談と練習に分ければ、丁寧語は練習に絡む内容の発話に6:4で若干多く現われている。

 以下に丁寧語が現れた個所を抜き出す。

(1)     01 H: えーと、歌詞だね。
       02 D: はい、そうです、完全に。
       03 S: (0)そうですね。
(2)     08 S: [2 "Don't know what a slide rule2] is for"[3 を忘れてました。 3]
(3)     11 S: ま、あと今日はちょっと最高音がでないんで。
(4)     27 H: あのねー、Naturally 7((バンド名))に[9 はまっちゃいました、この人((Sを示す))。 9]
       28 S: [9 @@@@@ 9]
       30 D: [10 @ はまったんかい。@10]
       31 H: はまっちゃいました。
       32 D: DVDありますよー。
(5)     47 H: うす、..行きますか、..もう一発。

 練習に絡む内容に若干多く丁寧語が用いられている。雑談と比べれば、相手との関係に距離をとるのも理解できるが、使用頻度に大きな差はないため、他にも距離をとる理由があると考えるべきだろう。

 丁寧語の聞き手ソト待遇機能を考慮して、ウチ/ソトを分ける基準を考えてみる。(1)、(2)、(3)の練習の反省の場面では、ミスを認めた者が丁寧語を使用している。ミスを指摘した側と指摘された側、あるいはミスを認めた側と認めていない側という区別を反映していると見ることもできるだろう。(5)も練習に絡むものであるが、こちらは意識が練習に向かっているものと向かっていないものという区別といえる。(4)では、あるバンドに”はまった”者と、もとから好きだった者という区別を考えると、ウチ/ソトの区別が説明できる。丁寧語を使用しているのはもとから好きだった者である。丁寧語の使用により、新たに”はまった”ものをソト扱いし、揶揄するような印象を受ける。雑談に参加していないKは考えないこととする。

 相手をソト待遇する側は、ウチ/ソト関係からみると、ウチ側となる。丁寧語が内輪であることを示す標識としても機能しているということになり、このデータでみられる親しい間柄での丁寧語使用は、ポジティブ・ポライトネスの表現であるということができる。

 丁寧語の使用をKはこの丁寧語使用というストラテジーを使用していない。このデータを見る限りでは、このストラテジーをもっていないように見える。

 もう1点、遠隔化の理由として、社会言語学的観点から、中村(2007)の、新しい「男ことば」を挙げることができる。「上下関係にもとづいた『おれとおまえ』の密着した親しさは、かっこ悪」いため(中村 2007, p.68)、「若者のような上下関係が少ない横並びの集団の中では、互いの『親しさ』を調整する言語資源が必要」となり、〈距離〉の表現である敬語が使用されたと考えられる。なお、中村(2007)では〈距離〉の表現としての敬語は敬語の用法の変化であるとされているが、滝浦(2008)からすればこれは当てはまらない。

 中村(2007)の観点では、参加者が全員男性であることを重く見て、セクシャリティとジェンダーに絡めた議論を展開するところであるが、ここでは深く立ち入らない。簡単に触れておけば、「男らしさ」にとって異性愛であることは重要な要素であり、同性愛は嫌悪される。そのためあらゆる手段で同性愛者とみなされることを避けなければいけない。〈距離〉の表現である敬語はこのための手段となりうる。

参考文献

中村桃子. 2007. 『〈性〉と日本語 ことばがつくる女と男』 日本放送出版協会
滝浦真人. 2008. 『ポライトネス入門』 研究者

2010/04/12

チャック・パラニク(チャック・パラニューク)

投稿者 福田快活   4/12/2010 0 コメント
チャック・パラニク(チャック・パラニューク)というアメリカの作家しってる?って聞いても「はあ?」がふつうの返事。一般的知名度なんかないに等しいんだから「はあ?」は不思ギでもなんでもない。でもこう言えばわかってくれる人はけっこう多い↓

「『ファイト・クラブ』って映画あったじゃん?99年くらい。ブラピとエドワード・ノートン主演でほら喧嘩って楽しい!ってやってるやつ」
「ああ、あれ!あったあった」
「その原作者」
「ああ、そうなんだ。へーー」

「わかってくれる」って言っても返事は「へーー」で、それはそれでしょうがないんだけど(だってそれ以上何を求めようか?)、この人はとってもいい作家なんだ。へたな万言を尽くすより、、、で彼のインタビューとか取材物をあつめた『non ficition』ってステキな本がある。巻頭の言、みたいなやつが作家パラニクのスタンスを明快簡潔に表してるんで、ちょっと翻訳してみるから読んでみて。「ちょっと待ってよ。その前にパラニクとかパラニュークとか併記されてるのはなんで?」ってツッコミもあるよね。「併記」とかむずかしい言葉つかうね?とおれも自分ツッコミ入れたくなるけど、日本での慣用はパラニュークなんだ。でもこれはただの英語音で本人は明確に「pɑːlənɪk」って発音してるんだから片仮名にするならやっぱ「パラニク」でしょ?パラパラなお肉みたいでパラニクの姿勢にぴったしだし。。。

では本編のはじまりはじまりー

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
もしまだ気づいてないなら、ぼくの本はぜんぶ「寂しい人が他の人とつながる方法を探してる」についての本だ。

ある意味それはアメリカンドリームの逆:すっごい金持ちになって脱けだすんだパンピーから、高速にいるあんだけの人、もっとひどいかも、そう通勤電車。 ヤ、ドリームはおっきな家だ、どっか独り離れて。ペントハウス、ハワード・ヒューズみたいに 。山頂の城、ウィリアム・ランドルフ・ハーストみたいに。ステキな隔離されたねぐら、きみが気に入ったパンピーだけ招待すりゃいい。きみがコントロールできる環境、争いと痛みから自由――そこできみは「支配する」。

それがモンタナの牧場だろうが、10000枚のDVDと高速インターネットつきの地下室だろうが、これだけは期待できる。そこにたどりついたら、独りだ。寂しい。

もう十分に惨めになって-ファイト・クラブマンションの語り手みたいに、本人の美しい顔に疎外された『インビジブル・モンスターズ』の語り手みたいに-初めてぼくたちはステキなねぐらを破壊し、自分自身をより大きい世界に強制送還する。いろんな意味でこれは、小説を書く方法でもある。考えて調べて。独りで過ごして、きみがすべてをコントロール、コントロール、そう、コントロール!するステキな世界をつくる。電話は鳴りっぱなし。メールは積み上がってく。自分のモノガタリ世界のなかで過ごすんだ、破壊するときまで。そうして他の人と過ごすためにもどってくる。

もしきみのモノガタリ世界がじゅうぶん売れたら、ブックツアーにいける。インタビューされる。ほんとうに人といっしょにいれる。たくさんの人。人、人、ヒトに病んなるまで。脱走する夢に餓えて、逃げたくなる・・・

また違うステキなモノガタリ世界へ。

で、またはじまる。独り。いっしょ。独り。いっしょ。

たぶん、これを読んでるならこの円環がわかるはず。本を読むのは集団活動じゃない。映画とかライブにいくのとは違う。スペクトルの孤独の端なんだ。

この本の中のモノガタリすべては「他の人といっしょにいる」についてだ。ぼくが他の人といっしょにいる。あるいはひとびとがいっしょにいる。

(中略)

これぜんぶノンフィクションのハナシ・エッセイで、小説のあい間に書いたんだ。ぼく自身の円環はこうだ:事実。フィクション。事実。フィクション。

書くことでヒクことのひとつは「独りだ」だ。まさに「書く」部分。孤独な屋根裏のとこ。大方の想像ぢゃ、そこが作家とジャーナリストの違い。ジャーナリスト・新聞記者はいつも急いでて、目を皿にして、人と会って、事実を掘りおこしてる。モノガタリを料理してる。ジャーナリストは人に囲まれて書いてて、いつも〆 切だ。混んでて急かされて。刺激的かつ楽しい。

ジャーナリストは書いて、きみを大きな世界につなげる。パイプだ。

でも作家、作家は違う。フィクションを書く人は誰でも-人は想像する-孤独だと。フィクションはきみをいま1人の人間の声にしかつなげない、そう思えるからかもしれない。読書はひとりですることだから、かもしれない。それは「過去」で、ぼくたちを他の人から隔てるように思われる。

ジャーナリストはモノガタリを取材する。作家はモノガタリを想像する。

笑えるのは、小説家がこの単一の孤独な声をつくるためにどれだけ多くの時間を他の人と過ごさないといけないか、知ったら驚くから。この隔離されてるかのような世界。

ぼくのどの小説も“フィクション”とは呼びにくい。

ぼくが書くほとんどの理由は、「書くこと」がぼくとほかの人を週に一回いっしょにしてくれたから。木曜の晩に、出版された作家-トム・スパンバウアー-に教えられるワークショップで、彼の台所机を囲んで。当時ぼくの交遊は手近さにもとづいてて:隣人か同僚か。その人たちを知ってるのはただマア、毎日隣に座るハメになってるからで。

ぼくの知ってるいちばんオモチロイ人、イナ・ゲバルトは同僚を“空気家族”って呼んでる。

手近の友達の問題は、引っ越しちゃうこと。辞めるか馘になること。

書くワークショップってのに出会うまでは、情熱をわかつ友なんて知らなかった。書くこと。映画。音楽。理想を分けあった人もいた。パーティー(みんな)で出かける冒険、それがあれば、きみが大切にする曖昧で漠然とした芸を大切にする人と一緒にいられるんだ。こおゆう友情は仕事とか立ち退きに左右されない。 書いても一円にもならない時代に毎木曜のくっちゃべりは――ぼくが書き続ける唯一の動機だった。トム、スージー、モニカ、スティーブン、ビル、コリー、 リック。ぼくたちは闘い、讃え合った。それで十分だった。

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実際はもっと長いんで、あんま一度につめこむのもナンだから、つ・づ・く

2010/04/05

車内妄想

投稿者 Chijun   4/05/2010 0 コメント

 午前8時21分発、埼玉から東京方面へ向かう上り列車に乗ると、Kは本を取り出し、アイポッドのイヤホンを耳に差し込む。眼下には、眠る人のうなだれる頭が三つ並ぶ。左右には、横目に吊革を握る人の袖口から覗く白い腕首が見える。電車は混雑していたが、声を出すものはいない。Kの耳には耳鳴りだけが響く。目的地に着くまでに、電車は7つの駅に停車する。

――1年浪人、1年留年。大学を卒業したのが、24歳。誕生日は4月3日だから、1ヶ月経たないうちに25歳。それから2年。この2年で、自分は何をしたか? 作家志望のフリーター君、君の仕事一覧をプリント・アウトしてみたまえ。たいした時間もかからずに、ほとんど真っ白のA4用紙が吐き出されることだろう。……

 Kはズボンのポケットの上をなぞって触感で探り、アイポッドの再生ボタンにあたりをつけて圧力をかける。少しの間を置いて馴染みのない聖歌が女声合唱のア・カペラで歌われるのに続き、皺枯れた、だが軽みのある男声の、英語の朗読が流れ出す。Kは手にした翻訳書の該当部分を追っていく。

 Kを乗せた電車が2つ目の駅に停車する。雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認すると、アイポッドから流れ出る朗読はそのままに、Kは本から目を外す。

――よし、今日はあのじいさんにしよう。……雪崩れ込む乗客の中に一人、ビッコをひきずりながら腰を曲げ、獣のように頭を低め、猛然と人波を掻き分け突き進み、何としても吊革を占拠しようとする老人が居りました。両隣の人を押し退けるようにして自分の場所を確保すると、スッと腰を伸ばしてギュッと吊革を握り締めました。してみると身長は意外にも高く、170センチを超え、体格も急に立派に映りました。体重は70……72キロ。頭はてっぺんまで禿げ上がり、――頭頂部は赤ん坊の肌のようにスベスベで―― 後頭部には、悔い多き人生への未練を切々と訴えるようなうぶげたちがまばらに生えています。目は穏やかさを湛えながらもキリッと引き締まり、周囲の人々に見られているのを過剰に意識するかのように、ぎごちないほど真直ぐ前の一点を見つめています。スッと伸びた外国人風の高い鼻の下のフサフサと豊かな口髭。年は? ……70歳。20歳の時に父親を自殺で亡くし、翌年奥さんになる女性と出会いました。……

 電車は3つ目の駅に停車し、Kはふたたび、雪崩れ込む通勤客を横目に一通り確認する。4つ目の駅にある共学高校への通学生徒数が、この駅でピークに達する。Kはポケットをなぞってアイポッドを停止し、わきかえる女子生徒たちを楽しむ。本は手に持ったまま、老人に視線を戻す。溢れ返る学生に、老人はソワソワしているようだ。電車が出発する。

――おじいさんはその翌年には結婚し、そのまた翌年の桜まいちるなか、可愛らしい男の子が誕生しました。二年後の冬、今度は女の子が誕生しますが、年明け間もなく死んでしまいます。希望に溢れたはずの赤ん坊の人生は、たった11日間で終わってしまいました。埋葬のとき、母親は毛糸でチョッキを編んでやりました。おじいさんとおばあさんの間に静かな、しかし永続的な緊張感が生れたのはそれ以来のことです。ホラ、おじいさんの思い詰めたようなあの眼差しは、悲しみに満ちているようではありませんか。ジッと見ていると時々若い女子学生の方にチラッと目をやるでしょう? あれはきっと、失った女の子の娘盛りを、17歳の花盛りの娘たちに思い描いているのです。……

 4つ目の駅で学生たちがゾロゾロ降りて行くと、確かに老人の眼は悲しみに翳ったようだった。幾分余裕のできた車内、老人の反対側に制服姿の美しい女子学生が残った。女子学生は窓から遠くを見る。車内にさしこむキラメク朝の陽射しが、波打つ黒髪にのって揺らめく。分けた髪のなかに覗く褐色の横顔は、――キュッと結んだ薄い唇は女王様気取り、でも丸い鼻にはあどけなさが残っている――ちいさいあごでスッとまとまり、細く長いくびがつづく。柔らかい髪がやさしくつつむように、くびにまとわりついている。手を半ばおおうまで伸ばした紺のセーラー服からチョコッとはみ出た小さな手は、ドア脇のスチール棒を軽く握る。女子学生は上衣からスカートへと一本の曲線のようになだらかに続き、丈を詰めたスカートがふっくらしたももとももの間に陰を添え、その直下の膝がイヤホンから流れ出るのであろう音楽に合わせ、小気味よいリズムでたてに揺れている。Kはアイポッドのボタンをまさぐり、男声の朗読を流したままふたたび老人に視線を戻す。老人は自分とは反対側斜め後方にいる女子学生を、窓の反射を利用して、相手に気付かれぬまま盗み見る。電車は5つ目の駅に向って出発する。

――おじいさんは毎朝起きると一番にトイレに行き、ズボンを下ろし、裸の膝をむき出しにします。便座にどっかりと腰を下ろして深い溜息を吐き出し、亡き娘のことを思い浮かべるのです。亡き娘を、17歳の若く美しい姿で。街中の人混みをキビキビと直線的に歩く後姿、まるで女王様のように誇らしげに、尻を左右に躍らせて。でも前に回り込んで女王様の顔を覗けば、強く結んだ小さな唇をつけたその顔には、幼い頃から変わらない、あどけない鼻が残っているのです。小さいときからずっと傍で成長を見届けてきたおじいさんは、そのことをようく知っているのです。そして知っていることに自信を持っているのです。立派に育ったあのオシリだって……。あいつは本当にいい子で、反抗期もなかった。末っ子だから可愛がられかたをよく心得ている。クリクリのオメメで表情いっぱいニッコリ笑顔を浮かべる。そうしてその眼を逸らさずにジッと見つめてくる。すると大人の方が照れて、こっちから先に眼を逸らしてしまう。フンッ! おじいさんは便座に腰掛けたまま、木戸に手を伸ばし、手を上下に動かして、さらさらとした木の触感を楽しみます。年頃の娘の肌を思いながら。きっとこんなのに違いない。でも触って確かめるわけにはいかない。そんなことしたら嫌われてしまう。下水道を這いずり回る鼠のように。――やっぱりあなたも……。一定の距離を保ち、その美を讃美する視線を送る限りにおいて、あいつは拝謁するものにクリクリの笑顔を授け与えるのだ。……ちっ、スケベじじいが!

 老人は窓に映る女子学生をじっと見つめ、ズボンのポケットの奥の奥にまで手を突っ込み、眼をキラキラと輝かせ、キョロキョロしている。電車は5つ目の駅を過ぎて6つ目の駅に向かう。この駅間が長く、15分を要する道のりである。Kはふと便意に気づく。排泄を日に3から4度少しずつ分けてする習慣のあるKにとって、朝早い仕事を選ぶ際の大きな難点の一つだ。家で一度済ませても、職場につく前には二度目の便意に襲われる。
 女子学生は、スカートからあらわに覗く肉付きのいいフトモモでリズムをとる。

――タン、タン、タン、タン。コシ、コシ、コシ、コシ。タン、タン、タタタン。コシ、コシ、コシコシコシ。……恐らく32年前、老人は亡き娘を偲びながら、便所のなかでしたのだろう。32年前? ボットン便所だったろうか、祖父の家のあれのように。してみると、土間だったかもしれない。先ずは排泄を――アレも結局は排泄だが――済ませてから。季節は冬、冷たいコンクリートのように固い土、またぐらからのぞく光の届かぬ穴の底、永く深い暗闇、折り重なるように蓄積された、ひり出された人の垢。憎悪の様に激しく腹をつき上げる便意、頭は真空の白に近づき、死に接近するように頬はどんどん蒼褪めて、いつでも出せる、便器はすぐ下にある、それでもためらうように、腹がいたむ! 嘲笑って銀蝿が踊る、眉毛にとまる、悪臭が鼻から頭頂を貫く。流れる血が手の先、足の先までニオイを運び、悪臭と――この部屋の空気と、全身とが一体になる。穴の底には鼠が巣食っているのだろうか、それとも鼠の死屍が今まさに腐りつつあるのか、地下水が滲みだして暗く湿った穴の底、バキューム・カーに吸い余された世々の垢が少しずつ積もり、父の、祖父の、曽祖父の垢が薄く堅固な層となって一枚一枚つみ重なったもの。ここで、曽祖父は弟を殺した後に一息つき祖父は腕をまくって戦争の銃痕を確かめ父は自殺する直前に、この便所で……。この穴の底には、土俗的な、血族的な、逃れられない無限がある。奔流の音を立てて水が、陶器の肌を洗い流すこともない。おうちに帰るまでこらえ切れず、うんこしないとくちからもどすわよ、先生の脅迫に怯えた憐れなこどもとて、逃れられないのだ。そう、傲岸不遜に涙で訴える我がままなこどもにとってここは、懲罰部屋でもあった。この個室には、時間を越えて、恥辱と憎悪が集中している、この一点に――。ボットン便所の薄い壁一枚隔てた西側の部屋では、祖母が、今まさに死につつある祖母が、二度と起き上がることができず蒲団にからだを侵食されつつある祖母が、幽かな、規則的な呼吸音をたてていたのだ。そんなトイレで、おじいさんは、(電車は6つ目の駅を過ぎる。最後の駅は近い。)――ボットン便所の底にフンを落とすといそいそとふりかえり冷たいつちの上にむきだしの膝をつき尻にこびりついたくそはそのままに先ずはやさしく下からなでて形がととのったら手をまるめ次第につよくはやくはげしく父をも赦す女の慈しみの幻想に抱かれて
 老人はうなだれる。

 7つ目の駅に着くなり、Kは電車を飛び降り、人ごみを掻き分け、トイレに駆け込んだ。イヤホンからは、章の終わりにもう一度、聖歌が流れていた。

 女声ア・カペラで。

《処女マリアよ
そは罪人の鎖を解き
盲人に光を与え
われらの悪を清め、……

 しだいに、よわく……
 

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